懐かしい帽子1
「この写真通りの帽子を作っていただきたいんです」
新田七穂はこう言って話し始めた。年齢は20代半ば、関西一の高級住宅地芦屋市在住という、見るからに品の良いお嬢様だ。
季節は5月。
神戸市乙仲通りにあるサトウ帽子屋のショウウィンドゥにも澄みきった青い空が映っている。オリーブ色の扉を開けて店内に入ってみよう。右奥が来店者の相談を聞くテーブルだ。今、出された紅茶に口もつけず令嬢は話し続けている――
「ここに写っているのは私の祖父母です。祖父は5年前に他界しました。この写真は祖父母の婚約を記念して撮ったものなんです」
写真はモノクロの6つ切りサイズで山田写真館1955年と印字されている。写っている幸せそうな二人。
若者はスーツ――当時流行ったポールドルックスーツ、別名アメリカンスーツ――を見事に着こなしている。寄り添う娘も〈ニュールック〉と呼ばれた最新式のワンピース姿。絞ったウエストとふうわりと広がったスカート、大きな瞳にクロシェ型の帽子がよく似合う。
「その帽子、留学帰りの祖父のお土産だそうです。祖父は戦争が終わるとすぐハーバード大学に留学して、帰国後曾祖父の会社を引き継ぎました。現在は私の父が継承しています」
「素敵なお帽子! おばあ様に大変お似合いですね!」
「ありがとうございます。祖母がなにより気に入って大切にしていた帽子なの」
令嬢は悲し気に首を振った。
「でも、今はもうありません。神戸まつりのパレードを見に行った時、紛失したとか。小磯良平画伯が宣伝ポスターを描いた年の神戸まつりですって。それはともかく――今回、どうして、この写真通りの帽子を作ってほしいか、その理由をお話します」
テーブルの上、ぎゅっと握られた両手。お嬢様の眼差しは切実だった。帽子屋の若きオーナー兄妹は姿勢を正して耳と心を澄ませる。
七穂の祖父・新田正一郎は5年前、急逝した。その妻である祖母・新田洋子の悲しみはあまりにも深かった。葬儀の最中に倒れて、以来、右半身に麻痺が残り会話もおぼつかなくなった。
「一人息子の父も嫁いできた母も、勿論、孫の私も! おばあ様が大好きなんです。世界一のおばあ様なのよ。可愛らしくて優しくて朗らかで、ずっと我が家の中心でした。父は病身のおばあ様が快適に過ごせるようにと離れを増築しました。私と母は、この4年間、おばあ様の婚約記念日にこの写真の帽子と同じものをプレゼントしてきたんです。少しでも喜んでもらいたくて。でも」
写真の祖母とそっくりの円らな瞳を伏せる令嬢。
「祖母は一度も心から喜んでくれなかった――」
「?」
「あ、勿論、祖母は優しい人ですから、懸命に笑ってくれます。でも、わかるんです、無理をしているのが。ぎこちない微笑みは麻痺のせいではありません。それに、何より、今までに私と母が贈った4つの帽子はプレゼントされたその時、一度だけ眺めて、お礼を言って……そのまま箱に戻されクローゼットの奥深く仕舞われる……」
ぐっと身を乗り出して、
「何故だと思います?」
「そ、そのぅ、私たちにお尋ねになられても――」
清流のように澱みなく話す(実際地元TV局のアナウンサー部に就職が内定していたのだ!)一華がモゴモゴと口籠った。漣もうつむいたまま、しなやかな指は膝の上でピクリとも動かない。
「私にはわかっています! 間違っているからよ!」
令嬢にあるまじき大声。一華はビクッと飛び上がった。
「私と母が贈って来た帽子はどれも、祖母が祖父からもらった帽子とは違っているんだわ!」
完璧な再現ではない、だから、おばあ様はあんなに哀し気なんです。七穂は繰り返した。
「どこがどう違うのかを詳細に語ることはもうおばあ様には無理みたいです」
七穂や母が尋ねても首を振るばかりだという。そのうちに祖母の瞳には涙が溢れだす。だから七穂たちはシツコク聞くことはやめた。
「でも、私はあきらめません。母は、今年は別の物を贈ろうと言うのですが、私はどうしてもおばあ様にこの懐かしい帽子を被ってもらいたいんです。そうして、写真みたいな素晴らしい笑顔を取り戻してほしい」
七穂は口を閉ざした。しばらくどう話を続けようか思案しているふうだった。
「こちらのサトウ帽子屋さんは希望どうりの素晴らしい帽子を作ってくださると母の友人の川上さんから聞きました」
「まあ! 川上様……」
川上家は創業以来の得意客である。季節ごとにやってきて帽子を誂えてくれる。
「ぜひ、お力をお貸しください」
丁寧に頭を下げてから、再び身を乗り出す。熱を帯びた声で新田七穂は訴えた。
「私、形だと思うんです。写真に写っていない後ろの部分。そこに〈謎〉があるように思います。どうでしょう?」
改めて写真を手に取って眺める漣。兄に代わって一華が訊いた。
「このお帽子、どんなお色だったかはおわかりになっているんですか?」
「色ははっきりしています」
力強く令嬢は頷いた。
「コバルトブルー! 祖父が祖母に一番似合うと言っていた色。帰国の途上、ブロードウェイを楽しもうと立ち寄ったニュヨーク、そのマンハッタンのバーグドルフ・グッドマンデパートでショウケースに飾られていたこの帽子を一目見て、『世界中で一番似合うのは洋子さんだ!』と思わず駆け寄ったって、祖父は口癖のように言っていました」
―― あの色! あれは洋子の帽子だ……!
「わかりました」
優しくサザメク兄の指を見つめながら一華が返答した。
「ご要望のお帽子、お作り致します」