罪の帽子3
数日後。
閉店間際のサトウ帽子屋。
アトリエの作業台の前に座っていた漣は肩に置かれた妹の手で我に返った。
「にいさん」
―― !
こんなことは珍しい。
漣の場所、作業台の前の壁には鏡が取り付けてあって、そこにアトリエの小窓越しに店のドアとドアベルが映る。だからいつもは店のドアが開いたりドアベルが揺れる微妙な気配が視覚に入って、即座に動き出せるというのに。
ぼうっとしていた?
―― 悪い、ちょっと考え事をしていて。なんだい、オーダーメイドのお客さんかい? 待って、すぐお茶を入れるから。
一華は首を振った。
「ううん、お茶は私が用意する。早く行って。にいさんにお客様よ!」
―― ?
アトリエのドアを開けると、そこに新進気鋭のバイオリニスト、今を時めく高木陽那が立っていた。
「この間は素晴らしいお帽子をありがとうございました。今日は改めてお礼にまいりました」
兄に続いてアトリエから出て来た一華、茶器と紅茶をポットごとテーブルに置いて言う。
「それでは、私はこれで。高木さんのご要望なの。にいさんと二人だけで話がしたいそうよ」
―― え? おい、一華……
「必要があればその時は筆談で、とおっしゃっているから、じゃ、私、失礼するわ。あっと、これだけやったらね」
一華は飛んで行ってサトウ帽子屋のオリーブ色のドアに〈 CLOSE 〉の札を掲げて鍵を閉めた。それからアトリエの内階段から兄を残して去って行った。
流石に当惑する漣だった。
こんな事態は自分たちが店を始めてから初めてである。
「どうぞ、お座りになって」
紅茶を自分で入れながら客が言う。カップを漣に差し出すと深々と頭を下げた。
「御礼とお詫びを申し上げたくて今日はやって来ました」
恥ずかしそうに目を瞬いた。
「私、酷いオーダーの仕方だったでしょう? さぞかし高飛車で礼儀知らずな嫌なオンナだとお思いになったはず。わかっています。そう思われて当然だわ」
首を振る漣に、
「でも、あの時はああでもしないと自分を支えていられなくて。強がっていたけれど、母の不倫相手、恋をした男、一応自分の父である人と対峙することは私にとってとても不安な……弾いたこともない未知の音譜でした」
―― あなたのお気持ちはわかっています。
漣は妹が置いていってくれたメモ用紙にサラサラと記した。
―― ですから、礼儀のない人だなんて微塵も思っていません。
「あの後のこと。その人との面会の様子についてお知らせするためにも、来たんです。帽子はかぶった人で完結する、っておっしゃったでしょ?」
漣は慌てて、
―― いえ、あれは言葉の綾です。そこまでプライベートなことに介入するつもりはありません。無礼なのは僕の方でした。少々意地になって、お客様に失礼なこと、偉そうなことを言ってしまいました。反省しています。どうかお許しを。僕があの日言ったことは忘れてください。
「あら、今更遅いわ! だめよ、最後までおつきあいくださらなくっちゃあ」
音楽家は悪戯っぽく微笑んだ。
「――と言うのは冗談だけど、私がぜひお話したいのよ。だって、あの帽子をね、かぶってると、私は一人じゃないみたいな、とても不思議な気がしたの。なんて言えばいいのかしら? 真っ白い光に照らされているような……あの帽子から静かな紗幕が降りてきて包み込まれているような……」
バイオリニストはクスクスと笑った。
「これ、きっと、暗示にかかってたのね。あなたが『月の帽子』だなんて言うから」
両手を膝の上に置くと高木陽那は話し始めた。
「私、あの帽子をかぶって、その人の前に座りました。
場所はホテルのロビーです。これは私の要望。それ以外の場所はいやだって私が指定したの。そうね、密室は怖かった。
それで――
二人とも何にも云わないでただ互いに見つめ合っていただけ。
ああ、一言だけ。その人は言いました。
『素敵なお帽子ですね。とてもよくお似合いです』
私も一言だけ。
『ありがとうございます』
交わされた会話はそれだけ。
あなたの帽子を褒めてくれたわ!」
―― いや、帽子じゃなく、かぶっていたあなたを褒めたんですよ。
「そうだ、あとひとつ。私は絶対しないだろうと思ったことをしてしまった。
私、その時、微笑んだの。私を見つめるその人に向かって。
その人はただ頷いて私を見つめていたわ。
以上です。本当にこれだけ」
漣の目をまっすぐに見て高木は言った。
「……でも、良かった。その人と会って良かったと思います」
区切らずに続ける。
「その勇気はあなたの帽子がくれました。
フフ、まんまとあなたの魔法にかかってしまった。〈罪〉を〈月〉だなんて。とても上手な編曲ね」
―― いえ、悪あがきのコジツケじゃないですよ。
しばらく考えて、漣は書いた。
―― 月はあなたのイメージだった。始めて見た時、僕はそう思いました。
「月みたいに冴え冴えとしてるからね? 言えてるわ。私、冷たくてキツイから」
―― 違いますよ。〝冴え冴え〟じゃない。
漣は書いた。紙を差し出す。
―― 皓皓。月は皓皓と輝きます。
「――」
「御礼を持ってきました――」
さっと目を拭ってから、高木はバッグからCDを取り出した。
「私の最新のアルバムです。サインも入れてあります」
―― ありがとうございます! 妹と弟が喜びます。皆、あなたのファンなんですよ!
「良かった! それから、あなたにはこちらを。これは誰よりも、あなたに聞いていただきたいの」
―― え? でも、僕は……
高木は席を立ってレジカウンターの前へ行った。事前に打ち合わせてあったと見えて普段一華が使っているPCを操作する。
すぐに高木が指を鳴らすのを漣は見た。
パチン!
「さあ、準備完了!」
この時になってコートを脱ぎだす。そこに出現したのは、演奏会場で見る華やかなドレス姿の高木陽那だった!
美しいバイオリニストは漣の前へ戻ってきた。
思わず立ち上がった漣に、
「漣さん。あなたは今回、私の言葉、(罪)を帽子職人のプロの技を使って翻訳してくださいました」
醜いものを美しいものへ。
私の暗い〈罪〉を明るい〈月〉へ。
「だから私も。私の技で――私は音楽家だから、音楽をカタチに翻訳してあなたにお届けします!」
高木陽那の手が漣の左肩に置かれる。もう片方は手へ。
とてもよく似ている繊細で強靭な白い手がしっかりと繋がった。指と指を絡めて、陽那がまず一歩……
右足、左足、また右足……
―― ……
音楽に合わせてゆっくりと踊りだす、二人。
「曲はレナルド・アーン〈妙なるひととき〉です。私が一番好きな曲。漣さん。あなたに捧げます! お聞きください!」
流れ出す、優しく儚いメロディ。さながら月の滴が零れるような……
C'est l'heure exquise
作曲家レナルド・アーンが大詩人パウル・ヴェルレーヌ の詩に捧げた曲だ。
♪降り注ぐ月の光……静けさに満ちた幸福な夜……
その素晴らしい調べ、音楽のカタチを二人は揺れながらなぞった。
♪真っ白な月……森は輝き……光は大きな枝をすり抜けて零れてくる……
♪ああ! 私の愛するひと……
♪夢を見ましょう……今がそのとき……
♪この妙なるひととき……
「ナニコレ……凄い!」
「ええ、ホントにね。でも――さあ、行くわよ、颯」
アトリエの小窓からこっそり覗いていた妹と弟だった。
「エー! もう少しいいだろ? こんな素敵な光景、そうそう見られるものじゃない! 夢のようだ! いいなー、漣にぃ! ……こうしてみると、お似合いだよね、あの二人!」
「うん、似合ってる。だからね、これから先は大人の時間」
きっぱりと姉は弟に言った。
「それに、これ以上覗いていたら――それこそ私たちが〈罪の子〉になっちゃう!」
曰く、覗きの罪。
「そんな不名誉な烙印、あんたも押されたくないでしょ!」
「あ、そういえば洋の東西を問わず、いるよね、下種野郎……覗き魔……ピーピングトム……出歯亀……って、イテテテテ! わかったよ、耳をひっぱるなよ、一華ねぇ!」
その夜。
乙仲通りにある帽子屋のオリーブ色のドアからは微かに、けれど確かに、いつまでもいつまでも美しい音楽が漏れ聞こえていたそうです。
第八話 《罪の帽子》 ――― 了 ―――
♠https://www.youtube.com/watch?v=vJIz86Mtyek&list=RDvJIz86Mtyek 歌付
♥この曲はなろうユーザー様の榎戸曜子様から教えていただきました。改めて御礼申し上げます。
☆次は《異界への帽子》です。




