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風を感じる帽子1



「自分が無理を言っているのはわかっています。でも、でも、お願いいたします! どうか、私に、風を感じる帽子を作ってください!」


 その客はそう言って深々と頭を下げた。

 港町、神戸のレトロでハイカラな風情を残す乙仲(おつなか)通り。その一角に店を構えるのが大正初期開業のサトウ帽子屋だ。創業は古いが現在店を運営するのは若い兄妹(きょうだい)である。今日もオリーブ色のドアを開け、ドアベルをカラランと鳴らして入った来たひとり……

 年齢は二十歳過ぎ。ショートカットの髪、行員風の制服(ユニフォーム)の上にコートを羽織っている。そのせいでもないが信用金庫がポスターに採用したがるような清楚で可愛らしい娘さんだ。


「私、以前、サトウ帽子屋さんで買い求めた帽子がすごく気に入って今でも大切にかぶっているんです。オーダーメードもやっているとお聞きしました。希望の帽子を作っていただけるんでしょう? だから、だから、ぜひお願いいたします!」

「どうぞ、おかけになってください。詳しくお話を伺いいたします」

 サトウ帽子屋の共同オーナーであり接客担当の一華(いっか)が椅子を勧める。

 ここに座るとすぐに美味しい紅茶が供される。運んで来たその人が帽子職人の(れん)である。真向かいに並んで腰を下ろした帽子屋兄妹に、客は今一度、丁寧に頭を下げてから自己紹介を始めた。

「私、古市(ふるいち)ほのかと申します。すぐ近くの――地下鉄みなと元町前の銀行に勤めています。先刻お話したように以前、こちらでお帽子を購入しました。でも、オーダーメイドは初めてです。それで――」

 古市ほのかはここでスッとスマホを差し出した。柴犬が写っている。

「私の愛犬です。名前はペペ。先月、死んでしまいました。17歳でした」

 両の目にみるみる溢れる淚。慌てて一華が優しいながらもきっぱりとした口調で伝える。

「あの、すみません、古市さん? 当店はペットのお帽子は作っていないんです――」

「わかっています。そうじゃないんです」

 古市ほのかは、水色のハンカチで涙を拭って微笑んだ。少なくとも――微笑もうと努力した。

「今、写真をお見せしたのは、そういうことではないんです。どうか聞いてください。私は実家から通勤しています。小学一年の誕生日にきちんと世話をするからと誓って両親に買ってもらったのがこのペペなんです。以来、17年間、いつも一緒でした」

 ここまで一気に言って、大きく息を吸う。

「ペペは寿命を全うしたってわかっています。でも、私、このペペがいなくなってから悲しくて悲しくてどうしようもない、何も手につかない状態に陥りました。ただ毎日、仕事先と家を行き来するだけ。〈ペットロス〉と言われている症状らしいです」

「ペットロス……聞いたことことがあります。お辛いお気持ち、お察しいたします」

「ペペがいる時は毎日たくさん散歩したのに」

 再び涙が零れた。ハンカチで目を抑える。

「あ、私の実家は神戸市からはちょっと離れた所で、散歩には事欠かない環境なんです」

 ここで当帽子屋の末弟で神戸大文学部在学中の佐藤颯(さとうそう)ならこう説明するだろう。JR神戸三宮駅から電車に乗って煌く海を眺めながら垂水(たるみ)塩屋(しおや)舞子(まいこ)朝霧(あさぎり)……やがて源氏物語で光源氏が放埓な愛ゆえ飛ばされた流刑地、波の音を聞きつつその侘しさに都をしのんで泣き暮らした須磨(すま)明石(あかし)まで……なんと、乗り換えなしで30分ちょっとの距離なんだよ!

 尤も、ほのかは現実的な視点で簡潔に自分の自宅周辺を描写した。

「……電車を降りると住宅街をつなぐように遊歩道が貫いていてその間にいくつも小さな公園があります。更にその先へ進むと小高い丘の上に周囲2キロの人工の溜め池があって明石海峡大橋が一望できます。そこは早朝から深夜までジョギングする人が絶えません。池の周囲は石を積んで美しく整備されているし、周囲には幾種類もの樹木が植えてあって涼しい木陰がどこまでも続いている……

 そこまで行くとペペは喜んで全力で駆け出すんです。リードを持ってついて行くのに必死になります。歳を取って、走る距離は短くなったけれど、駆けだす姿は最後まで変わりませんでした。

 普段はクルッと巻いている尻尾が風に揺れてユラユラ(なび)くの。吹き流しみたいに……!」

 かつて実在した幸福な日常を、今は夢の光景のようにまぶしそうに目を細めて来店客は語った。

「私、ペペと一緒に、それはもう、いっぱい風を受けました。毎日、毎日、体中吹き抜けて行く爽やかな風を感じました。

 でも、ペペがいなくなってから、ちっとも私に風が吹かない。私は風を感じることができなくなってしまったんです」

 両手を膝の上に揃えて、息を整え、この日の客・古市ほのかは言った。


「こんな私に、再び風を感じる帽子を作ってください!」





「……要約すると、つまり、それって、愛犬がいた時みたいに〝外へ出る元気を取り戻せる〟そんな帽子が欲しいってことだろ?」


 大学から帰宅したサトウ帽子屋の次男坊・(そう)はグルリと目を回して言った。

「ひぇー! それにしてもえらく難しい要求だな! どうもウチの帽子屋の来店客は勘違いしてるんじゃない? 漣にぃは腕のいい帽子職人ではあるけど、魔法使いではないんだからさぁ!」


 ―― そりゃそうなんだけど。懸命に訴えるお客さんの顔を見てると、『無理です』とは言えなくてさ。


 兄の指が音楽を奏でるように優しく囁く。


 ―― なあ、颯、いつものように力を貸してくれよ。僕にはおまえのアイディアや助言が必要なんだ。おまえが読んできたたくさんの本の中で、何か、「これは!」と思うような話はないかい?


「ヘヘッ、連にぃにそう言われると僕も『無理です』とは言えないや!」

「何よ、偉そうに!」

「いてっ」

 ベランダから取り入れた洗濯物を抱えた一華。通り過ぎる際ポンと弟の頭を叩いて行った。

 大げさに頭を押さえてソファに倒れこんだ颯。だが、すぐに座り直して考え始める。先刻までのおどけた態度とは裏腹にその瞳は真剣そのものだ。本好きの文学マニアで、将来、ゼッタイ作家になりたいと思っている帽子屋の末子は、自分の趣味の読書で兄の役に立てることが物凄く嬉しいのだ。

「うーん、犬、犬、イヌ……死んでしまった犬と聞いて僕が思い出すのは――」



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