派手な帽子1
☆ようこそいらっしゃいませ。
〈chapeau サトウ〉というお洒落な看板が掲げられている場所をご存知ですか?
神戸市は乙仲通りにある3階建てのビルヂング。間口は狭いながら創業は大正の初めに遡る老舗の帽子専門店です。
乙仲通りという名が変わっている? 説明しましょう。
この地域は維新の開港以来、海運貨物取扱業者が多く住んでいました。戦時体制に突入した昭和14年、政府はこの地の業者を纏めて〈乙種海運仲立業〉と命名。以来「乙仲さん」として親しまれ、通りの名としても定着したのです。平成20年の春からは道路の愛称として公式認定されています。地理的には中央区の〝栄町通〟と〝海岸通〟の間を東西に貫いていて、中華街の南京町やポートタワー、神戸海洋博物館にも近いです。このいかにも古い港町らしい通りに昨今はお洒落な専門店、カフェやアトリエ、オフィスなどが軒をつらねています。その中の一軒がサトウ帽子屋なのです。
幸い阪神大震災でも倒壊を免れ、その後、耐震補強を施し、内装も一新しました。
一階は店舗、2階は賃貸アパート4室、最上階にオーナー一家が住んでいます。
この帽子屋のオーナーがまだ若い20代の兄妹と聞いたら――どうです? グッと興味をそそられませんか?
古い看板は住居のリビングに飾って、デザインは同じながら真新しい看板に変えたのは5年前、兄妹が新オーナーになったその日のことです。これには少々悲しい経緯があって……
兄妹の両親、先代の経営者夫婦が旅行先のフランスで交通事故死したのです。洋装専門学校を卒業して父の助手を務めていた長男と、某TV局のアナウンサー部に就職が内定していた長女が(それを蹴って)店舗を継ぐを決心しました。佐藤家にはもう一人、次男がいて、両親が亡くなった時高校生だった末子も現在は神戸大学文学部に通う大学生。こちらは将来作家になるのが夢という大の読書好き、文学マニアです。
おっと、名前の紹介がまだでした。
さざ波が煌めき、花が一輪咲いて、サァッと吹き渡る爽やかな風……
いかにも明治開港、ハイカラな文化都市に似合う絵画的イメージの3兄姉弟の名は、
上から 漣・一華・颯。
前置きはこのくらいで、では、店舗の中を覗いてみましょう――
と、今しも一人、客らしき人がオリーブ色のドアを押したようです。
♠
カララン。
軽やかなドアベルの音。同時に一華の明るい声が弾けた。
「いらっしゃいませ!」
だが、この一声のみ。サトウ帽子屋は御客を追いかけ廻したりはしない。どうぞご自由にご覧ください。
店内は漆喰の壁に寄せ木細工の床。中央のカウンターの奥に〈帽子制作場〉の扉と小窓が見える。全体に中世の修道院を思わせる造りだ。この内装に、無機質な白い台が中央と左壁面に設置されて、そこに色とりどりの帽子が咲き零れている。初めてのお客も、代々の贔屓客も口を閉ざして、さながら自身がチョウチョになったごとくうっとりとこの特別の花園を飛び回るのだ――
が。今しがた入って来たその客は違った。飾られた帽子たちには見向きもせずに、キュッと口を引き結んで一直線にカウンターの奥に立つ一華の元へやって来た。
「あの、私……こういうお店初めてなんです。ここはこちらが望んだとおりの帽子を作っていただけるんですよね?」
「はい。当店はお客様ご要望のお帽子を真心を込めて作らせていただきます」
「ああ、良かった……」
よほど緊張していたのか、安堵の息が漏れる。そんな来店客に一華は微笑んで腕を差し伸ばした。
「どうぞ、こちらへ」
店内右側の壁沿いにアンティークテーブルと椅子が4脚置かれている。
「ゆっくりお話をお聞かせください」
「えーと……形はシンプルでいいんです。望むのはただ一つ、ひときわ目立つ、派手で、人目を引く帽子を作ってほしいんです」
腰を下ろすや身を乗り出して語り始めた客。ここで影が揺れてティーカップが置かれた。
「どうぞ」
一華が勧める。
鼻腔を優しく擽る香りはフルーツガーデン。トワロードの紅茶専門店ラクシュミーのフレーバーティだ。とはいえ、客はどちらに驚いたのだろう? 馨しいお茶か、運んできたその人か。
長身白皙の青年が静かに会釈した。
すかさず一華が紹介する。
「こちらが当店のオーナー兼デザイナー兼帽子製作者の佐藤漣です」
続けて、
「申し遅れました。私は共同経営者の佐藤一華と申します」
あれほど急き込んでいたお客がうっとりと目を潤ませた。
「まあ、素敵! ご夫婦でこのお店をやっていらっしゃるんですか?」
「いえ、私たち、兄妹です」
これはよく言われるので慣れている。多分、二人の雰囲気が違っているせいだろう。色白でほっそりしている処は似ているのだが。妹は漆黒の髪。キリリとした眉で女剣士のようだ。これならどんな嵐にも負けずに咲き続けるだろう。一方、兄は、金茶色の髪、伏し目がちな目。柔和な微笑もどこか儚げだ。
兄と妹は並んで腰を下ろした。
紅茶を一気に飲み干した客が時間を惜しむようにバッグを開ける。
「布を――好きな布を持ち込んでもいいとHPで読んだんですけど」
「もちろんです。お持ちの布でどのようなお帽子をご希望なのか、そのイメージについてどうぞご遠慮なくお話しください」
流石はアナウンサー志望だけあって一華の言葉は清流のように流れる。
「私たちはお客様が納得なさいますよう、十分にお話をお聞きして、ご満足いただけるお帽子をお作りいたします」
「布はこれです。最初に言った通り――形はシンプルでお願いします。希望する点はただひとつ。一際目立つ、派手な、人目を引く帽子です」
「!」
サトウ帽子屋経営者兄妹は刹那、息を飲んだ。
何という鮮烈な橙色!
なるほど、これなら、形はシンプルでいい。この布だけで客の要望通りの、一際目立つ、派手な、人目を引く帽子ができる。
「お美しい布ですね!」
一華の賛辞に客はポッと頬を染めた。
「……婚約者からのお土産なんです。彼、大手商社勤務で、イタリア出張から帰国したばかりなの」
これで帽子を作ったら絶対に似合うよ! でも、派手すぎない? そんなことあるものか。君は自分を過小評価しすぎる。自信を持てよ。きっと似合うよ! それにいい機会だ、新しい自分に生まれ変わる一歩にしてほしいな。
「わかってるんです。私は地味な女の子だから」
確かに。眼前の客は、髪を無造作に一括りにして、味もそっけもない黒縁の眼鏡。お世辞にも華やかとは言い難い。でも、眼鏡の奥の瞳はキラキラ輝いて聡明そうだ。そばかすの頬は優しさに溢れている。
「少しでも華やかになってほしいって、彼、願ってるんだわ。それで決心しました。彼のためにもお洒落な人になろうって。いきなり服なんかだとハードルが高いけど、帽子なら……」
「ええ。お帽子は魔法の道具です。被るだけで、一瞬でその日の気分やご自身の雰囲気、心まで変えてくれます」
そしてまた、被った人の目にもそれまでと違った風景を映してくれる。新しい世界が動き出す……
「それで――いつ頃出来上がりますか? できるだけ早く仕上げてほしいんです」
イメージチェンジを心に喫する客の意気込みが伝わってきた。
普通ならいくつかデザインを提示して修正点を細かく確認したりするが今回はデザインはシンプルで全てお任せという。
妹は兄を振り返った。その兄、2本、指を立てる。帽子製作者らしいほっそりとして繊細な美しい指だった。
妹は客に視線を戻した。
「2日あればお手元にお届けできます」
「2日ですね? では、よろしくお願いいたします! 私、取りに来ますから!」
頭のサイズを採寸し、注文カードに必要事項を記入し終えると客はそそくさと店を出て行った。
その顧客情報によれば――
客の名は古賀純夏、29才……
「古賀さん、凄く急いでいるみたいね。でも、大丈夫? 2日で出来上がるの、漣にいさん?」
一華の質問に漣が頷くのとほとんど同時にまたドアベルが鳴って、飛び込んで来た人影。
「なにあれ、今すれ違ったけどウチの店から出て来たね? 新しいお客さん? 今まで見たことない人だな」
「お帰りなさい、颯。今日は早いのね?」
これが次男坊の佐藤颯だ。末っ子も兄とよく似た金茶色の髪。長い睫毛と涼しい目元の中々の美少年である。
「午後の講義が休講になったのさ。それより――わーお、凄い色だね!」
テーブルの上に広げられた布に目を瞠る。
「ええ。これを使って『派手な帽子』と言うのがお客様のご要望なの」
布を撫でながら静かに微笑んでいる兄に弟は声を掛けた。
「ふうん? 漣にぃ、もう形は決めてるみたいだね? でも、参考までに、僕にもヒトコト言わせてよ」
帽子屋の末子はペロリと唇を舐めた。
「僕はこの帽子を見たことがあるよ。コレ、《幻の女の帽子》だ!」
顔を見合わせる兄と姉。
「なにそれ?」
「やっぱりな! 二人とも知らないんだね? 作者はウィリアム・アイリッシュ、発表年は1942年。江戸川乱歩も絶賛したミステリー史に燦然と輝く名作だよ」
得意げに語りだす次男坊だった。
「妻殺しで死刑判決を言い渡された若者が探し求める正体不明の謎の女! 自分の無実のアリバイを証明する唯一の証人こそ《幻の女》なんだ。妻が殺されたとされる夜、一緒に過ごしたその女は、名も住所も知らない。顔つきさえ朧だ。唯一の手掛かりは女が被っていた帽子なのさ。それが……まさにこれ、この色! オレンジ色の帽子だった!」
いったん息を吸って、
「『普通ではないのは女の帽子だ』とアイリッシュは書いているよ。
形、大きさ、色、『パンプキンにそっくり』だってさ! 『こんな色の帽子をかぶる女は千人にひとりもいないだろう』……」
「まあ! 本ばかり読んでる颯らしい意見ねぇ」
苦笑しつつも一華は漣を振り返った。
「どう? 漣にいさん? 帽子作りのイメージの参考になった?」
漣は頷いた。その名の通りさざ波のように美しい指を揺らして、
―― 颯、ありがとう。その《幻の女》について、もっと詳しく教えてくれないか?
「やった! そうこなくっちゃ! 僕の本好きも捨てたもんじゃないだろ?」
―― 捨てたものどころか、いつも大いに役に立つよ!
漣は生まれつき耳が聞こえなかった。従って、喋るのは苦手だ。だが、音ではなく揺蕩い流れる無音の調べ、淀みのない舞踏のような指が彼の言葉を奏でる。
そして、同じその繊細な指から生まれる創作物は素晴らしい……!
生前、両親も絶賛したサトウ帽子屋長男の帽子の腕前だった。
こうして読書家の弟の話を参考に2日後、その帽子は完成した。約束通り取り来た古賀純夏も出来上がった帽子を手に取って感嘆の声を漏らした。被った姿は最初に恋人に見せたい。そう言って、満面の笑顔で代金を払い、一華が丁寧に納めた箱を抱えて出て行った。
入って来た時と同じ楽し気に響くドアベルの音を残して。
カララン……
普通ならここでお話はエンドマーク。
だが、今回はそうはいかなかった。悲しい結末が待っていたのだ――
「この帽子を作ったのは、漣さんですか?」
♠《幻の女》 ウイリアム・アイリッシュ・著 /黒原敏行・訳 (ハヤカワ文庫)