150年後の七夕
遊言会用描き下ろし短編です。
7月の課題テーマは夏休みでしたが、急遽七夕も書けるでしょという無茶振りが(ヽ´ω`)
以前調べていたネタを下地に軽快なトークで味付けしてました。
「ごくたまに、自分が定温動物であることが憎らしくならない?」
一発やった後の第一声がそれってどうなんだろう、と僕は思った。
「例えば高温に適合した人類と、冷温に適合した人類。それら二種類で住み分けをして、夏と冬の間はそれぞれが狩りをして食料を確保して、それをお互いの休眠期に融通し合うの。そうすれば一年中お互いがハッピーになると思わない?」
「うーん。結局争いになるんじゃないかそれ?」
ベッド上で毛布にくるまったまま、僕は彼女のなめらかな背中を見つめた。寒くないのかな、などと思っていると、「へっぷし」なんて変なくしゃみを一つ。ベッドランプに照らされた彼女の輪郭が震えている。僕は自身も身震いしながら、彼女を毛布の中へと引っ張り込んだ。
「カラダ冷た! 寒いんなら無理するなよ!」
「私って冷血動物だから」
「変温動物って言いたいのか?」
「いいえ。変温動物の類語であるところの冷血動物という意味ではなく、心が冷たい動物という意味よ」
「馬鹿言うな。僕が好きになった女はあったかい心の持ち主さ」
「……随分と嬉しいことを言ってくれるのね」
「もちろん。ほら、肩が出てるぞ。もっとくっつけよ」
「ええ……」
「痛って! 何すんだ!?」
「ちょっとあなたの血をいただこうかと」
「血? なんだってそんな……おー、痛え」
「知らないかしら、吸血鬼って。主食が人間の血液らしいわよ」
「それって、大厄災以前の生き物か?」
「ええ、そうらしいわ」
「変わった生き物だな。他人の血なんて飲んでも美味しくないだろうに」
「そう思ったから、好きな男の血なら美味しいかと思って。あら、少し血が滲んでるわよ」
「お前が思いっきり噛んだんだろ!」
「いい機会だから治療がてら舐めてあげる」
「うわ」
今まで遠慮がちだった彼女が僕に体重を預けてくる。
僕の胸の上で柔らかいものがふたつ、潰れる。
どうして女という生き物はこんなに柔らかくて、温かくて、頼りないんだろう。
「不味いわね。ぺっ」
「僕の血を返せ!」
「平気よ、かすり傷だったわ。破傷風予防の薬は使わなくても大丈夫そう。そのかわりほら、また舐めてあげる」
「ひゃあああ! やめろ、どこを舐めてる!?」
「どこって、口に出しては言えないところよ」
「そこは僕の鼻の頭だ! やめろ、僕を食べる気か!?」
「そう、メスのカマキリのように食べるわ」
「は? かまきり……なにそれ?」
「あなた本当に体力馬鹿なのね。今後もせいぜい餌を運ぶオスの役割を全うしなさい」
「それは……当然そうするさ。もちろんだ。毎日飯作って僕の帰りを待っててくれよな――って痛え!」
「あら大変。お鼻が真っ赤よ?」
「お前が噛んだんだろ! 照れ隠しの度に僕にDVするのはやめろ!」
「DV? なにかしらそれ?」
至近距離で真っ白い歯をカチカチ鳴らし、彼女が僕の瞳を覗き込む。
暴力的な彼女なのに……ちくしょう、可愛いじゃないか。
「DVってあれだ、大厄災以前にあった言葉で、えーっと、好きな相手の前でわざと嫌われるようなことをする女、のことだったかな」
「馬鹿ね。それは『ツンデレ』というのよ」
「え、そうなの?」
「ちなみにDVはドメスティック・バイオレンスの略よ。配偶者、もしくは恋人などから振るわれる暴力のことね」
「合ってんじゃん! 僕、今暴力振るわれてたよね!?」
「何言ってるの? これは愛情表現よ」
「猟奇的すぎんだろ!」
「ちなみに、カマキリというのは、交尾のが終わると用無しになったオスをむしゃむしゃ食べる生き物のことよ」
「恐い! 雌は愛情の欠片もないのかよ! 雄は生殖に命かけすぎだろ!」
「私もあなたを食べて、生まれてくる子供のための糧にするわ」
「とんでもない女を好きになってしまったー!」
つくづく、10年来の恋心を成就させた恋人同士がするピロートークではないなと思った。
* * *
「静かね」
「ああ、静かだな」
「でも、あなたの心臓の音はうるさいわね」
「しょうがないだろう。す――……おまえと一緒の布団で、しかも裸で寝てるんだから――わかったわかった、もう言わない。言わないから歯をカチカチ鳴らすのはやめてくれ」
「あら、それはそれで面白くないわね。一度ヤッたら愛は冷めるというの? 二度と再び私に好きだとは言ってくれないつもりかしら?」
「言う度に目に見えるところに歯型をつけないと誓ってくれるならいくらでも言うぞ」
「それは無理な相談ね」
「なんでだよ! ……ああ、もう本当に、僕がおまえを娶れてよかったよ。他の男なら絶対嫌われてるぞ」
「他の男にはこんなことしないもの。私の噛み癖を知っているのは、あなただけ。今も昔も、あなたで最初で最後よ」
「そうか……あれから10年、経つんだなあ」
僕らがまだ出会ったばかりの頃、僕は『狩人』としてはまだまだ訓練中で、彼女は――彼女を始めとした生殖能力を有する女の子たちは、それこそ安全なコロニーの中でただひたすらに己を研鑽することに教え込まれる。
即ち、良き母になるために、己を高めること。
性知識はもちろん、生理周期から、妊娠、出産までの全てを、物心つく頃から徹底的に教育されるのだ。
大厄災から150年。
男は厳しい外の世界でただひたすらに食料を狩り続け。
女はそんな男の庇護の元、次代に子を残す畑として、大人たちの管理の元、一切の生殖をコントロールされる。そして生まれてきた子供に教育をするための教養を施される。
「出発はいつなのかしら?」
「うん、ちょうど一月後、のはずだ」
「一月後……今度は炎天の世界に行くのね」
「ああ」
僕達の住む世界は、熱いか寒いかしかない。
すべてを灼き尽くす業火の昼が半年。
そしてあらゆる生命を許さぬ極寒の夜が半年。
季節と言うものが消滅し、一日という概念が一昼夜を表す言葉だとするなら、今や一日とは一年のことを指す。昼と夜が半分個ずつ、それぞれが半年間も続く世界。それが僕らが生まれた世界。終わってしまった世界。
全ては地球が静止したあの日。
突如として空に黒い太陽が現れた150年前に遡る。
* * *
大厄災。
地球の自転が停止へ向け減速を始めた日。
あるいは、赤道上の自転速度、約1700キロがほぼゼロになるまでの一年間に起きた災害の全てを指す言葉だ。地球環境の激変に伴う災害は、当時の人口80億人を百分の一にまで減少させた。
僕のような学のない人間でもその一年の間にどのようなことが起きたのか。今を生き、未来へ歴史を伝えるために徹底して学ばされる。大人たちは口をそろえて言う。かつて地球は回っていたのだと。回っていない今のほうが異常なのだと。そう過去を懐かしむように、まるで再び動き出すことを期待するかのように口にし続けている。
地球の回転――自転速度が遅くなると、まずは赤道付近にあった海水が南北それぞれの極点を目指して大移動を開始する。地球が回転することで、海水を赤道に引っ張り上げていた遠心力が消失するためだ。従って、大移動を開始した海水によって、それまでの陸地――内陸部も含めた沿岸部の都市は、例外なく海の底に沈んでしまう。
さらに恐ろしいことに、移動をするのは海水だけではない。液体の動きに引っ張られるように、大気も一緒に移動をするのだ。赤道から極点へ。つまり緯度の低いところから高いところへと、人類の呼吸に適さない、無酸素地帯が拡大していった。これにより、水害を免れた僅かな人々が、陸地に居ながら続々と窒息死したという。
さらに、地球の中心核――コアの回転によって発生していた地磁気が消えると、有害な太陽光線が地表へと直接降り注ぐことになる。また地球自転の慣性力により、マントル層と地殻層との摩擦が発生。巨大地震も群発した。コリオリ効果の消失から雲、風、雨といった気象パターンも消滅した。
そして最終的に一日は一年になった。
自転が停止しても、公転は続いていたからだ。
地球は一年をかけて太陽の周囲を回り、東から昇った太陽が半年をかけて西へと沈む。中天に差し掛かった外気温は60度にも達し、太陽が沈んだあと半年も続く夜は、マイナス40度にもなる。一昼夜を一日と読んでいたのははるか昔のこと。今ではそれは一年のことで、昼と夜とが半年ずつ繰り返されることをいうのだ。
これから先、未来永劫。地球が再び自転を開始しない限り。
昼と夜、夏と冬、雨季と乾季を、星の寿命が尽きるまで交互に繰り返していく。
そんな過酷な世界に残された数少ない生命居住可能領域に僕たちは暮らしているのだ。
*
「一ヶ月後……凍てつく夜が終わる182日目、その日はかつて、なんて呼ばれていたか知ってる?」
あれから何度、僕と彼女は交わったことか。
コロニー内で選ばれた最高の雌雄として、僕らには子供を作る義務が課せられている。
150年という月日は、地球環境の荒廃と引き換えに、人類に進化を齎した。
それが新世代である僕や彼女のような人間である。
男は外に出て獲物を狩り、女は家を守り子を育てる。
そんな有史以前には当たり前にあった生活に適合するため、先祖返りを起こしたのが僕達だった。
僕らの食料とはコロニー内の菜園で育てられている栄養価の低い野菜と、唯一の動物性蛋白質、即ち海で獲れる魚類である。極寒の夜の間中、冷たい海に住む魚たち、たらや鯖、マグロなどが僕達の主食となる。陸地がなくなったことで、海はかつてないほどの栄養に満ちて、魚の量だけは豊富になっていた。
そして、僕を始めとした男たちには、かつての科学文明が持っていたという魚群探知機に似た察知能力が備わっている。特に僕はそれが秀でているらしく、海の上で効率的に魚を捕らえるための罠は、僕の能力無くしては完成しない。
対して彼女を始めとした女性たちは基礎代謝が効率化され、少ない食料で生きていけるという、非常に燃費のいい生態へと進化していた。大厄災以前の人類で一日三食が必要だったのに対し、彼女たちは三日に一食で生きていくことが可能なのである。
「なんだろうな、旧暦に関係のある日かな?」
そして、僕と彼女は幼馴染である。
お互いに一目惚れというやつだった。
だが、例え将来を誓いあった間柄だったとしても、その願いが通じることは決してない。生殖行為の相手は、大人たちに厳格に管理され、そこに自由など存在しない。優秀な雄と雌が交わり、子を成すことは当然の義務であり、次代に生命を繋ぐ正に生命線なのだった。
だから、僕と彼女は必死に努力をした。
10年という時間をかけて、お互いの優秀性を大人たちに見せつけ続けてきた。
そうして僕はついに、自分の望む雌と番う権利を得た。
指名は当然彼女と、心に決めていた。
「七夕、というらしいわよ」
僕が手に入れた時間は170時間。
すべての男たちが夢にまで見る特権、Aランクの生殖権である。
僕は持ち時間の許す限り、コロニー内の生殖可能な女の子たち全員と番う権利が与えられている。優秀な遺伝子を残すためには必要な権利であり、僕がその気になればハーレムを築くことだってできたのだ。
でも僕はそれをしなかった。
そんなことには興味がなかった。
僕は持ち時間のすべてを、たったひとりの女の子に捧げることにした。
周りからは非効率的なことをするなと止められたし、馬鹿なヤツだと後ろ指も刺された。
でも、僕が純愛を貫くように、彼女もまた僕への純愛を貫くため、多くのモノを犠牲にしてきたと知っている。
生殖可能な女性は、通常妊娠するまでに複数の男と関係を持つのが理想とされている。彼女は当然のように、その定説を蹴った。自分が決めたひとり以外とは絶対に番わないと。左手首に幾重にも残る痛々しい切創も、今日この日のために、彼女が自ら負った覚悟の証だった。
「たなばた? それはなにか意味がある日なのか?」
「私もよくわからないけれど……なんでも願い事を書いておくと叶う日、らしいわ」
「ああ、それってあれだろう、赤い服を着たじいさんがプレゼントを配るっていう」
「それはクリスマス。赤い服を着たおじいさんは、不法侵入で射殺されたらしいわ」
「夢も希望もないな!」
「うるさいわね。頭の上で叫ばないで。はむ」
「痛っ! 僕の全身を歯型だらけにする気か!?」
お互い幾度となく絶頂を体験し、精も根も尽き果ててなお、離れることなど考えられなかった。触れ合った部分から溶け合い、いっそひとつの生き物にでもなれればいいのにと、本気で思う。僕は薄暗い天井を、彼女は僕の腕の中で。双方の体液に塗れたまま、しっかと抱き合う。とりとめのない会話の応酬は、もう何時間も続いていた。
「ねえ、あなたなら、七夕に一体何を願うの?」
「そりゃあ……おまえと、その、生まれてくる子供の健康を願うよ。妊娠してるかどうかはわかんないけど」
僕の胸の上でうつ伏せになり、彼女が自信たっぷりな笑みを浮かべる。
「安心してちょうだい。絶対に妊娠してるわ」
「いや、確実なことはわかんないだろ?」
旧世界では子供は天からの授かりものと言われていたくらいだし。
「絶対にできてるわ。あれだけ膣内に出したんだもの」
ジトっとした視線。いくら好きな子でも生々しい発言に若干引く。
「おまえ、そういうこと言うか? もっと慎みをだな……」
「出したくせに」
「いや、はい。すみません。出させていただきました。でも――」
「泣いて嫌がっても聞いてもらえず、私を無理やり押さえつけて、血が出るのも構わず女の一番大切なものを強引に奪ってくれたわよね?」
「ちょっと待て。これって和姦だよね? 僕らちゃんと好きあってるし、合意の上でこういうことしてるはずだよね!?」
ちなみに僕らのコロニーで強姦は死刑だ。子供を成す目的以外、愛を確かめ合うなんてのは二の次、そして欲望を満たすための生殖は極刑が当然となっている。
「避妊もなにも一切せずに抜かず休まずの十連発……私の奥に注いで満たして溢れさせて、それでも満足できないあなたはついに私の不浄の穴にまで毒牙を伸ばして……」
「言うに事欠いてさも僕に特殊性癖があるみたいな解説やめてくれませんかね!」
「でも私の中に十回も連続で注いだのは否定しないのね?」
「う。確かに、正確な回数は覚えてないけど、それくらいはしたかもしれない」
「安心してちょうだい。十回というのは嘘よ」
それは良かった。いくら長年の恋が実ったとはいえ、さすがに連続でなんて彼女に負担が大きすぎるだろう。
「正確には十六回。これで妊娠してないという方がおかしいわ」
「あいすみませんでした!」
土下座した。
女が何か面倒を言い出したら謝り倒せ。
先人たちは偉大な処世術を残してくれたものである。
彼女は頭を下げる僕の対面で腕を組み、満足そうに頷いている。
そして「最優秀な畑である私に、最優秀であるあなたが胤を注いだのだから、当然のことよ」と宣うのだった。
「そうか。ならしっかり、元気な赤ん坊を――僕の子を産んでくれ。頼んだぞ」
そう告げた途端、彼女が抱きついてくる。
強い力で僕の首に手を回してくる。
その肩は小さく震えている。
寒さによるものではなかった。
「産んで欲しかったら、無責任に放り出すことなんてしないで、これからもずっと私の側にいればいいじゃない。なのにどうして――」
「ごめん、もう決めたことだから」
「ばか……」
僕は一月後、旅立つ。
半年ぶりに冷たい夜が明け、灼熱の太陽が地表を灼くその世界で、前人未到の『グレート・サークル・ワン』を目指す調査隊に参加するのだ。
『グレート・サークル・ワン』
それはかつて赤道と呼ばれていた中緯度に広がる、地球の横腹をグルリと一周する推定四万キロの巨大大陸のことだ。
極点に海水が集中したことで誕生した未曾有の大陸は、南北に広大な海を要し、海抜は恐らく平均数千メートルはあると予想されている。僕達が命をかけてそこを目指すのは、飽くなき探究芯などではなく。もっと切迫した事情のためだった。
「行ってくるよ。おまえと、生まれてくる子供のために」
すべての文明が破壊しつくされた世界。
それでもわずかに生き残ったロストテクノロジー――現代では到底再現不可能な――を駆使して、僕らは今の生活を維持している。そんなロストテクノロジーを維持するのに必要な資源、天然エネルギーや希少金属、希土類。それらが今の僕達には決定的に不足しているのだ。
グレート・サークル・ワンは有害な太陽光が最も強く降り注ぐ公転軌道の直下にあり、また広大な無酸素地域が広がる地獄と言われている。だが、今の僕らには海底を浚って資源を探す海洋土木技術などなく。かつては海の底だったグレート・サークル・ワンを目指すほうがまだ望みが持てる。予想では、海抜の低くなっている地形では、酸素が残っている可能性も示唆されていた。
「片道最低五年。調査と往復でさらに十年、かな」
「帰ってくる頃には、生まれた子供はとっくに成人しているでしょうね」
「それでも、誰かが行かなくちゃ」
「わかってる。お互い優秀すぎて嫌になってしまうわね」
「後悔はないよ。おまえと過ごした一週間は生涯最高の時間だった」
頬に触れる。まるで惹かれ合う磁石のように自然と唇を重ねる。
「誓うわ。私はあなただけのもの。もし番いたいという男が言い寄ってきたら……」
「引っ叩く?」
「潰すわ。一部分を」
「さすがに気の毒すぎる!」
かつての世界には、結婚という制度があったという。
男女がお互いだけを伴侶とし、生涯違えることなく添い遂げ合う。
現代では決して許されるはずもない、非効率極まりない制度である。
「でも、疲れたよ。さすがに」
「抱いた女を前にして、その言いぐさは失礼じゃないかしら」
「ごめん、でもおまえもクタクタだろう?」
「いいえ。全然平気だわ。なんといっても、これから生まれてくる子供の分までがんばらなければならないのだから」
「強いなあ女性は。それともおまえだけが特別なのか?」
「子供を身ごもれば誰でもそうなるわ。そうね、これは女だけの特権かもしれない。――あッ!?」
「どうした、急に大きな声出して!?」
「今お腹を蹴ったわ」
「ねーよ!」
僕たちは笑いあった。そして婚姻を誓いあった。
人類という種を存続させるため。
大事な女と子供を残し、旅立つために。
そうして、楽しい楽しい逢瀬の時間も終わりの時が近づいてきた。
「思い出した。七夕って、離れ離れになった男と女が出会えるという伝説があるんですって」
「へえ」
「というわけで早速」
「まてまて! 僕の胸にナイフを突き立ててどうするつもりだ!?」
「大切なものには名前を書こうって初等教育で習わなかった?」
「七夕の話をしてたんだろう僕らは。それにお前の噛み跡だらけで名前彫るスペースなんて僕のカラダのどこにもないよ」
「うっかりしてたわ」
「うっかりじゃねーよ。幾つかは絶対痕が残るぞこれ」
「大切なものだから、噛みました」
「素直に喜べない……」
紙資源は超貴重品なので、僕らはお互いの持ち物に名前を彫り合い、願いを託すことにした。なんの色気もない識別プレート。それの片隅に、ハッキリとわかるよう、名を刻む。多分絶対間違っているんだろうけど、それが僕達の七夕のお願いとなった。
そして間もなく。
厳重な施錠を外して、僕らは籠城していた部屋から外に出た。
ふたりにはもう自由なんてなかった。
同期生たちの歓声と大人たちの怒号。
僕は大人たちの決定に従わず、たったひとりの女としか番わなかった罪で。
彼女もまた大人たちに逆らい、たったひとりの男としか番わなかった罪で。
それぞれが専用の独房へと放り込まれた。
まあ彼女は妊娠している可能性があるので手荒にはされまい。
あ。子供の名前くらい、考えておけばよかったなあ。
* * *
『全員耐熱スーツ装着。サーモスタットのバッテリーを忘れるな。酸素ボンベの残量に注意すること。キャリアー部隊が橋頭堡を構築次第上陸――いや、登頂を開始する!』
目の前に聳えるのは壁。
かつては海の底だったはずの陸地。
否、大山脈である。
今は太陽光を遮るありがたいひさしも、一歩中に踏み入れば、僕らを逃がさない牢獄と化す。150年前に現出した、世界で最も新しい山脈は、来るものを拒むように僕らの前に鎮座していた。
「さて。でっかいお土産もって、さっさと我が家に帰りますかね」
前人未到の領域へ偉大なる一歩を僕は踏み出した。
読了ありがとうございます(≧∇≦)/