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絶望

今読み返してみるとヘタクソですねえ

アキラは今度こそ家に向かうため、車に乗せてもらっていた。

 あの後、気まずい雰囲気の中、静流が拘束を解いて、恥ずかしいことではないとアキラを励ました。ほぼ初対面の人間にサディスティックな一面を見せてしまったことを多少反省しているらしい。

 御門は一言挨拶を述べると、待たせていたのであろう別の車でさっさと引きあげていった。

 そしてアキラは今、きちんとした自己紹介も兼ね、今回の経緯について車の中で多少の説明を受けていた。家にも既に連絡してくれていたらしい。

彼女、崇岬静流は、私軍関連法上の法人に勤務する準公務員とのことだった。

 

 TIとは別に身分証を所持していたり、他人のTIの身分情報を照会出来たりと、一定の捜査権を有する公務員かと思っていたが、やはり近いところをついていたらしい。そして静流は私軍関連とかよくわからないことについても大まかに説明してくれた。

 私軍関連法とは、二〇一一年の通常国会において、与野党共に賛成した「私設軍事的実力を保持する社団の設立及び運営に関する法」をいうらしい。

立法の背景としては、第二次朝鮮戦争に端を為す極東亜戦争、その傷による半島の政情不安や、泥沼化の一途をたどる中国の内紛があった。

 

 これらの不安定な事情により早急な国防力の回復が急務であったが、いっても日本も戦後三年、早々に国防力が回復するわけがない。

 そこで苦肉の策として提出されたのがこの法案であった。退役した自衛隊員や、高度な技術を有する軍人を招いて人的資源不足の解決にあたろうとしたのだそうだ。

 もっとも、あまりに厳しい設立条件や、遅々として進まない施行令の制定、それによって、当時この法律が運用されることは無かったらしい。

 ところが二〇二二年の通常国会にて、死んでいたこの法律が警察法や警職法その他の関連法案の特別法としてひっそりと大幅改正され、少し別の目的で運用されるようになった。一定の警察権その他権力を有する第三セクターの誕生だ。

 

 そしてその第三セクターの舵を切るのは、今や、対テロ・対工作活動等に関する国内治安維持の全権を有する『公安警察』と、戦後解禁となった兵器産業によって一躍世界最大規模のコングロマリットとなった丸菱。もう少し正確に言うと、その丸菱グループの中で既に独立しているとも揶揄される程の強権を誇る『丸菱重工』。もはや国内では無双状態の巨大経済組織だ。

 彼らが運営する私軍関連法人は現在四つ存在している。といっても、各社、責任者は公安からの出向一人、丸菱重工から数人の技術者、その他職員が数人という構成だというのだから、事務所レベルの小規模な組織なのだろう。


 そしてその職務内容は、能力者の探査・教育、能力者による犯罪の防止・更生、能力者の存在が明るみに出ないよう防止・工作、が主な仕事で、特に教育と更生の仕事が多いらしい。何だか保護観察官みたいだ。

 近年、能力に目覚める者は、日本でしか確認されていないらしいが、目覚める条件として人種は関係なく、何らかの地理的要素がこの国にあるということ。

 そして現在、能力者の人数は把握しているだけで五四〇人程度。

 最初聞いた時は、信じられないと思ったのだが、自分が能力者になってしまったんだから信じるしかない。

 

 それにしても能力者ってそんなにいっぱいいるのだろうか。色んな人に会ってみたいなあ。

 そんなことをのんびりと考えながら、アキラは運転している静流に目をやる。

 このぶっきらぼうな美人のお姉さんが扉を開いてくれた。何も知らない自分に新たな道を提示し、新たな世界に導いてくれた。

 アキラは、2週間前はじめて「魔法使い」になった日の気持ちを思い出していた。

 能力を生かしたそんな仕事が出来るようになるだろうかとアキラは胸躍らせていた。


 だがアキラは世の悪意を知らない。


 満たされた世界で、更に優しい温室の中で暮らして来たアキラには想像できない。

 持たない者が持つ者をどういう目で眺めるか、その視線の粘度をアキラは知らないのだ。

 絵に描いたような冒険譚は現実には起こり得ない。力があれば群がる者もいる、怯える者もいる。誰もが自分と愛する者を守ろうと必死だ。そのための行動が行きつく先などいつの時代も決まっている。

 だから静流の「仕事はあと二つある……」の次に続けた一言で、アキラの新世界は暗転する。


「一つは凶悪犯罪を犯した能力者の……処分」

「え、処分って……?」


 突然の物騒な単語にアキラは思わず聞き返す。

静流は一瞬の逡巡をごまかすかのようにバックミラーを見やってから口を開いた。


「殺害だ」

「そ、そんなことって!」

「可能な限り確保はする。自分が殺したくはないからな、そうしたって引き渡した先に何が待っているかなんてわからないんだ。ちなみに引渡先は丸菱の研究施設だ、何が起きてるかなんて君にもわかるだろう」

「わかりません! 崇岬さんこそ自分が何を言ってるかわかってるんですかッ!」


 アキラは怒りに声を震わせた。初めて触れる濃厚な悪意に身を震わせた。


「いいか、何を言っているのか分かっていないのは君のほうだ、能力者が能力を使って犯罪を犯す。これがどういうことかわかるか?」

「……」

「例えば、能力者が能力で人を殺した場合、捕まえた後どうする、『この人は超能力で人を殺しました』と裁判で証言でもするつもりか? 物理法則を超える力を使った犯罪の科学的物証なぞどこの世界に存在する? 証拠が無ければ何をやっても無罪だ、こいつは大手を振って外に出てくる。そしてまた人を殺す」


 静流が何かを思い出したように目を細める。そしてどこか疲れたように言った。


「そもそも能力者の存在を明らかに出来ない以上、誰かがやらなくてはいけないんだ。」

「わかりません! おかしいですよ! それに冤罪の可能性だって!」

「ある程度のテレパスがいれば冤罪なんて起こらない。その程度の調査は言われなくてもやっている。君を見てると、幸せな家庭で育ったんだろうと思うよ。ならば君の家族が能力者に切り刻まれたらどう思う? それでもまだ同じことを言えるのか、家族を殺した殺人鬼が愉快に人生を満喫しているのを我慢できるのか?」

「――っ!」


 既にアキラの目にはうっすらと涙が浮んでいる。

 アキラは自分の親が、家族とその世界が正しいと心から信じている。だからこそ、その世界の理屈が通用しないことが悔しくて情けないのだ。

 『理解』はしている、だがアキラにとって『納得』することは家族への裏切りだ。だから負けると分かっていても言い返さなければならなかった。


「それでもっ! 人を殺すなんて最低――」



「我々は人ではない! 人権なんて無いんだ……っ!」




 その言葉は衝撃を伴ってアキラの胸に突き刺さった。

 能力者としての先輩の、低く絞り出すような言葉に吐き気がこみ上げる。

 家族を裏切れないとの決意は、早くも紙くずと消えた。言い返す言葉など無い。

 静流は今日一番の苦悶の表情で話を続ける。


「今日言うつもりではなかったが、いい機会だから言っておくよ……」

「……」

「今日この日から、君はこの国の憲法が保障するほとんどの権利を剥奪される。同時に様々な制約が発生する、重度の機密保持義務も課される。逆らったらそれ相応の処分が待っている。」


 一節一節がアキラを傷つける。

 万能の幸福などこの世には存在しない。

 マイノリティの生存は、マジョリティの「道徳」や「倫理」という不安定で危うい要素の上で、かろうじて成り立っているに過ぎない。

 一度暗転した世界に、更に闇は押し寄せる。


「もう一つ言ってない仕事があったな……」

「もう、やめてくだ――」

「それは人質の調査だ」


 おぞましい想像が頭をよぎり、アキラの手がガクガク震える。

 違ってくれ、今自分が想像したことではないと否定してくれ! 何をおかしな事を考えてるんだと馬鹿にしてくれ! アキラはここまでの悪意を見せつけられて、それでも善意を信じたかった。

 だからこそ彼の絶望はまだ終わらない。

 喉元までせり上がった胃液を飲み下してアキラは呻くように呟いた。


「人質って、何の、ですか?」

「把握している能力者全てのだ。親、兄弟、子供、配偶者、恋人、友人、何でもいい。全てが対象だ。残念ながら今日から君の家族は全員人質となる。理由は説明させないでくれ」


 アキラはせわしく動くワイパーから目を離せない 

 もし反対側に立っていたら納得し得る論理なのかもしれない。先の戦争の凶爪は人々の魂に酷い傷跡を残した。結果、全体主義的思想に傾いた人々に渦巻く『脅威に対する忌避の念』は比較的容易にこの措置を受け入れるだろう。 

 しかし不幸にもアキラは忌避される側の人間であった。

 アキラの中の何かに亀裂が走る。そして、そこから顔を背けたくなる様な何かが滲みだしてくる。

 

 それは優しい世界で育った少年が、生まれて初めて抱く『憎悪』であった。

 暗い悦楽にも似たそれを、16歳の年若い少年は持てあましてしまう。

 憎かった。ただひたすら憎かった。背骨の中心から、焼きつくように広がる痛みを、誰かに擦りつけないと壊れてしまうとアキラは思った。

 だからアキラは、隣で運転する女性にそれぶつけることで自分を守ろうとした。


「道連れが……欲しかったんですか……?」

「……違う」


 静流が悲しそうに首を振る。


「他人の幸福が妬ましかったんですか? それを奪われた僕を見てそんなに楽しかったですか?」

「違うんだ。」


 アキラは、暗い欲望が命じるままに言葉を吐き出した。


「何が違うんですか、どうせ報酬でも貰えるんでしょう? 何か欲しい物があったんですか? 他人を売ってまで何か欲しい物でもあったんですか?」

「違う……」

「じゃあ…… じゃあ何で僕のこと捕まえたんですかっ! 害なんて無いことはわかるでしょう! ちょっと見逃せばよかったじゃないか! 僕が何かしたんですか! 何か悪いことをしたんですかッ!」


 アキラは叫んだ。叫ばなければ、自分がどうかなってしまいそうだった。

 なおも怒声を上げようと口を開いたアキラを遮って静流が叫ぶ。


「報告義務があるんだ! 我々は月に一回頭を覗かれるんだ! 能力者の探査・登録に関しては最優先に! どうせバレる、そして私は処罰される!」

「~~っ!」

「私にもっ! 人質がいるんだ。失いたくない人が、いるんだ……」 


 それはあまりにも悲しい言葉だった

 力無く震え、尻すぼみにかすれていく言葉に、この強く美しい女性ですら巨大な闇を抱えてるのだとアキラは知る。

 少し考えればわかることだった。

 アキラが初めてであるわけがない。これまでにも、彼女は誰かに同じような宣告をし、同じように罵られてきたに違いないのだ。他人の苦痛を喜ぶ人間が、こんな悲しい顔をするわけがない。今誰よりも傷ついているのは、宣告する側である彼女だったのだ。

 アキラは自分の矮小さに涙を滲ませる。そして答えのわかりきった質問を口にした。


「なんで…… 何で公表できないんですか、ちゃんと話して理解してもらって……!」

「戦争になる。我々は皆殺しにされる。いつの時代にも魔女狩りは起こり得るんだ」


 倫理と利益を天秤にかけてどちらが重いかなど、歴史を紐解けば議論する必要すらない。

 元々そういうものなのだ、アキラは知らなかっただけだ。

 ついさっきまでアキラは新しい世界の扉が開いたと、新しい世界に足を踏み入れたのだと胸を躍らせていた。

 確かに扉は開き、足も踏み入れた。

 しかし、その世界はあまりにも残酷で優しくない世界だった。


「能力者になんて、ならなければ良かった……」

「私も、そう思うよ。」



 アキラは、背後の扉が閉まる音を聞いた。




-------------------------




 しとしと雨が降っている。

 春の清水を潤すこの時期の雨も、都会を道行く人にとっては体力を削る凶器でしかない。傘を差して歩く人の足も、幾分速くなりがちだ。

 藤枝は、傘も差さずに目的の高層マンションを見上げて佇んでいた。

 通行人が不審そうに、藤枝を横目で見ながら通りすぎる。


 思っていたより感慨が湧かないものだな……

 自嘲気味に右頬に皺をつくる。顎から垂れる滴が、飽和状態のシャツに吸い込まれた。

 藤枝は意を決した様子でもなく、ただただ無造作に足を踏み出しマンションの裏へと回った。そして、ゴミの回収業者が使用しているであろうドアを発見すると、無造作に切り裂きマンション内に侵入する。


 いいマンションに住んでやがるな

 マンションの内部を見まわしてそう思う。

 自分が絶望の深淵を彷徨っている間にも、この男はのうのうと暮らしていたのだろうか。

 ぞわり、と暗く燻る炎が藤枝を舐めた。


 藤枝はエレベーターを使わず、階段で上がることを選択した。息も乱さず11階を登り切り、廊下の突き当りにあるドアの前で足を止める。

一一〇六号室、それが、かつての同僚、木村修一が住む部屋だ。

 藤枝は躊躇するでもなくインターフォンを押した。

 数秒の沈黙の後「どちら様で…………なっ!」と、誰何の後、驚いたような反応が返ってきた。カメラでこちらの顔を確認したのだろう。インターフォン越しに木村が呟く。 


「藤枝、なのか……?」

「木村、色々言いたいだろうが、とにかく入れてくれ。追われているんだ、今日だけ頼む」


 突然の来訪と、無茶な申し出に、木村が焦ったようにまくし立てる。


「待ってくれ! 義務の事は知っているだろう! 何とかしてやりたいが勘弁してくれ!」


 しかし藤枝は、選択権は無いとばかりに言いきる。


「こういう時にテレパスってのは便利だな、お前のレベルならごまかしが効く。それに断られてもお邪魔するだけだ、俺の能力は知っているだろう?」


 数秒間、思案するような沈黙の後、木村は嘆息と共に


「わかったよ……。ちょっと待ってくれ」


 と答えた。

 返答から十数秒後、遠隔操作で行ったであろう解錠の音を聞くと、藤枝は無言でドアを開け、挨拶もそぞろに玄関に上がった。

 濡れた靴下がフローリングに跡を作る。藤枝は断りも無く、廊下の奥にあるリビングのドアを開けた。

 20畳位だろうか、広めのリビングにしてはこじんまりとした、しかし品の良い機能的なテーブルとソファーが設置され、テーブルにはタリスカーの18年とグラスが置いてある。稼働中の3D投影ディスプレイは、野球の試合を投射していた。野球を見ながら飲んでいたらしい。

 部屋は適温に調整され、冷えた体を暖かく包む。藤枝は一瞬、郷愁に駆られ目をしばたかせる。

 木村は顔をしかめながらソファーから立ちあがった。どう見ても歓迎する体ではない。


「久しぶりだな……」


 シニカルな笑みを作り藤枝が話しかけた。一方、木村は迷惑そうな顔を崩さない。


「藤枝、何て言うか……。何か手助けはしたいけど、俺も今は家庭を持って危ない橋とかは困るんだよ……」


 木村が更に続けようとすると、リビングの奥の和室らしき部屋から女性が出てきた。

 美人ではないが、愛嬌があり、気立ての良さそうな女だ。木村の妻なのだろう。

 彼女は藤枝を見て、愛嬌のある大きな目を更に大きく開き、口を開いた。


「あら大変、ビショビショじゃないですか! タオル持ってきますね! あと、コーヒーでいいですか?」

「美知香、いいんだ俺がやる。知子を寝室で寝かしつけてくれ、仕事の話なんだ」


 慌てたように木村が制止する。美知香と呼ばれた女は、一瞬キョトンとすると、


「えーと…… わかりました。知子ぉ~~、寝るよ~~」


 と言って、和室で遊んでいたのであろう、5歳くらいの少女の手を引き、廊下へと消えていった。

 そんな二人を、何とも言えない暖かい表情で見送る木村を見た瞬間、藤枝は腰のあたりをチリチリと炙られるような感覚に陥る。


 わかっている、この感覚は……

 嫉妬だ。

 八年前に自分が失ったもの、今となっては決して手に入らないもの、木村はその全てを持っていた。

 自分が澱の底でのたうちまわっている時も、叶うことの無い夢にすがり、みじめに震えている時も、木村は当り前のようにこの温もりを享受していたのだ。

 狂おしいほどの嫉妬に憎悪が絡みつき、奔流となって藤枝の中を駆け巡った。


 ふざけるな……

 あの日、目に焼き付いた光景が、フラッシュバックする。


 お前が……

 お前達がっ……!


 藤枝は今すぐ目の前の男の首を切り飛ばしたい衝動に駆られる。

 自身の闇が命じるまま、引き裂き、抉り取り、踏み砕きたいという狂気が、胸に蠢いた。


 しかし

 まだだ……。糸を途切れさせるわけにはいかない……

 『断裂』の座標構築を半ばまで終わらせながら、藤枝は何とか踏みとどまることに成功する。

 聞き出さなければならなかった。

 次に繋がる糸を手繰り寄せなければならなかった。

 そして敵方である木村は既に通報しているだろう。時間が無い。

 藤枝は、立ったままリビングの窓を眺めながら、単刀直入に問いかけた。


「《I計画》とは何だ?」


 一瞬の沈黙の後、取り繕うように木村が口を開く。


「何のことだ……?」

「《CODE‐I》でも、《プロジェクト・インターフェイス》でもいい。計画段階上の呼称の齟齬はどうでもいい、I計画とは何だ?」

「な、何を言ってい――」

「いや、そういうのはいいんだ聞いてくれ。」


 怒気を孕んだ木村の言葉を藤枝は歯牙にもかけない。窓から視線を外さず話を続ける。


「正直《I計画》というのが何かなんざ興味がないんだよ。《I計画》とやらに携わっているのが誰なのかが知りたいんだ」   


「…………」


 数秒間の沈黙、その沈黙が、木村が知っていることを証明していた。

 藤枝は、暗い炎を宿した双眸を木村に向けて言葉を吐き出す。


「持っているんだろう? 俺の全てを奪った連中のデータを。もうちょっとわかりやすく言ってやる」

「……」

「俺をハメた連中は誰だ?」


 獣が低く唸るような誰何に、木村は顔面を蒼白にして脂汗を滲ませた。

 そして藤枝は今気付いたかとばかりに、わざとらしく木村から廊下の方へと視線を移し、ぞっとするような乾いた声で問いかけた。


「気立ての良さそうな嫁さんだ」

「やめろ……」


 藤枝は続ける。


「お譲ちゃんは5歳くらいか、気をつけないと、ちょっとしたことで怪我をする年頃だ」

「やめてくれ!」


 木村は堪え切れなくなったように叫ぶ。


「家族は…… あの二人は関係無いっ!」


 藤枝の口角が凶悪に吊りあがった。


「奇遇だな、8年前、俺もそう思った気がするよ。誰も聞いちゃくれなかったがな」

「~~っ!」


 木村は弾かれたように背中から銃を取り出し、藤枝に銃口を向けた。解錠までの十数秒で腰の後ろに差していたのだろう。

 銃口を向けられた藤枝は、さして気にするでも無く、向けている木村のほうが、冷や汗を垂れ流しガクガク震えていた。この状況にあっても、誰が有利なのかは明らかだった。

 そして、追い詰められ、焦って判断能力が鈍った木村はミスを犯してしまう。

 この場で、藤枝に一番言ってはいけない言葉を、ガチガチ鳴る歯の間からこぼしてしまったのだ。


「そ、そりゃあ、お前の家族のことは残念だったと思うよ! だけど俺はあの―――」

「『残念』……だと……?」


 思い出が藤枝の頭を駆け巡る。

 全てだった。

 それは藤枝の全てだった。


 愛情を知らず、殴られ、蹴られ、登っては突き落とされ、突き落とされては踏みつけられる。信じれば裏切られ、手を伸ばせば唾をかけられる。

そんな男に神は与えた。

 今までの不幸を鼻で笑えるくらいの幸福を。

 今までの不運程度では到底釣り合わないほどの幸運を。


――あなたを愛してる、世界中の誰よりも。


 「愛してる」とは恥ずかしくて言えなかった。


――ぱぁ~ぱ、たいすき~!


 絶対に守る、そう誓った

 それは、藤枝の世界の全てだったのだ。


 藤枝は醜悪と言ってもいいほど顔を歪め震えていた。

 残念だった。この男はそう言った。


 貴様が……言うのか……!

 ちっぽけかも知れなかった。

 家に帰れば家族がいる、ただそれだけの小さな幸せなのかもしれなかった。行ってきますと言えば行ってらっしゃいと言ってもらえる、ただそれだけのことなのかも知れなかった。

 だが自分にとってはそれが掛け替えのないモノだったのだ。何があっても手放したくないモノだったのだ。

 そんな他人の小さな幸せなどはどうでもよかったのだろう。 

 だから、こいつ等には出来た。

 自分には到底耐えられないことを他人にすることが出来た。

 そうして守られた利益を眺めてこう言うのだ。


 ああ、良かった、と


 そうして奪われた者を眺めてこう囁くのだ。


 残念だったね、と


 だから藤枝は咆哮した。

 意味不明な怒声を上げ、木村に向かって突進する。

 木村は、自分の一言が何に火をつけたのかを瞬時に理解し、夢中で引き金を引く。破裂音と共に三発の9㎜弾が銃口から射出され、全てそのまま『断裂』に飲み込まれる。

 木村が驚愕の表情を浮かべるのと、藤枝が左手で木村の首を掴んだのは同時だった。

 そして、藤枝はそのまま木村を壁に押し付け、耳元に唇を寄せて更に1オクターブ低い声で唸る。


「いいか、これは忠告だ。お前はこれから一つでも選択を間違えたら後悔することになる。非常に残念だが、おまえが悲しむことになる。わかるな?」


 壊れた人形のように、何度も頷く木村。

 藤枝はぞろりと牙を剥きだして言った。


「データはどこだ」

「玄関に一番近い部屋、書斎の机の引き出しの上に……」


 とその時、リビングの入り口、ドアが開く。

 小動物のように警戒心を顔に浮かべた木村の妻が


「何かあったの……?」


 とリビングに入ってきた。

 造りのしっかりしたマンション、ドアを二枚挟めば、銃声など聞いたことも無い人は、まさか自分の家で銃撃があったなどとは思わないだろう。まず木村の妻は、首を掴まれ壁に押し付けられている夫を見て驚愕し、その夫が右手に握る銃を見て絶句した。

 藤枝は、固まって動かない木村の妻を一瞥し、吐き捨てるように


「運が、良かったな……」


 と左手を放した。

 生かしておくつもりは無い。しかし、今は時間が惜しい、下手に騒がれて強力な追手に追跡される事態は避けたかった。今はデータの入手が最優先だ。

 藤枝は書斎に向かうため、木村に背を向けた。別に木村を舐めていたわけではない。

 目の前には木村の妻がおり、寝室には子供がいる。今この場で木村が仕掛けることは、彼が何より守りたい者を危険に晒すことだ。さらに、先ほど徹底的に恐怖を植え付けることで、戦意を完全に失わせたのだ。ただ、一つ読み違えたとすれば、木村もまた情報を漏らせば危うい立場にいるということだった。

 藤枝が足音に気付いて、舌打ちしながら振り向いた時、既に木村は藤枝の頭を両手で掴んでいた。

 藤枝が己の浅はかさを呪った時、突然、頭を掻き回されるような感覚に襲われる。

 精神汚染だ。


 マズイ!

 と思う。

 例え壊れなくても時間を稼がれたら多分それで終わりだ。藤枝は焦る。

しかし次の瞬間、汚泥のようなものが焦燥感ごと藤枝を侵していった。


「自分の思念を流しこめなくても、相手の闇で昏倒させることくらいは、レベル3程度の俺にも出来る。最低でも時間は稼げる、俺の勝ちだ藤枝!」


 やはり通報されていたらしい、薄れゆく意識の中毒づく。

 木村は勝ち誇った笑みを浮かべた。しかし、藤枝はもうそれを認識することすら出来ない。


「やめろ……。やめてくれ!」

「無駄だ藤枝」


――やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ……


 藤枝はゆっくりとだが確実に自身の闇に呑まれていった。


「やめろ! 俺にそれを見せるな! やめ、やめてぃぐらぇぁああああああっあっああっああああああぃぃぃぁああああああああああ――――ッ!」


 20畳のリビングに耳を塞ぎたくなるような絶叫が響き渡る

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