路地裏の戦い
「それで、静流さんはビールで、支部長はチューハイと柿ピー、楓さんはどうするんです?」
「もやしら! もやしかっれこーい!」
「ほんと買ってきますからね! 食べてくださいよ!?」
もう何を言っているのよくわからないが、これ以上は話しても無駄ということははっきりしている。
そう諦めたアキラが外に行こうとした時、片づけをしていたルルが、綺麗な糸目をさらに細めて心配そうに手を頬に充てる。
「男の子で高校生と言っても夜の街、大丈夫でしょうか……?」
アキラは感動すら覚えた。さすがメビウスの良心、天田ルルである。そこのカーペットの上で寝転がりながら裂きイカを旨そうに頬張るダメ大人に300回くらい聞かせてやりたいくらい思いやりに溢れたセリフだ。
すると、アルコールでやられた頭でも少しくらいは良心が残っていたのか、楓がグリンと首を回し、アキラに向かって声を上げる。
「あらしらいっれあれまひょうらぁ?」
タ行とカ行が全く発音できてない時点で終わってるので無視なのだが、夜の繁華街を一人で歩く事が少しだけ心細いというのも偽らざる本心だった。下町の繁華街は、飲み屋から風俗店までガラの悪い人が多いからだ。
しかし、静流はめんどくさいから却下だ。さすがに支部長にお願いするのは失礼な気がする。アリスはソファーでウトウトしてるし、ルルさんには片づけをしてもらわないと買い物から帰ってきてもこき使われてしまうだろう。一人で行くしかない。
「アキラ~ ハーゲンなんたら買ってきていいぞ!」
お金を出したのは静流ではない。安斎だ。
私がお金出したった的発言に、さすがに思うところがあったのか、安斎が鼻息荒く抗議の声を上げる。
「崇岬君っ 口を慎みたまえっ! 私は剥げてない! はーげん何たらとは何事だ!? おでこが広いのは学生時代からなんだ! 変な想像はよしてくれたまえっ! そうだろうアキラ君!?」
30代の酔っ払い男が凄い勢いで髪を掻き上げ、脂の滲んだ額を突き付けて来た時、どうやって返すのが正しいのだろうか。
「ゲーハーだな。ゲーハーに効く酒買ってこいアキラ。生えてくる系だ」
もうどうしようもない。
宴会会場と化した職場からアキラは無言でコンビニに向かった。外に出ると夜風がまだ肌寒い。浜通りとはいえ、6月の夜気はまだ春と夏とを行ったり来たりしている。
アキラはふうっと息を吐いて左右を見渡した。この事務所は、駅からそれほど遠いわけではないが近くも無い。
コンビニは駅前に行くか、住宅街への帰り道にあることが多く、中途半端な立地にある事務所からは少し歩かなければならないのだ。
「駅前に行くかな……」
アキラは背の低いネオンに染め上げられた下町繁華街を歩きながら、今は亡き祖母が「昔は一番近いコンビニまで車で20分だったんだよ」と目を細めていた事を思い出した。
今や廃都東京の避難者が「上野みたい」と評する久ノ浜が、そんな辺鄙な田舎だったなんて想像も出来ないが、この辺もきっと似たようなものなのだと思う。
以前来た時の記憶を頼りに、多少迷いながら道を行く。
古くからある場末の飲み屋と煌びやかなネオンが同居した不思議な通りを抜け、大手居酒屋の看板を左に曲がり、演歌に出てきそうなスナックが立ち並ぶ細道。そう、確かこの先にある老舗の蕎麦屋の斜向かいに―――
「あれ? 牛丼屋になってる!?」
下町の新陳代謝は凄まじい。少し見ないだけで街はすぐにその姿を変えていく。テレビで偉い人が磐城はまだ成長続ける中学生のような街だと言っていたが、全く以てその通りなのだ。
元々、方向音痴の気があるアキラはこういう時はすぐ端末に頼る事にしている。ビッグアイにもリンクしているGPSスイッチを迷わずONにして、慣れた手つきで目的地を検索する。
「ええと…… ここの最寄のコンビニは……あっちか」
現代のナビシステムは高性能で、ラーメンが好きだとか、甘いものを探しているとか、そういう設定をしたらそれとなく興味が引かれる店舗が目に入る様なルートを案内してくれる。
女性が安心して歩ける道をという設定をすれば、街灯と人通りが多い道を選択肢に入れてくれたりもするのだが、生憎アキラはそういうものに無頓着だったし、時間の浪費を好まなかった。
結果として端末に指示する道は、シンプルで合理的な最短ルート。目の前にはやけに細く心細い裏道が続いている。
車一台通るのがやっとな裏道にはもちろん歩道と車道なんていう区別は無い。
両サイドには如何わしいネオンが立ち並び、店の扉に合わせる様に等間隔で客引きの黒服がタバコをふかしながら待ち構えていた。
アキラは彼らと目を合わせないよう気を付けるが、実際はその必要は無い。彼等も一応その道でメシを喰っているわけで、金を持って無さそうな高校生に声をかけるような暇人はいない。
「ちょっと怖いなあ……」
如何わしい細道から更に細くなった道を早足で歩きながら、ふと斜め上のギラギラ輝く看板に目を向けると、どぎついピンクとオレンジの電球に囲まれた不穏な文言が目についた。
思わず立ち止まって目をぱちくり。丸っこく太可愛らしいフォントで元気いっぱいに描かれた漢字四文字。
『不法入国』
国家にケンカを売ってるとしか思えない店名が不謹慎すぎる。これほどコンセプトが明確な店はそうそうお目にかかることはできまい。
もっとも、インパクト一点突破の際どい店名ではあるが、実際に働いている者に不法就労者はいても不法入国者はいないだろう。いやいるはずがない。
実際問題として現代日本には数多くの不法就労者が存在する。毎年少なくない数の不法就労者が摘発され処罰されるニュースは流れるものだが、不法入国者が不法就労を行う事は考えにくいと言わざるを得ない。リスクが高すぎるのだ。
それは21年前、第二次大東亜戦争のはじまり。
台湾事変とほぼ同時に発生した関東大震災により首都機能がストップし、人々が大混乱のまま火と水に呑まれ、夜空に悲鳴と慟哭が木霊していた時
最初からこれを狙っていたかのようなタイミングで、数年間、長ければ数十年もの間、民間人として雌伏していた朝鮮人民連合、当時で言う北朝鮮の工作員が一斉に武装蜂起したのだ。
国会はもちろん、ほとんどの行政機構はマヒし、国体としての機能が完全に失われ、対外的意思決定もままならなくなった状況。人が死に、そしてまた死んでいく。これすらも始まりに過ぎなかったということを、一体誰が想像できただろうか。
次なる悪夢は、当時一つの国だった中国による突然の宣言『日本に住む同朋の生命と安全を保全する』だった。
宣言と同時に人民解放軍が一方的に日本領海に侵入。
交戦許可など出るはずもない極限状態のまま、九州北部海上で海上自衛隊が自衛のための戦闘を開始したのは、既に数隻の艦が沈められた後だったという。
世界各国が『先手』を取る事に全てを注ぎ、そのための兵装・兵科同士のぶつかり合いであるを近代戦闘において、あえて先手を譲るという専守防衛は、誇りと勇気に満ち溢れた美しい主義に聞こえても、現場で戦う者にとってはケツ拭き紙の方がまだ役に立つ。
国民の自尊心を満たす空虚な虚像の代償はあまりにも甚大で、そして致命的だった。
数度の海戦を経て、九州南部は次々と押し寄せる人民解放軍により制圧。配備されたF-2は実に3分の1が津波に流され、想定していた空対艦戦闘も防衛ガイドラインも何の役に立たないまま、多くの艦船が東京へと舵を切る。
日本は終わりだ。国は何をやっている。自衛隊はどこにいる。
ネットではそんな絶望で溢れた。そして誰もが心のどこかで思っていた。
アメリカがきっと何とかしてくれる。
震災は自然現象だ。自然災害に付け入り本気で国を乗っ取ろうなどという馬鹿げたことを世界が許すはずが無い。きっと何とかなる。これ以上の最悪なんて有り得ない。そうだ、これは悪夢だ。一杯飲んで寝ればきっと明日には全てが上手くいく。だって我が国は憲法9条を貫いてきた平和国家なんだから。
他人の精神構造は自分と同じだと信じてやまない、愛すべき敗北者たちの国に、終幕はあまりにも突然やってきた。
未だに『正体不明』とされる、光り輝く7つの悪夢が
現実逃避に溢れる電網と、虫食いだらけの防衛網を簡単に切り裂き、超超高度から首都上空に襲い掛かったのだ。
阿鼻叫喚
無数の命と財産と精神を一瞬にして崩壊させた光槍により東京は人民解放軍をも巻き込んで灰塵に帰し、大量の超高濃度放射性物質と、そして激しい憎しみだけをその場に残し、この日、経済大国日本の首都東京は、地図から消えたのだ。
善意だけで沈没したドロ船に手を差し伸べる者などそうそういない。伸ばした手が汚れ、それが元で手が腐り落ちるかも知れない状況ともなればなおのこと。
無条件で命をかけてくれたのは同盟国であるアメリカではなく、どちらかというと日本が冷遇してきた国、フィリピンだけ。
生き残った都民は、徒歩で地獄からの脱出を余儀なくされた。そして命からがら逃げ延びた先で待ち受けていたのは、無慈悲な放射能差別であった。
震災で、テロで、核で、ガンで、そして自らの手で。
人は、死んだ。
人々は知っている。
なぜ東京は滅びなければならなかったのか。なぜ数百万もの命が失われたのか。
その契機となった事実を、蜜よりも甘い理想主義が招いた悲劇を
人々は知っているのだ。
不法入国者は無条件で懲役だ。犯罪を犯せば問答無用で死罪だ。
憲法など関係無い。最高意思決定権者である国民がそれを望んだ。
そんな彼等を雇う勇者はヤクザでも中々いない。不法入国者である事を知って職を与えたら、雇用側も幇助で投獄だ。
中国の内乱と半島の紛争、流れてくる難民は徹底的な拒絶に遭い、そしてそのほぼ全てが地下へと落ちていく。そうして出来上がった負の連鎖がまた国民の態度を硬化させていくのだ。
「なんかのシチュエーションプレイなのかなあ……」
一見すれば不謹慎極まりない店名も、下町特有の寛容さで許容されているのだろうか。猥雑とした夜の盛り場では、攻撃的なブラックジョークですら娯楽に置き換えてしまうところが節操無しの日本人らしいのかも知れない。
アキラは足を止め、そんな中学校で習う近代史を頭の中で復習していたのだが、買い物に来たことを思い出し、再び歩き始めた。
「早くしないと静流さんうるさいから……」
ハアッ とため息を一つ。
そうして、客引きすらも途切れた裏道を早足に歩いていた時、
「――っ! ~? ~~~っ!!」
突如、くぐもった呻き声が耳に飛び込んでくる。
そして、肉が肉を打つ、不穏な鈍い音も。
普通ならば通り過ぎる。聞かなかったし見なかったというのが、危険をやり過ごすための一番の秘訣である。
ここは夜の繁華街だ。違法スレスレの店が立ち並ぶ裏道だ。何があってもおかしくは無い。少年の綺麗な精神とは最も乖離した理屈で回る爛れた世界なのだ。
目を逸らし、耳を塞ぐのが間違いなく正しい。いや、そうするべきだ。
誰もがそう思うし、そうするだろう。
だが少年はアキラだった。
両親の愛情をいっぱいに受けて育ち、人が傷つくことに耐えられない、優しい少年だった。人の痛みに共感してしまう悲しい少年だった。
アキラは緊張に頬をヒクつかせながら恐る恐る声の出所である路地裏に近づいて行く。そして息を殺してそうっと覗き込んだ先、薄汚い店舗の非常口とゴミ箱だけが並んでいるような、場末も場末の小道で。
「金が用意出来無ぇだと? テメェわかってンだろうなっ!!」
「――ヤメっ ヤメてクダサ――― アアッ!!」
女が男に殴られていた。
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街の喧騒や派手な看板とは反対にひっそりと静まり返る夜の小道。酔っ払いか、風俗目当ての会社員か、胡散臭い客引きだけが交差する人取りの無い裏道。
その人通りの少ない通りの更に路地裏で
男が女を殴っていた。
「沈められたいんか!? ええっ!?」
「なぐ、なぐらナイデ…… うぶぅっ」
アキラから15メートルは無いだろう薄暗い路地裏の奥で、数少ない照明の光を受けた男の顔は愉悦に歪んでいた。抵抗できない者を虐げる昏い喜びの炎が濁った瞳で燃えている。今は顔ではなく、肩や腹を殴っているが、そのうちエスカレートするのは明らかだ。
水商売風の衣装が捲れ上がるのも気にせずに尻もちを着き、怯えたように男から後退る女性の背中しかアキラからは見えないが、きっとその顔は恐怖に歪んでいるはずだった。
「ヤメて…… い、イタイ、デス……」
男は一歩にじり寄り、
言葉がカタコトなところを見ると外国人であろう女性に男は一歩にじり寄り、左手で顎を掴む。そして
―――パンっ
頬を張った。
呻き声のような悲鳴が小さく反響する。
アキラの体が緊張と恐怖で強張った。それと同時に、フツフツと湧き上がった怒りが頭の中をグルグル回る。
ここで颯爽と飛び出して女性を助ける事が非常にわかりやすい正義の形であるが、現実はそんなに単純ではない。
事情がわからないのだ。本当に悪いのは女性かも知れないし、見えない部分で男が酷い目に遭っているのかもしれない。所詮、赤の他人が正義感を振りかざして出ていったところで物事は何も解決しない。
しかし、とアキラは思う。
「無抵抗の女の人を、殴っちゃだめだろう……」
非がどちらにあるのか、理はどちらに味方するのか。そんな話とは全く別の次元として、無抵抗の女性に暴力を振うというやり方が認められるはずが無い。少なくともアキラは認めない。なんとかしなければ。
勇気を振り絞って踏み出した足が小刻みに震える。
怖くないはずが無い。
殴り合いの喧嘩すらした事の無いアキラにとって暴力は嫌悪と恐怖の象徴だ。振るわれるのも、振うのも、そしてそれを見ているのも嫌だった。
しかもアキラは能力者で、これは正式な仕事の範疇外の出来事だ。もしこれが大げさにも事件になった場合、まるで実験動物のように頭の中を隈なく覗かれ、もし危険な行為と判断されたら笑えない処罰が待っている。躊躇するなというのが土台無理な話なのだ。
迷っている間にも、再度擦れた悲鳴が路地裏に響く。
「そ、そうだ…… 誰か呼んで来よう。そうすれば危険も無いし無事に解決――― って、ウソだろ……っ」
薄明りの中でギラリと光る鈍色のナニか。確認するまでも無い。刃物だ。
男がどこからか取り出したその刃物を握りしめ、暴力に酔いしれた醜い顔を更に嬉しそうに歪ませる。女性が四つん這いになり、必死に男から逃げようとするが、長い髪の毛を掴まれ、華奢な肢体を仰け反らせた。こちらを向く形となった女性は既にボロボロだった。
剥き出しの膝は皮膚がアスファルトで破れて血が噴き出しており、張られた頬が腫れ上がって口を切ったのか、苦しげに開けた口からタラリと血が零れだす。顔は恐怖に引き攣り、涙を流しながら何度も何度も男に許しを請う。
―――迷っている時間は無い。出ていかなければ女性が危ない!
そうは思っても竦む足。震える指先、打ち鳴る歯。
情けない。いつだってそうだ。今行かなきゃ危ない。あの女の人が殺されるかも知れない。
意識的に拳を握りしめて肩で荒く息をつく。その時だ。
アキラに気付いた女性と目が合った。
恐怖と涙に塗れた顔をグシャグシャに歪ませ、アキラに向かって右手を伸ばす。細められた目が痛々しい程声を上げていた。
―――タスケテッ
飛び出していた。
タイミングもクソも無い。気付いたら猛然と男に向かって走っていた。
アキラに気付いた男がアキラに向かって刃物を構える。恐ろしい事に男の眼に躊躇いは微塵も無かった。
ぐっと奥歯を噛み締める。
―――イメージだ。イメージが重要だ。
相手は興奮している。突きは無い。
きっとアレは自分に向かって振り下ろされる。ただ愚直に最短距離で。
何度も何度も静流と訓練で繰り返したシチュエーションだ。
10m 5m 怖くない。怖くなんて無い。止まるな。恐れるな。走れ。
男が刃物を振り下ろし始めた。
「そこだ―――っ!!」
下から上へ。
2m手前、見えない手で男の手を跳ね上げる。
男の手を離れた刃物が緩く回転しながらアキラの顔の横を通過し、風切音が耳元で唸った。
足は止めない。
武器を飛ばされ目を見開く男の鳩尾に、全体重を乗せて倒れ込むように肩から激突する。
「おヴぅっ!!」
一瞬だけ中を舞った男が、背中から勢いよく地面に落ちた。
苦悶の呻きを上げながら、路上をゆっくりと転げまわる男を見下ろして唐突に腰が砕けそうになる。背筋からドッと冷や汗が噴出した。
「に、ににに、にげ、逃げましょうっ!!」
声を裏返しながら叫ぶ。
脱出しなければ。この場を離れなければ。それだけで頭がパンクしそうだった。
ワケもわからないまま、ポカンと口を開く女性の手を引き、無我夢中で路地を飛び出す。
やけに早く流れる景色を何度も何度も振り返りながら走り、やっと人通りの多い通りに出て、店のシャッターにもたれ掛る様にしてアスファルトにへたり込んだ。大した距離を走ったわけでも無いのに、体を突き破らんばかりの鼓動で胸が痛い。
「あ、アリガト、ゴザいマス……」
「ふへっ?」
マヌケな返事を帰してしまったのは、女性を助けた事すら忘れてしまうほど必死だったからだ。
自分が何のためにこんな事をしたのか忘れるなど、本末転倒極まりないのだが、声をかけられてアキラはやっと女性の存在に気付く。未だに女性の手首を掴んでいることを。
「あ、す、すいませんっ!!」
慌てて手を離すと、女性の手首は痣になりそうなほどくっきりと手痕がついていて、酷い罪悪感に襲われた。
「ああぁ…… 痕が残ってる…… ごめんなさい、こんなつもりは―――っ」
「ダイジョブですヨ。たすけテもらったのはワタシ。オレイをいうのもワタシ。それよりアナタ。ケガしてル……」
「え?」
心配そうな顔をした女性がこめかみを指差す。
アキラはキョトンとしながら自身の耳元に手を当てると、指先にヌルっとした何かが付いた。
なんだろうと手を見ると、べったりと赤く染まっていて、驚きと恐怖に顔を引き攣らせる。
「え? ええっ?」
どこも怪我をした覚えがないので、軽くテンパったアキラがペタペタと頭を触り、右のこめかみあたりに触れた時、鋭い痛みに顔を顰めた。
男の腕を跳ね上げた際、耳元を飛んで行った刃物が掠ってしまったのだ。思いの外大きい傷だが、興奮しすぎて気付かなかったらしい。
どうしようと情けない顔で女性を見上げると、女性は歩道の向こうで手を振ってタクシーを泊めていた。
道行く人たちが心配そうに、そして関わり合いたくないという複雑な表情でアキラを見下ろしながら歩いて行く。
それはそうだろう。誰だって水商売風の外国人を連れた男が、頭から血を流してシャッターを背に崩れ落ちていたら、そっち系のトラブルに巻き込まれたと思うのが普通だ。そしてそれがあながち外れていないあたりが悔しいところでもある。
「おニイサン! とにかくノッテ! チリョウするカラ!」
「え、あの、その…… ちょ、ちょっと待―――」
女性は、その華奢な体躯からは信じられない程強い力でアキラを抱える様に立たせ、半ば放り込むようにタクシーに乗せる。そして女性自身もそのままアキラの隣に乗り込んだ。
控えめの香水の香りがフワリとアキラを包み込み、嗅ぎ慣れない大人の香りにドギマギする。
チラリと横目で盗み見た女性はやはり日本人ではない。少しだけ濃い色の肌、チョンと小さく尖った鼻に大きな目。そして少し捲れ上がった唇の色が濃いのも口紅だけのせいではないだろう。おそらくはフィリピン人だ。小柄で華奢ながらも匂い立つような肉感的な体は、安斎支部長曰く「たまらない」らしい。
非常に愛くるしい幼い顔つきから、もしかして10代なのかなとも思うが、目尻に数本奔った浅いシワを見ると、見た感じよりは歳は上なのかもしれない。
「ヒマワリようちえんマデ、おねがいシマス」
タクシーの運転手が迷惑そうな顔で後部座席を振り返りながらも車を発進させる。女関係のトラブルで怪我したマヌケ男、みたいな事を思われているに違いない。
終始無言であった車内の空気にたじろいでいたアキラだが、車は5分ほど走るとアパートや商店が並ぶ住宅街で止まった。さっさと降りてくれと言わんばかりに無言でドア開く。女性がさっさとお金を払って先に降りると、アキラを座席から引き摺り出す様に「えいっ」と引っ張った。
街灯も少なく、ひっそりとした街並みに降りると、ドアが閉まり切らないうちにタクシーがそそくさと去っていく。
遠ざかるエンジン音と、見知らぬ街。そこに流されるままポツンと立つアキラの横には、数分前に会ったばかりの外国人女性。
アキラは思った。何だコレ。
「あ、あれ? 僕、さっきまでお使いに行ってたんだけど…… お酒を…… あれ、コンビニどこ……?」
「おニイさん、アガってッテ!」
ガシっと手首を掴まれ、グイグイ引っ張って歩いて行く女性。
さっきまで自分が引っ張っていたと思ったら、いつのまにか引っ張られていたでござる。
未だに状況に頭が追いつかないアキラは、引っ張られるまま、為すがままであった。
本人は頑なに認めないが、元々、妹に彼女面をされるほど押しに弱い性格なのだ。
だから、アキラはこの段階でようやく気付いた。
―――あれっ!? もしかして人生初めて異性の家に上り込む!?
アキラの中で静流はパンツとスポーツブラをつけた雌ライオンなのでノーカウントだった。
「ぼ、僕は高校生でっ まだ早いっていうかっ」
「おニイサン、ダイジョブ? ついタヨ エンリョしないデ」
そうして、アキラは女性の家に足を踏み入れた。




