殺し屋シバリは諦めが悪い
2X4X年2月X日
天気は風は冷たさが残る雲一つ無しの晴天
首都東京で一人の男がスコープを覗いていた。
覗き込んだ先に映る標的の頭の位置に十字線を少し高めに合わす。男は長く重みもある銃身を抱き寄せて引き金の先に中指で触れる。
男は待っていた、標的が間違い電話を取っていつもの位置に立つ瞬間を待っていた。
とある犯罪組織の仲介でとある団体から依頼されて、それを引き受けた。
予め犯罪組織の情報サービスで標的のスケジュールからいつもの位置に立つ癖までを把握し、同じように間違い電話サービスで標的を誘い込み、最後に実行者が仕留める。
標的がいつもの位置に立った、引き金を絞る。
銃声が鳴り響――か無い、代わりに聞こえたのは空気が軽く破裂した音だ、だがそれは車や工事現場に電車などの都会の喧騒に搔き消される。長い銃口には炭酸飲料の缶並の大きさをした黒い消音器が取り付けられていた。
男は標的を確実に仕留めたのを確認すると腰に巻いていたロープを伝って屋上に上がる。
ビルの外壁から狙撃したのは射線を誤魔化すためだ、男の背後は世界経済失速で売れなくなった超高層マンションがあるため警察は射線を辿って誰も痕跡も無い超高層マンションの上層階を捜索するだろう。
男は屋上に上がると何事も無く普通に階段に戻って清掃道具を持ち、エレベーターで降りて誰にも怪しまれずにビルを出て、監視カメラの死角を通って目立たない脇道に入った。
男は脇道にあったマンホール蓋を近くにあった壊れたビニール傘で6回叩く、するとマンホール蓋が開いて小汚い服装をした老人が現れた。下水道を住み家にしているホームレスを利用した犯罪組織の物流サービスで盗難された清掃員の作業服と清掃道具に使用済みのライフルを無言の老人に渡した。予め前払いしているためすべてを確認した老人は何も言わずマンホール蓋を閉じて住み家に戻っていった。
男はネクタイ無しの灰色のスーツ姿で何事もなかったように脇道から出て、そして人混みに紛れた。
私の名は、どこかで誰かが聞いてるかも知れないから仕事上の名義で『シバリ』と名乗っておこう。
ちょうど朝から6件の仕事を片付けたばかりだ、これでしばらくは10日ぐらい休めるだろう、そう思って駐輪場の自転車に戻る所だ。
角の道を曲がり人があまり通らない所にある駐輪場の入り口に入り、自転車に置いた場所の番号を確認して入り口付近の駐輪場の精算機に番号を入力すると、駐輪料金を求められた。
まあ当たり前だろう、朝から落ちていたバットを振ったり誰かの足のかかとを突いたりブレーカーを弄ったり誰かを溺れさせたりとかをしていたら時間を超えるだろう。
予測はしていた、駐輪料金を渋る人間でもないので胸ポケットから財布を取り出してチャックを開け100円硬貨を取るが白い手袋で滑ってしまった。100円硬貨が地面に向かって落ちて
鉄柵の蓋をすり抜けて溝の溜まった泥に垂直で突き刺さった。
しまった!、面倒な所に落ちてしまった!。
たかかが100円硬貨だ、だが100円硬貨というお金だ。例えどんなに小さな金だろうと粗末も無駄もする気は無い、『一銭を笑う者は一銭に泣く』もある。そしてそれが自分のルールの一つでもある。
幸いにも落ちた場所は浅く溜まった泥に垂直で突き刺さっている、落ちているところがわかれば対処ができる。私は白い手袋を汚すわけにもいかないので外して姿勢を低くし、素手で長方形のチョコレートのお菓子が入りそうな鉄柵の穴を掴み蓋を開けようとする。
駄目だ、さっきから力を入れて開けようしているが重いのか錆びついているのか分からんが何一つ動かん。くそ!、今はまだ誰も見られていないがこれ以上長引けばいずれ誰かがくる。駐輪場の利用者、管理人、警備員ならまだいい。
だがもし警官が来たら確実に怪しまれるはずだ。
何故かって?、少なくとも精算機のそばでしゃがんでいたら状況的に確実に職質を受けるだろう。
これで犯人だとばれる問題ではない、少なくとも印象を覚えられるのが問題だ。そして類似の事件の時に捜査で何気なくあの時の事を思い出して呟けばやがてそれ以上の事態になるのは目に見えている。できれば仕事のリスクを増やしたくない。
慌てるな、冷静に確実に迅速に事を収めるんだ。
しかしこの鉄柵の蓋はまるで埋め込まれているように、……いや、よく見れば特殊な形をしたネジが4本埋め込まれているな。
………。
ふふふ、落ち着け、今気づいて良かったと思うんだ。下手をすればあのまま2分間ぐらい無駄な時間を過ごしていたらと考えるんだ。落ち着け、落ち着くんだ。
さて鉄柵の蓋の四角にそれぞれ特殊な形をしたネジが4本埋め込まれている。
だが問題では無い。
私は灰色のスーツの懐から手頃な箱を取り出して開いた。中には大きいドライバーから極小さなドライバーまで隙間無く15本が入っていた。そこから大きいドライバー2本を取り出した。
なんでそんな物を持っているのか?。
よく仕事道具として使うんだ、当たり前だろ?。
それで一本ずつネジを抜くのか?。
違うな、一応この特殊な形をしたネジでも取り外す事はできるがあまり時間を掛ける気は無い。
ではどうするのか?。
私は両手に大きいドライバーを持って鉄柵の穴に差し込み、垂直で突き刺さったままの100円硬貨に裏表両側を挟み、後はゆっくりと持ち上げる。
長方形の穴で良かった、もし正方形なら本気で泣きたくなるからな。
ある程度の高さまで持ち上げて、もうすぐ鉄柵を抜けそうな時。
向こうの角の道から誰かが歩いてくる音が聞こえる、そしてそれに動揺して危うくドライバー先が滑り100円硬貨を落としそうになる。
危なかった、だが状況が少し悪化した。向こうの角の道から誰かが来るのは問題はでは無い、せいぜい時間制限が追加されただけだ。
問題なのはドライバー先が滑り挟んだ向きが変わった事とドライバー先が滑りながらも辛うじて挟んだ所が表の桜の出っ張った表面だ。さて挟んだ向きが変わった事で自分の位置を変えなければ鉄柵を抜ける事はできない、だが下手に自分の位置を変えれば辛うじて挟んだ所が滑りまた最初から又は水平なり隅に落ちるなりの最悪な状況になる。
どうする?。
慎重に自分の位置を変えれば鉄柵を抜けて取る事ができる、だが時間制限が追加された事により困難になった。向こうの角の道から現れる者が駐輪場の利用者、管理人、警備員だと祈るか?。それとも100円硬貨を諦めるべきか?。
いや、諦める気は無い。
このシバリ、プロの殺し屋として、自分のルールとして、諦める気は無い!。
私は敢えてそのまま鉄柵の前まで持ち上げて止めて、そして100円硬貨をドライバー先で滑り弾いた。弾かれた100円硬貨は回転しながら上に向かって上昇し、鉄柵の穴で一瞬だけ垂直に入りそのまま穴の部分に弾き跳ねながらさらに上昇して穴を抜けた。
100円硬貨の鉄柵の外に飛び出して宙に舞い、やがて重力に囚われ落下して、落ちていくところを
掴んだ。
私は右手に掴んだ100円硬貨を見て、笑みを浮かべた。
その後はドライバーを箱に戻して灰色のスーツの懐に収め、白い手袋をはめて精算機に100円硬貨を入れてロックを解除し、自分の自転車を出して向こうの角の道から来た主婦と駐輪場の入り口ですれ違い、向こうの角を曲がり周りに人がいないのを確認して、拳を握り静かに嬉しさを込めて片手を掲げた。
自転車で家に帰る途中に自販機を見つけた。
胸ポケットから財布を取り出してチャックを開けて100円硬貨を取るが白い手袋でまた滑ってしまった。100円硬貨が地面に向かって落ちて
鉄柵の溝に落ちる直前に白い手袋で自分でも驚くほどの速さでまた掴んだ。
「ぜぇぇぇはぁー、ぜぇぇぇはぁー」
違う、断じて違うぞ。
決して背中に冷汗が出たとかビルの狙撃よりこんな小さな事で緊張して息切れが起きたとかぜんぜん違うからな。これは……あれだ…そうコーヒーだ。体が急に珈琲を欲して息切れしているだけだ。さぁーてと仕事終わりの昼の珈琲はオイシイナー。
さて、とんだハプニングに見舞われながらも、家に帰える前に昼飯を済ませようと思い適当な喫茶店に入る。ふむ、今の不景気にしては中は人が込んでいるな。席が無かったら別の店に入ろうか。
「すみません、相席になりますがよろしいでしょうか?」
私は『構わない』と返事をして褐色の肌をした女性のウェイターの後に付いて行き、合席を案内してもらったが目の前に座るメニューを見ている男を見て心の中で『ゲッ』と思ってしまった。おそらくメニューから目を離して相席になった男を見た相手も目から察するに同じ事を思っただろう。
目の前にいる男はどっかのカラスの相棒、フランコ。
スペインマフィアに属する移民スペイン人でプロの強盗だ。ベージュのトレンチコートを着ている。
「ウェイター、こいつで頼む」
フランコはシバリを片時も目を離さず女性のウェイターにメニューの何かに指を指して注文した、そしてウェイターが厨房に行ったのを確認すると異国の小言で言った。
『殺し屋と相席なんてついてねぇぜ』
『奇遇だな。私も強盗と相席するとは思わなかったよ』
返事が帰ってくるとは思わなかったのかフランコは目を見開くも落ち着いた表情を崩さず、女性のウェイターが持ってきた水が入ったグラスを一口飲んで、再び口を開く。
『驚いたぜ、スペイン語(公用語のカスティーリャ語)ができるのかお前』
『忘れたのか?、以前の仕事で表向きの職業はフリーの通訳兼翻訳家だと、言ったはずだ』
『ぜんぜん聞いてなかったぜ』
今ここのテーブルにある物で目の前の男を50通りの方法で殺ってもいいが、落ち着け自分。ただ私は昼飯を済ませに来ただけだ。この男を始末しに来たのではない。
私は適当にメニューを開き写真を見て女性のウェイターを呼び、適当な料理に指を指して注文した。フランコがまた何かを呟いた。
『〔これじゃあ、小言も言えねぇじゃねえか〕』
『〔ガリシア語で小言を言うな。ガリシア語で〕』
『〔こりゃあ驚いたぜ。お前、ガリシア語もできるのか?〕』
『〔なんだったら、スワヒリ語でお前をひたすら罵倒し続けてもいいんだが?〕』
「そいつは勘弁してくれ」
こんな無意味な会話を終えた後、適当に水が入ったグラスで舌を潤して料理が来るまでお互いに無言で時間を潰し。私がもはや骨董品扱いの電源が半分まできた折り畳み式携帯電話のマナーモードを切った頃にやっと女性のウェイターが料理を持ってきた。
女性のウェイターが二つのパエリアをお互いの席にそれぞれ同じテーブルに置いた。
「おいウェイター。パエリアは一つだと頼んだはずだが」
「え?、こちらのパエリアはこちらのお客様の方です」
「……なるほど、どうやらお互い同じ料理を頼んだようだな。シバリ」
「ウェイターさん、追加注文で食後の珈琲を」
「おい」
さてよりによって相手と頼んだものが被ってしまったわけだが気にしないでおこう。
フランコは無視された事を気にせず金属製の先割れスプーンを取って、パエリアを一すくいして口に入れた。落ち着いた表情が崩れた、よほど美味しかったのかゆっくりと先割れスプーンを出して口に含んだパエリアをよく味わうように噛んで飲み込んで言った。
『〔辛い!!〕』
「辛い?、何を言って。!、ぐふっ!ごほごほ」
何てっこった!。
先割れスプーンでパエリアを一すくいして口に入れた時に舌で感じたのは、魚介と肉とかの山と海の旨味と火で炙られたような辛さが波のように押し寄せて来た。しかし辛さが強すぎる!、何だこの辛さは!?。私は勿体無さを感じつつも素早く水が入ったグラスで舌を消火して呑み込んだ、にも関わらず未だに口と喉と胃が火傷のように残っている。
「ウェイターさん、私はパエリアを頼んだはずなんだが?」
「えーと、お客様。それは当店の限定パエリアです」
「限定パエリア?」
「はい、メニューに記載されています」
私とフランコは二つのメニューをそれぞれ取り、自分で指を指した料理のところを見た。
期間限定パエリア ハイパースーパー超地獄琉海と山と地獄のパエージャ・ミスタ
ふざけるな。
非常に気に食わないが私とフランコの意思は一致しただろう
「なぜこのパエリアを作ろうと思ったんだ?」
フランコが恕を混ぜた声色で女性のウェイターに問い詰めた。
恕を混ぜた気配に女性のウェイターは褐色の肌を冷汗で濡らしながらもはっきりと答えた。
「オーナーが昔々の時に食べれなかった辛いパエリアを食べようと記憶を頼りに作ったのがこのハイパースーパー超地獄琉海と山と地獄のパエージャ・ミスタです」
「こんなの誰が食べるんだ?」
「そうですか?。周りの人は食べていますよ」
疑問を呈したフランコと決断を迫われた私は女性のウェイターに言われて辺りを見渡す。
周りの席を埋めている客はほぼすべて凄く辛いパエリアを注文して食べていた。よく見れば食べている客のほとんどが私とフランコ以上の歳でおそらく70から80までの人達だろう、皆がむせながら水を飲みながら辛いとかでも美味しいとか懐かしいとか言いながら食べていた。
「私は見た事がないのですが何でも昔々に激辛ブームがあって、皆さんはたぶんあの頃の再挑戦で食べてるかなーって」
「へぇーそんなふざけた事があったのか。『〔おい殺し屋、即金で強盗とこの店のオーナーを殺ろう。〕』……シバリ?」
速攻で八つ当たりを決めたフランコは目の前の殺し屋に異国の言葉で話し掛けたが殺し屋は激辛パエリアをずっと見たまま何かを決断した顔だった。
「……ふふ……ふふふ、良いだろう。食べてやる、食べてやるよ」
殺し屋の発言にフランコは驚く。
「何故だ!、シバリ。こんなパエリアの異端児を食べる必要性は無いんだぞ!」
「いやあるさ、フランコ。私はな、私自身で決めたルールがある。そのルールの中に一つ、こんなものがある。『出された料理が汚されない限り残さず食べる』!」
「いや知らねぇよ!。何で俺がお前のルールを知らなきゃいけねぇんだよ!」
「そして私はたとえこの激辛料理だろうと食わなきゃならん!」
私は再び激辛料理と化したパエリア、ハイパースーパー超地獄琉海と山と地獄のパエージャ・ミスタに先割れスプーンで次々とすくい始め口に入れて食べた。
『〔な、なんてヤツだ。こんな料理というより一種の火薬のような物を次から次へと食べやがる。殺し屋シバリ、なんて恐ろしい奴なんだ〕』
そして私は再びむせた。
「ぐふっ!ごほごほ!!。みず水水!、ウェイター!。早よ水!早よ水!」
「おい、食べ終わるの早いな。まだ一割しか減ってねぇぞおい」
「ま、まだだ。この縛河はまだ諦めん!、諦めはせんぞ!!」
「お前、縛河という名だったのか?」
「いや、昔の漫画の主人公の名だが?」
「…なぜ今の状況で言った」
「主人公が激辛料理を食べきらないと死ぬ状況のシーンを思い出してな」
私は父の書籍棚にあったマンガ、2000年代に地味にヒットしたマンガである『炎の食い倒れ』に出てくるひたすら食い倒れ勝負する主人公『縛河食い倒れ君』の『灼熱地獄料理の激辛の罠』のピンチのシーンに言ったセリフを思い出した。
主人公はそのセリフを言って血を吐き出し震えながらもながらも見事に完食するわけだ。あの頃はそのシーンを見て『あと一口だからさっさと食べろよ』と思ったが、これを食べるのか……なるほどそりゃあ血を吐き出すわけだ。
「いったいどうやったらそんな状況になるんだよ。………ふっ、良いぜ。俺も食べるよ」
「良いのか?。こんな火薬のようなパエリアもどき、食べるのか?」
『〔勿論だ、俺はごほぐぇごほぉほぉっ(認めた奴には嘘は言わん)〕』
「すまん、何言ってるのか、よくわからん」
その後、私とフランコは悪戦苦闘しながらも何とか完食した。
食後の珈琲を飲んだ私は女性のウェイターに『この珈琲、甘いんだけどカフェオレか千葉の珈琲牛乳の間違いじゃないか?』と言ったら女性のウェイターは笑顔で『いいえお客様、それはブラック珈琲で間違いはありませんよ』と返事をした。
とんだ想定外はあったが無事、家に帰る事が出来た。
私は懐にある仕事道具を秘密の場所に戻し、歯を丁寧に磨き、プライベート用の鞄を背負い、扉の鍵を閉めてまた出掛ける。
今日は歯医者の日だ。
さて私は歯医者の治療を終えてまた来月に、という事だ。
そして自転車を駐輪所に置いて本屋に行こうといつもの道として駅構内のデパートを通る。今何時かな、と思い左腕の腕時計を見ようとするが白い手袋が覆って見えない。左手の白い手袋を外すも腕時計が地面の方に向いてたから、左腕を捻って腕時計を天井に向ける。ふむ、今は2時半か。
その時、私の左手に美味しそうなクッキーが渡された。
おそらく先ほど通り過ぎた売店の女性が試食として渡したのだろう。ちょうど私の左手が受け取る体勢に見えたのだ。
………。
し、しまった!。いまの状況は不味いぞ。
この美味しそうなクッキーが不味いわけではない、私の歯が問題だ。
歯の治療からまだ5分も経っていない。歯医者の女性から一時間経つまでは飲食は控えてくれと言われたのだ。私は幼少期に一時間も経ってないのに空腹に耐えかねてほかほかの白米を食べてしまい、地獄のような痛みと出血に襲われたのだ。
そして私は私自身で決めたルールに『歯の治療して一時間経つまでは飲食はしない』と決めたのだ。
さて状況は不味いな、幸いにも左の白い手袋は外す際に上着の右ポケットに仕舞い込んだ。
とりあえず私は美味しそうなクッキーを器用に左手の薬指と親指に挟み、次に中指と人差し指で掴み、さらに親指と人差し指に持ち替えた。そして一応、小指と薬指で右手の白い手袋を外して素手になった手で白い手袋を掴み、少し膨れ上がった上着の右ポケットに仕舞い込んだ。
良し、これでだいぶ楽になった。右手はもしものための保険として素手にして、あとは一時間までこの状況を保つだけだ。問題は無い。
「よろしければ一つ試食をどうぞー」
「ん…ありがとう」
私はお婆さんが差し出した試食の干しイカ、一欠片を右手で受け取るとお礼を言ってそのまま通り過ぎた。
……。
しまった!。つい癖で試食を受け取ってしまった。
不味いぞ、いや、決して干しイカが不味いわけでは無いが右手が塞がれてしまった。くそ、左手に美味しそうなクッキー、右手に味が良い干しイカ、まさに両手に花ではなく両手に食い物だな。
あれ?、今旨い事言った?。
違うそうじゃない、両手に華だ…あれ?、両手に花だっけ?。違う違うそうじゃない、ええい落ち着け。落ち着くんだ。冷静になれ、なるんだ!。
とりあえずさっきの要領で、右手の干しイカを左手の空いている中指と薬指で挟んだ。右手の親指と人差し指には干しイカの美味しい粉が付いてるが舐める気は無い、そのまま擦って落とす。
よし今度こそ、一時間までこの状況を保つ。
「カステラの試食はいかがですかー。お一つどうぞー」
私は青い瞳のお姉さんに小指薬指中指を丸めて合わせた大きさのカステラを一つを右手で受け取るとそのまま通り過ぎた。
……ああ、分かっている。何が言いたいのかも分かっている。
だが癖というものは案外、意識せずとも勝手に動いてしまうものだ。ほら、FPSゲームをやると窓際を警戒したり飛行機とか回転翼機とかの航空機の音に反応したり、死にゲーをやるとやたらに別ゲーで宝箱を警戒したり日常で何故か角を警戒したり、ホラー映画を見ると暗い夜道を歩かないし扉の鍵を再確認したり非常口を確認したり空気構の真下とか扉の前とかに立たないとか、いろいろな癖があるだろう。
……これ以上の言い訳はしない。
右手のカステラを左手の空いている人差し指と中指で挟んだ。これ以上は危険だな何か皿かパックに入れないと本気で困る。私は辺りを見渡した、見つけた。あの台に行けば、何とかなるはずだ。
私はあの台に向かって歩き出した。
走らないのか?、左手が試食で埋まっている灰色スーツの男が物凄い速さで通り過ぎたらいやでも記憶に残る。それは困る、幸いにして周りの人は私の状況に気づいていないようだ。
「オヒトツ、イカカガーデスカー」
癖で一口サイズのソーセージに爪楊枝を刺したのを右手で受け取りながらも何とかその台に到着した。その台はレジを通した商品をレジから渡されたレジ袋や買い物客のマイバックに袋詰めする台だ、そしてロールされた薄いビニール袋(ポリ袋)が備え付けられている。
私は最後に空いた左手の小指と薬指に爪楊枝を挟み、右手を自由にした。そしてロールされた薄いビニール袋(ポリ袋)を掴み必要な分だけを引き左腕の肘で押さえて取った。
あとは一口サイズのソーセージを入れた袋とそれ以外の袋に分けて、さらに袋に二つの袋を入れれば、そして最後にその袋を鞄に入れれば、やっと試食を持っていた左手が解放された。
駅構内を出る直前に一口サイズのチーズを貰ったんだが、今日はやけに試食を貰うのが多い気がする。何かの前触れか?。
この前触れか。
私は今、11番と書かれたロッカーの中に隠れている。
そしてロッカーの前には7人ぐらいのガラの悪いチンピラが誰かを探しているようだ。
駅構内を出て適当な手洗いを済ませていつもの道を歩んでいたら、本屋へ続く道が暴徒と警官の衝突で封鎖されていた。仕方ないので回り道しようと考えていたら。工事が中止になって放棄された建築途中の建物を見つけた、近道と思って入った。
まさか、ガラの悪いチンピラと遭遇しそうになるとはな。
私が先に発見するとつい癖で近くの11番と書かれたロッカーに隠れてしまった。やれやれ、厄続きだなこれは。どうやら彼等は誰かを探しているようだ。
さて、いきなりだが私が入ったロッカー以外にも左右にそれぞれ10番と12番と書かれたロッカーがある。そして、彼等が誰を探しているのか見当がついている、だからこのロッカーに隠れたのだ。いや、癖でこのロッカーに隠れたのは間違いは無いんだが。
「マッキー、何をやらかした?」
私は右の12番と書かれたロッカーに隠れている、知り合いに小さく殺気と哀れみを込めて話し掛けた。
「あ、やっぱ気づきましたか?。シバリさん」
右のロッカーに隠れている男は私の後輩、マッキー。
私と同じとある犯罪組織のフリーの殺し屋でアラスカから逃げて来たアメリカ人の生意気で微笑ましく憎たらしい後輩だ。ロッカーの小さい柵から見るかぎり灰色のトレンチコートを着ているようだ。
「へへへ、やっぱシバリさんには勝てねぇや」
小さい柵から表情は見えんが、小さい声からして、舌を出して笑っている事がわかる。マッキーは腕は確かな殺し屋だが少し外れているところがある。伸びが良いと思うけどな。
「それで、今度はどんなヘマをしたんだ?」
この後輩の過去の色々なヘマが思い浮かぶ、薬を間違えて手間を増やしたり、眠っている犬の前でガラスを踏んでしまったり、時限爆弾のタイマーを間違えて早めにセットしてアクション映画並みの派手な脱出劇をするはめになったり、と散々な物しか浮かばない。
「携帯電話をマナーモードにするの忘れてましたー」
OK、わかった。だいたい予想ができた、よし、事を終えた後で絞めよう。
死と生の狭間を新幹線並みに彷徨わせてやる、絶対にな。というかなんだ、携帯電話をマナーモードにするのを忘れるなんてふざけているのか?。呆れたよ、学校の集会か映画館での上映中に鳴るようなものだぞ、それ。
「それでちゃんと始末はしたんだよな?」
「もちろんですよー、始末した後こっそり逃げようとしたら鳴っちゃいましてね」
「なるほどなるほど、始末をしたならそれでいい。それで?、追手はどうするんだ?」
「ああ、それなら対策バッチリですよ」
マッキーは小さな声で言い終わるとマッキーが入った12番と書かれたロッカーが工事作業員によって運び出された。もちろん、ここの工事は中止になったから正規の工事作業員ではない、私と同じとある犯罪組織の偽造郵送配達サービスによる偽装作業員だろう。
「おいてめぇ、灰色の服の男は見なかったか!?。てか、こんなところで何やってやがる!?」
「ひぃ!?。私はフィクション工事作業の人でしてこのロッカーの回収作業してるだけですよ!。そんな男は見た事も聞いた事も無いですし知りませんよ!」
ガラの悪いチンピラが突然現れた作業員に鬼気迫るように尋ねるが、怯える(振りをする)作業員が知らないと答えた。作業員が何も知らない(知っているな、あれ)と見るや、ガラの悪いチンピラは彼を追い払う。
ってあれ?、私が入るロッカーは回収するんだよな?。
「ん?、あんちゃん、こっちのロッカーは回収せんのか?」
「ええ、私はこの12番ロッカーの回収を頼まれたのでそれ以下のロッカーの回収は頼まれてませんよ」
そう言って偽装作業員はマッキーが入った12番と書かれたロッカーを持ち出して、近くにあった車に乗せて何処かに消えた。
この場所にいるのは11番と書かれたロッカーにいる私と既に逃げ失せた殺し屋を探す7人ぐらいのガラの悪いチンピラだけだった。
……このような事態に備えて逃走手段を用意してたとはな、マッキーめ、腕を上げたな。
できれば私も逃がして欲しいのだが、あの偽装作業員め。気づいた上で『頼まれてない』からそれ以上はやらないと言ったな。
よし、決めた。ついでにあの偽装作業員も死と生の狭間を新幹線並みに彷徨わせてやる。
とにかくもう少し待つか、少しすればガラの悪いチンピラ達もそろそろここで探すのを諦めて別の所に行くだろう。さて、今何時だろうか。ああ、やはり今日は厄日だな、絶対にそうだ。無宗教の私が言うものではないが。ともかく今は少し待つ。今のうちに試食を食べるか?。いやいや、また手を洗わなくてはいかないだろう。
ルルルールールルルールールールルルルーールールールールルルールルルルールルルー
放棄された建築途中の建物で携帯の着信音である『ジョニーが凱旋するとき』が響いた。
ガラの悪いチンピラ達が誰の着信音だと言い始めて、確認終えた時にこの着信音は11番と書かれたロッカーから出ている事に気づいた。
私は、『凱旋するとき』じゃなくて『帰るとき』だっけ?、と思いながらガラの悪いチンピラ達がこちらを凝視している事に気づいていた。あ、母からの電話だなこれ。
私の携帯の着信音である『ジョニーが凱旋するとき』が『祝賀の準備をしよう』まで響いたとき。
ガラの悪いチンピラ達が11番と書かれたロッカーから目を離さず、それぞれ銃やドスに鉄パイプを持ってにじり寄る。
私は、そもそも『凱旋』じゃなくて『行進』のほうが正しいのでは?、と思いながらにじり寄るガラの悪いチンピラ達を見て、心の中で溜息を吐きロッカーの中にあった使われるはずの木製バットを握った。
『ジョニーが凱旋するとき』が『ジョニーが凱旋するとき』と緊張した状況に最後の響きを終えた、鳴り止んだあとには静かな空気を作り上がった。
ガラの悪いチンピラが11番と書かれたロッカーの扉に手を触れようとする。
私は、ロッカーの扉が触れられた瞬間に触れた人間ごと扉を蹴り開けた。
「ぜぇぇぇはぁー、ぜぇぇぇはぁー」
私の周りには7つのガラの悪いチンピラだった物が転がっているが気にする必要はない。彼等が探している人物じゃないと説明をしても灰色の服を着ている時点で無駄だからな。さて木製バットをこちらのガラの悪いチンピラだった物に渡せば問題ではない。おおかた裏切りがばれて一人で奮戦して相討ちになっただろう、極道物としては悪くないオチだ。
それとこの息切れは体力的なものではない、精神的なものだ。
私としては仕事を終えて自分の時間に浸っている時に後輩が起こしたミスと後始末をさせられた気分だ。たしかに私にも非があるだろう、携帯電話をマナーモードにしなかった私には非がある。
わかっている、私自身で決めたルールに『仕事中は携帯電話をマナーモードにするが』ある、だが私は仕事を終えて自分の時間に入っているのだ、どうしろというのだ。畜生め、私自身で決めたルールに『時間外労働はやらない』と決めているんだぞ。
まあいい、とにかく待つ必要性が無くなっただけだ。そう考えよう。それより母からの電話は何だろうか?、留守電に入る前に切られたからわからない。まあ、また掛けてくるだろう。
そう思った私はこの場を後にして本屋へ向かって歩いた。
本屋にはあまり客が入っていないようだ。
ここの本屋は本以外も扱っている。DVDやCDに古書や辞典とか、奥に行けばゲームソフトやプラモデル又はモデルガン、さらに奥に行くか注文すれば本物の銃火器類なども揃えている本屋だ。勿論の事だが新品と中古も扱っている。ついでにこの店の店主は元警部だから質も信頼できる。
新刊の本棚で目的の本である小説を探す。その小説は今日が発売日だという事を私は知っているし、他の本屋へ行けば売り切れている事も知っている(実際に探したからな)、だからこそここの本屋で探すために来たのだ、来るまでに様々な難関が立ち塞がっていたが問題ではない。
おっと、見つけた。
私が目的の本である小説に白い手袋の右手を伸ばして本の背の上を指で引っかけて取るように掴むと同時に、別の黒い手袋の右手が本の背をつかむように取って掴んでいた。
もしこれが男女の邦画の恋愛物だったら、恋の瞬間だろう。
だが相手は男だ。
しかも知り合いで、できれば遭遇したくない相手だ。
洋画で言うなら血も涙も仁義も無いクライムアクション物で今にも暴力シーンに移行しそうな、不穏な殺気の雰囲気をこの周りで醸し出している。マフィア映画で言うなら一触即発の状態で交渉か宣戦布告のシーンだろう。
黒い手袋の右手で本の背をつかむように取って掴んでいるどっかのフランコの相棒、カラス。
私と同じ日本人で二番目に会いたくないとある犯罪組織のフリーの実行者だ。そしてまたネイビーのトレンチコートを着ている!。何だ?、トレンチコートが流行っているのか?。くそっ、災難が起きる前には知り合いとトレンチコートをセットで見ている気がする、やっぱり流行っているのか?。
「手を退かしてくれんかね、シバリ」
カラスは殺気を込めた黒い目で私から目を離さず、力を込めて本の背をつかむように取って掴んでいる。
私自身で決めたルールには手にッ取った物は確実に手に入れるというルールがある、渡す気は無い。それと私はこの小説を買うために苦難を乗り越えた、それを横から取られる筋合いはない。
私も同じく力を入れて本の背の上を指で引っかけて取るように掴み、同じく殺気を込めた黒い目でカラスを見て言った。
「奇遇だな、私も君の手を退かしてくれと言うつもりだったよ、カラス」
「で、そちらは手を退かす気は無いんだな?」
「私のルールには『手に取った物は確実に手に入れる』という、ルールがある」
カラスと私はお互い殺し合うような距離で殺気を込めた黒い目を合わせている。店内は2人の不穏な殺気の雰囲気に包まれ、気づいた数少ない客は2人から遠ざかる。今にも2000年代ぐらいの極道映画のかち込み直前の強烈な音か西部劇の決闘直前の特徴的な音が聞こえそうだ。
私としてはこの場で50通りの方法で殺れるが、相手を見くびる気は無い。
この男は私と似ていて似つかぬ男だ。冷静に忍耐強く冷酷で確実に仕留める所は似ている、だがこの男には自分自身で決めたルールが無い事と狂気が潜んでいる。
つまり油断も隙も無い凶暴で欲に忠実な人間という事だ。
「私の方が先に取った」
私はよく使われる言葉を使った、もちろんシバリも同じくよく使われる言葉を使う。
「いや、私の方が先に取った」
「いやいや私の方が先に取った」
カラスは何かを考えているな。
表情が読めるわけではないが、この間は好からぬ事を言う前と同じ間だ。
「君は本の背の上を指で引っかけて取っているようだな、その取り方だと本の背の上がめくれてしまう。本の背をつかむように取るのが正しい取り方だと知っているかね」
何だと、それじゃあこの取り方は本を傷つけて。ってじゃなくて。
「今はそんなこと関係ないだろ」
カラスは分かりやすい音で舌打ちをした。この野郎、完全に渡す気がないな。
くそっ、その情報を聞かされると何だか申し訳ないような気持ちになってしまうじゃないか、さすがスペインマフィアから『スペインの八咫烏』と呼ばれるだけはあるな。関係ないと思うが。
ええい、このままでは押し負けてしまう。
「私は前々からこの小説を楽しみに待っていたんですよ。できれば渡してくれませんかな?」
「ほう、それは奇遇だな。私も次回予告を見た時からこの小説を楽しむのを待っていたよ」
「無印からずっとこの小説を楽しみに待っていたんです」
「ウェブ掲載時からこの小説を楽しむのを待っていた」
「前世から読むのを待ってました」
「一万二千年前から楽しみに待ってた」
「前々世から読むのを待ってました」
「一億八千年前から楽しみに待ってた」
「なぁ、ちょっと?」
横からこの店の店主が話し掛けようとするが耳に入らないし、今はそんな時ではない。後にしてくれ。
しかしこの言い争いは埒が明かない。どうする?。仕方ない、この手でいこう。
「よし、こうしよう。少々古い決着方法だがジャンケンで決めよう」
「いいだろう、ルールは覚えているよな?」
よし、多少卑怯な手を使うが問題ではない。勝てば良いのだ。
「「最初はグー、ジャンケン……」」
お互い出さなかった。
いや、お互い卑怯な手を使う気だった。後出しを狙っていたのだろう、しかも出される直前ぎりぎりを狙っていた。だがお互いそれを狙っていた。
「……おい、出せよ」
「いや、お前が出せよ」
もういっその事、殺ってしまおうかな?。
お互いに右手は使えないが幸いにして私は両利きだ、左手で私の背中に隠したナイフで手を引き剝がせる。だが問題はカラスだ、この男の事だから何かを隠し持っているに違いない。
カラスは右利きだが、たとえ左手でも私は油断はしない。カラスは左手を隠している、私と似たような事をするために背中に銃を隠し持っているはずだ。私が左手で背中に隠したナイフを出す前にカラスは銃で腰撃ちをするだろう、しかもこの距離なら当てられるだろうからやりかねない。
どうする?。
「おーい」
「「なんだ?」」
シバリとカラスがお互い殺気立った目を話し掛けてきた店の店主に向けた。店主は白髪が増えた頭を掻き毟りながらめんどくさそうな顔をして言った。
「その本の在庫なら奥にあるよ」
………。
周りが音の無い静寂な空間に包まれた雰囲気に変わった。
そしてさっきまでお互い殺気立った目をしていた二人が元の目で店主に向けて言った。
「「ではこの本を」」
「意地になるな」
さて、やっと難敵を退けて本を買えた。
しかしあのカラスめ。着信音が同じだったのか、レジで財布を取り出す時に私の携帯電話かと思って確認してしまったからな、畜生め。
まあいい、目的の本は手に入れた(本棚の本なのかは想像に任せるが)。
私は本屋から出て人通りが少ない帰り道を歩いていた。
その時、携帯が鳴った。今度は私の携帯電話からだ。
母だな。
会話内容としては『仕送りの中に間違えてシャーロックホームズ正典シリーズ全巻を入れてしまった』『今度行く時に回収するからそれまで全巻読破しろ』『それと父がお前の家へ遊びに向かったから案内して』というものだ。
殺し屋の私が探偵物を読むのはあれだが、母は重度のシャーロッキアンだからしつこいくらい勧めてくる、一応は読む事にした。
父がここに来ているから案内してほしい、以前は勝手に彷徨って散々探して見つけたら『満足したから帰る』と言って帰る事が多かった、今回は携帯電話で位置を教えてもらって私が案内をするのだが、その前に一つ問題ができた。
父の電話に掛けようとしたら、電源が切れてしまった。
なんだと……。
よりによってこのタイミングで電源が切れてしまうのか!。くそっ、まずいぞ。このままではまた探して『満足したから帰る』と言って帰る父のワンパターンになってしまう。これでは父に携帯電話を持たせた意味が無くなってしまうじゃないか!。
私はすぐに周りを見渡したが、緑の公衆電話ボックスが見つからなかった。
ああ、そういえば。解放なんたらかんたらが反政府活動する際にいろんな意味で使われて、政府が対策として一部地域を除き大幅に撤去したのを思い出した。
余計な事をしやがって、誰がって?、両方だよ、畜生め。
落ち着け、冷静に見渡せ、この状況だからこそ冷静になるんだ。
その時、ある店が目に映った。
その店は良くて懐かしき老舗、悪い言い方をすれば古びたオンボロ、AI販売機が完全普及したご時勢にまだあったのかと驚きしかも木造という今時フィクションでしか存在していない店、煙草屋があった。
私の予想が正しければその店には赤電話という公衆電話があったはずだ。
1960年代を舞台にした映画とか小説でのイメージしかないがきっとあるはずだ。
私は煙草屋に近づき、見つけた。
本当にそのままフィクション抜き出したような懐かしき公衆電話、赤電話があった。よく見るとピンク色だがそこは気にしない、電話さえできれば問題ではない。テレホンカード(財布の飾りと化している)は使えないが緑の公衆電話機と同じく10円硬貨で通話できるから地味に財布に優しい。
私は胸ポケットから財布を取り出してチャックを開けて10円硬貨をまた落とさぬようにしっかりと握りしめ、受話器を上げて耳に当てて10円硬貨を投入口に入れて、ボタンを……。
ボタンが無かった。
いや、正確にはボタンではなく、ダイヤル式だった。
ダイヤル式だと!、何てことだ。忘れていたよ、この旧式はダイヤル式だという事だと。そうだった、ダイヤル式だよな、そうだろうな。
知らないよ、ダイヤル式の使い方なんて。
くそっ、落ち着け、1960年代を舞台にした映画を思い出すんだ。あのワンシーンを思い出せばきっと……いや、すでに会話していたな。うん、すでにダイヤルを終えて故郷のお婆ちゃんに会話をしているシーンだったね。
おお、落ち着け。そうだ!、ここは煙草屋だ!。煙草屋の店主である(高確率で)お婆さんに聞けば分かるはずだ。私は窓口を見たが閉じられていていた、窓には白い紙が貼っている。そこには手書きで文章が書かれていた。
申し訳ございません。
腰を痛めて故郷の実家にて休養しますので再会不明の休店させていただきます。なお煙草の販売に関しては引き続きAI販売機でお願いします。長らく御愛用ありがとうございます。
再会じゃなくて再開だろうが!。
違うそこじゃない、落ち着け落ち着くんだ、畜生め。何てこった!、どうしてだ畜生!。よりによって店主不在は無いだろうが!、畜生!。
私が窓に手を当てて途方に暮れていると、背後から声が掛けられた。
「お主は何をやってるのだ?。シバリ」
声を掛けた若い女はよりによって一番会いたくない人間で異常者、クルイ。
本気で『社会秩序の崩壊』を目標にしている日本人の女子高生だ。そしてまた黒のトレンチコート(おそらく私服)を着ている!。女だからトレンチコートを着るなとは言わないが、その黒のトレンチコートはどう見ても男性用のトレンチコートだろ!。というか何でトレンチコートなんだよ!、わざとか?、わざとなのか?。ええい畜生め、これはあれか?、どっかで塹壕戦でもやっているのか?。
「おい、聞いておるのか?」
よりによって一番会いたくない人間なのは変わらない。
どうして会いたくないか?。決まってる。
異常者だからだ。
クルイは本気で『社会秩序の崩壊』を目標にしている。
そこらの理想で夢見がちな解放なんたらかんたらよりもスペインマフィアよりも世界規模のネオナチよりも極道の組織よりもロシアンマフィアよりもアラビアマフィアよりも、下手をすればとある犯罪組織よりもかなり危険かも知れない人間だ。
「聞いておるのかお主?」
一度だけ意見不一致が原因の短い喧嘩をクルイとした事がある。
私は容赦せずに本気で20ぐらい殴った。言っておくが私は理由無き暴力をしない人間だ。この時ばかりは仕方なかったので喧嘩をしたが普段はしない、この時は本気で殴った。だがクルイは50以上に殴った。正確には素早い足払いからの馬乗りで主に頭を中心に徹底的な手をグーにしての血も涙も容赦無き暴力だ。
仕事では銃火器やどっから持ってきたかわからない日本刀に大量の爆薬を自在に操る。
正直に言えばクルイは私よりも強い。まるで何百年も閉鎖的な場所で殺って来たようなそんな女だ。
というより殺し屋の私に一切気配を悟らせず背後にいる時点で只者では無い。
「おーい聞こえんのか?」
どうする?。
私の取れる行動は3つある。
1つ目は携帯電話を貸してもらう。これは自殺行為だ、男性ならまだしも女性で女子高生だ。本気で殺される。
2つ目はその場から逃げる事だ。たしかにこれならいい案かもしれないが、仕事で一緒の時に強制的に全員の前であの時の事を話し掛けられるのは勘弁してほしい。
3つ目は諦めて正直に話す事だ。吉が出るか凶が出るかに頼る事になるが。
「もしや鼻血か?。ほれ、テイッシュを渡してやる」
「いや、いいんだ。鼻血ではない」
一応クルイは女子高生だ。
本人がそう言ってるだけだが、もしかしたらだ、この電話機のダイヤル式の使い方を知ってるかもしれない。歴史の授業で知ってるかもしれない、というか教えられているのか?。
ええい、畜生め。
どうして私がこのような目に遭うんだ?。
私がいったい何をしたというのだ?。ああ、いや、殺し屋が言うなと言われそうな気がするがよく考えてくれ、少なくとも理由無き事をやる人間よりはマシだと思う。
感情的にやるとか快楽的にやる人間よりは悪い人じゃないと思うよ。だいたいそれを言うと政府とか解放なんたらかんたらも同じような気がするんだけど。
ああ、そうだよ。
ここでとやかく言っても状況は変わらん。イチかバチかだ。
私は意を決して背後にいるクルイに振り返ってピンク色の電話機に指を差して尋ねた。
「クルイ。もしもだ、もしもでいいのだが……この電話機の使い方を知っているか?」
「ん?、ああ、これか、知ってるぞ」
「知ってるのか!?」
最近の学生でも知らなさそうなドワッジの骨董店で置かれているような代物を知ってるのか?。もしかしてクルイは以外にも博識なのか?。
「というより私も同じの持ってるし」
ああ、家に置いてあるのか。
それなら納得いくな。そういえば私の祖父の家にもあったな黒色のダイヤル式電話機、使ったことは無いけど。って、あれ?。クルイ?、何故鞄を漁るんだ。ああもしかして家にあるのを見せるために携帯電話を取り出そうとしているのか。はは、まるで。
「ほれ」
クルイは鞄から黒色のダイヤル式電話機、黒電話を取り出した。
ん?。
ちょっと待て、待て待て。携帯電話でもスマートフォンではなく実物の黒電話を取り出した?。待て、ちょっとまて。
「私のはとある本屋から手に入れた代物でな、黒電話の本来の機能は勿論の事。裏返せばメールができるように画面とタイプライター型が埋め込まれおる。左にはアラーム、キッチンタイマー、デジタル時計、ストップウォッチが付いてる。まぁ基本的なものは付いてるがアプリという物が使えんのは仕方あるまい」
なんだね、その謎の物体Ⅹは?。
落ち着け、落ち着くんだ。これはあれだ、うん。見てはいけないものだろう、はは、何だか疲れてきたな。よーし帰ったら名作洋画吹き替えを見て忘れるか。
「で、感想はどうだ?」
「スマートフォンや携帯電話を上回る凄い代物だな」
いろんな意味でな!。
クルイが普段の猛獣特有の黒く澄み切った目がなんか輝いて見えるがその後、顔は恥ずかしさと嬉しさが混ざり多少紅くなり俯いている、どうやら褒め慣れていないようだ。クルイのこんな姿を見るのは初めてだな、嵐でも来るのか?。
「そうじゃろうそうじゃろう。ではダイヤル式の使い方を教えてやろう」
やっと父に電話が繋がり場所を聞いた私に父はこう返答した。
『浅草。あと満足したから帰るところ。今度は妻と一緒に来るからその時によろしく。じゃあの』
はっきりとゆっくりに正確にまとめて、10秒で返答して一方的に切った。
ま、まあいい。父はいつもこんな感じだ。何とか困難を乗り越えた。そういう事にしよう。
やれやれだ、本当に凶は、じゃなくて今日は疲れたよ。
さっさと帰るとしよう。
私は月明かりが照らされる家の扉の前で胸ポケットから鍵を出そうとした。
………あれ?。
ば、馬鹿な。
鍵が無いだと、そんなはずでは!?。
胸ポケットに鍵が無い事を再確認すると次に両脇のポケット、背中の隠しスペース、喉ポケットは使っていないとして、鞄、靴のかかとの空洞を利用した隠しスペース、両手首の隠しスペースを調べたが鍵が見つからない。
まさか、落とした?。
ありえる、こんなハプニング、アクシデント、厄日、トラブルに巻き込まれたのだ。鍵を落とすのは造作でもないだろう。
さてどうしようか。さすがに自分の家を侵入する羽目になるのは気が引けるが野宿よりは仕方ない。そう思い、コンクリート製の高いブロック塀の上のアルミ製の柵に足を掛けて自分の家の二階の窓からよじ登ろうとしたその時。
私は背後に気配を感じた。
すぐさま右手首の隠しスペースから小さな拳銃を取り出して背後の暗闇にいる気配に向けて構えた。
手のひらサイズの上下2連の中折式の小型拳銃の銃口には上下共に金属製の独特な形をした針が仕込まれている。
「誰だ?」
引き金に触れながら暗闇の奥底を見つめて、いるであろう何者かに尋ねた。
暗闇から地面叩く靴底を響きかせて、こちらに姿を見せるように歩いてくる。
やがて月明かりが暗闇から出て来た何者かを照らす。
「私だが」
トレンチコートの両脇のポケットに両手を黒い手袋ごと突っ込み、小さな拳銃の銃口から見える針に怯える様子も無く、めんどくさいなとした顔をして、月明かりの前に現れた何者か、カラスが現れた。
「何しに来た?」
カラスはネイビーのトレンチコートの右脇のポケットから右手を出してこちらに何かを投げた。
私は左手で何かを受け止め、目を見開いた。
「鍵だ、君のだろ?」
無くしたはずの鍵を何故、カラスが持っていたんだ?。
私は動揺したがすぐにある事を思い出した。そういえば、本屋で私の携帯電話かと思って確認したあの時に。
「本屋で落としただろう?。店主が拾った。私としては気づいた上で無視して本を買って帰ろうとしたが、店主が渡してこいと頼まれてな。だから届けた。ただそれだけだ、特に意味はない。いいな?」
カラスは私が届けた理由を尋ねる前に、届けた理由を話すとこちらに背を向けて白い息を吐きながら再び右脇のポケットに黒い手袋ごと突っ込み、暗闇に戻っていった。
私はカラスが暗闇に戻るのを見て何かを思ったが気配が消えた事を感じて胸の奥底に何かを埋めた。
私は10日の休みに入り一息を付けた。
暖かい珈琲を片手に私は思った。
色々遭ったがやっと至福のひと時を味わう事ができる。
これでゆっくり休めるのだから。
私はゆっくりとこの至福のひと時と暖かい珈琲を味わいながら新しく買った小説を読むのであった。
まあその後に電話が鳴って、カラスが計画を持ち出して終わらせたり。
3日後には目標の走行する政府の特別高速電車を対戦車砲で車輪を撃ち抜いて脱線させて呆然としたり、熊が突然現れて殴られるのは、また別の話である。
少なくともまだ、この時のシバリは知る由もなかった。