アイジョウ
彼女は誰にでも優しかった。
沈黙こそが全てを愛する、最も優れた手段なのだと俺は考えていた。
優しかった彼女はここには居ない。
俺はベッドに寝転がっていた。白い天井、シミを数える。三つ目の辺りでいつも頭痛がする。そしたら俺は、今まで何をしていたのかをすっかり忘れたようで、また一から数えだす。穏やかな頭痛が心地よい。何も見ず、いつまでもこうしていたいとさえ思う。
彼女は何処に居るのだろうか。二つ目を数えた後、俺は数えるのを止める。
彼女の居場所に気付いてしまったら、ただ穏やかで優しかった日々は無くなってしまうかもしれない。それが怖かった。だから今まで逃げてきた。覚えているのに、覚えていない振りをして。そうしていれば、いつか本当に忘れてしまえないかと。
俺は三つ目のシミを探した。あの頭痛、あの頭痛をもう一度。そうしたらまた忘れて一からやり直せる。一から三までの間で生きていられる。ただ、沈黙していたい。優しい静寂の中に居たいんだ。彼女に触れられなくなっても構わない。どうせ、彼女もずっと黙ったままで、俺をただ見ているだけで……。
しかし、いくら探してもシミが見つからない。真っ白な天井。シミの一つすら無い。さっきまで有ったはずなのに。目を擦っても何も無い。ただ真っ白だった。
空白、静寂。沈黙とは空白であったのだ。
あの日から続く苦痛、それに支配された日々は空白であった。ただ優しかっただけの……。
俺は上体を起こして、部屋を見渡した。寝室、いつも隣に居た彼女は居ない。
一でも二でも三でも、どれでもないその先に踏み出してしまう事が怖かった。恐れる俺に彼女は何も言ってくれない。沈黙とは、優しさの表れでは無かったのか?彼女は俺だけに優しくなかったのか?
何も分からない。彼女の最後の言葉すら、俺には思い出せなかった。
彼女は何処で、俺を待っているのだろうか。
窓の外では雨が降っている。彼女は濡れてしまわないだろうか。それは、彼女の内面までをも冷ましてしまわないだろうか。
彼女が何処かに隠れているような気がして、部屋中を探した。それが冷静で、正常な判断で無い事を知っていたし、馬鹿げているとも思っていた。けれど、彼女とは言わないまでも、彼女が行き先を記したメモか何かでも無いだろうか。それだけが希望だった。
俺は忘れた振りをして、本当に忘れてしまったのだ。
ベッドに横になる時は、俺が左で彼女が右。
彼女の側にはキャスターの付いたドレッサー。引き出しも二つ付いている。
俺は、その引き出しの中を見たことが無かった。女性用の化粧品等に興味が一切無かったから。そして、彼女が一度もその引き出しを開ける所を、触れている所すら見たことが無かったからだ。
記憶の外にあったそれが、何故だかとても気を引いた。秘密としての沈黙に気付ければ、俺は何かを思い出せるだろう。
一段目を開ける。中には新聞紙が入っていた。何かを包んでいるのかと思えば、それ単体で仕舞われている。政治家がどうしたとか、有名人の訃報とかが書かれている。三年前の……日付は今日。
六月二十日。
俺は三年前の事、それから今までの事、ほとんど何も覚えていない事を思い出した。
俺は今まで何をしていたのか、彼女はここで何をしていたのか。あいつは何を見ていたのか。その答えは全く分からないけれども、何となく手掛かりに触れている気がした。俺は新聞を読み進める。雨の音が強い。
俺の世界には何の関係のない幾つかを飛ばした後、目が留まった。一面に比べると小さなスペースに記された事故の記事。死亡者は居なかった。住宅街で起きた事故は、周りに特に騒がれる事も無く、井戸端会議に少しの賑わいを提供しただけだったのだろう。少なくとも、俺達以外には。
事故の原因は運転手の前方不注意とされていた。そして、俺達はそれの犠牲になった。紫陽花が綺麗な場所だった。
世界が様相を変えた。静かだったその日が、いくつかの大きな音で切り裂かれていった。 さっきまで二人で歩道を歩いていた俺達は、揃って病院に運ばれて、運転手は裁きを待っていた。
最初に目を覚ましたのは彼女だった。俺と比べると彼女は傷も浅く、骨折でしばらく歩けなかったものの、俺を残して退院した。俺は、彼女が見舞いに来た日も、ずっと眠っていた。
ようやく目を覚ました時には、頭痛と混濁だけが部屋に残っていた。そして、質問攻めの日々も。あいつとの邂逅も。
俺はあいつと初めて出会った。いや、本当はずっと前から知っていた。俺がそれを認めなかっただけだ。
あの日俺は紫陽花の綺麗さのせいで、情欲に溺れそうな自分に嫌悪を抱いた。だから乖離してしまったんだ。不快だった、自分が自分で無いような気がしたから。
俺は彼女の声色を思い出そうとする。思い出せない。彼女は優しくあって欲しい。彼女は優しく沈黙していて欲しい。そう願ったのは自分だ。それでもどこかで、彼女に救われたいと願っていて、それがあいつを動かした。
結局は哀れな一人芝居だったのだ。彼女の声が聞こえないのは自分のせい。あいつが彼女を隠したのも自分のせいだ。
愛情も、愛欲も、情欲も、全て自分のモノであったのに。ただ愛したかった。そうすれば優しい彼女は当然のように愛してくれると思っていた。
俺は、愛されたかっただけなのに。
雨の音が強い。彼女は俺を愛しているのだろうか。ここに情欲の無い愛は、彼女を真に満たせるのだろうか。プラトニックの行く末を、俺達は確かめなければいけない。
彼女は雨の中、そこに立っているだろう。