情欲
僕は何故生まれたのだろうか。僕は何故存在しているのだろうか。
僕はその尤もらしい理由を知らない。
自分の存在理由が分かる者が何処にいるだろう?ましてやこの情欲の存在理由へと迫るには、感情として、人間として、ではなく、もっと原初の生命としての存在理由を知らなければいけないような気がした。
僕は形の無い感情、だから形ある生命の事は想像出来ない。だから、分からない。だから、形ある彼や、彼女が羨ましかった。のかもしれない。
自我の中の感情、その感情に自我はない。僕は僕の外側、つまり彼の意識を全て認識する事は出来ない。彼から与えられる世界の情報、そして自分が今すべき事。表出化すべき者と、してはいけない者。その区別が僕は正しく付ける事が出来ていた。ように思い込んでいた。
だから僕はその時々の指令、原初の本能そのものに従った。自分の存在理由を考えなくても済むように。存在理由とは即ち『自分のすべき事(成すべき事)』と同義であったように思えるが、僕=彼はそれに気付きたくなかったんだろう。
彼女に覚えたプラトニックラヴという精神は、それに反するように思ってしまったから。(面倒なのは、彼だけでなく、それに反する精神として生まれた、のかもしれない僕すらもそう思ってしまっていた事だ。)
僕は彼とは分け隔てられてきた。しかしそれでも、僕は彼の傍らに居続けた。影のように、いや、最早その足、身体そのもののように。僕達は全く同じモノだった。
だから最初、彼は僕を受け入れてくれているように思っていた。彼は無言で、立ち止まる事なく歩いていた。僕はそれを、容認の形だと捉えていた。実際、そうだったから僕は本来持ち得なかっただろう自我を手に入れることが出来た。全ては彼が望んだからだ。
僕が表出した彼。それは最早僕そのものだ。しかしあの時には僕達はそれに気付いていなかった。僕が意思を持った時点で、彼は完全な彼では無くなっていたのかもしれない。あの事故の有無に関係なく。事故はあくまできっかけ。
事の発端は恐らく、彼の見出した『愛情(自分)』と『情欲(僕)』の差異。そこに何の違いも無いハズなのに……。もっと深く理由を探そうとするのなら、あの日覚えたプラトニックラヴのせいだろう。聖人でも無い彼がそれを実現するには、犠牲を伴ってしまったのだ。
何年か前、あの日、彼と彼女と三人で道を歩いた。雨の上がったばかりの濡れた道を。あの紫陽花を見る為に。美しい夏になるハズだろう。僕は、その時にはもう僕を消し去りたがっている彼に気付かない振りをして、そう思っていた。僕達が避けた水溜りは、光を反射して、輝いていた。みんな、靴が濡れてしまわないように、気を付けて歩いていた。
その日ばかりは僕は穏やかな心で、ただ彼女を見ていた。彼は僕だ。まだそう思っていた。いや、そうで無ければならない事を知っていた。だから僕は、彼と同じ目で彼女を見ていた。
僕達が紫陽花の近くまで差し掛かる前に事故は起きた。濡れた路面。不幸な事故だったのかもしれない。水溜りの水をはね、自動車が僕達に突っ込んできた。僕達の誰も命を落とさなかったのは不幸中の幸いだった。
目が覚めた時には病院に居た。そこで後から聞いた話では、運転手が自分で通報したのだそうだ。
彼より先に目覚めた僕は、そこで自分の身体が、やはり自分の物では無く、彼の物である事を理解した。完全なる乖離。僕は肉体的なダメージを癒す時間を必要としない。僕はただの意識なのだから。彼の嫌った情欲は、遂に彼の外側に出た。外から見た彼は頭に包帯を巻いていて、どうやらあれで頭を強く打ったらしかった。僕は自分の頭に触れる。完全、そこに怪我など見つからなかった。
病室には他に誰も居なかった。隣のベッドには誰かが居たような気がしたが、遂にそこに誰が寝ていたのかを知る事は無かった。
僕は、彼女に会いに行った。それしかやる事が見つからなかったからだ。彼はずっと眠っているし、自分を嫌った者の寝顔を見ているのも、あまり気分の良いものでは無かった。
僕は初めて町を歩いた。自分の足、自分の腕、それを動かす事、彼の内に居た時の感覚があったからこそ、家まで辿り着けた。
家に入ると、彼女は寝室で、脇の引き出しの中に何かを入れていた。そして僕に気付いたようで、それを閉めて横になった。いつの間にか時間はすっかり夜だった。
彼と全く同じ姿形をしている僕を迎え入れる彼女。その乖離には気付かない。
僕は彼とは違う。抑圧されてきた感情はプラトニックな夢を見ない。僕は彼女に覆い被さった。自分の存在を彼女に認識させる為に。……僕は彼女に気付いて欲しかったのかもしれない。抑圧されていた僕を、ここに存在する完全な一つとして。彼がしない事を、僕までしないようにする必要などない。
僕は彼女に口付けを……。受け容れて欲しかったのかもしれない。彼から唾棄された自分という存在を、受け容れてくれる者が欲しかったのかもしれない。
しかし彼女は顔を背けた。僕は、彼ではない。僕は彼と同価値ではない(少なくとも彼女の中では)。それを理解せざるを得なかった。彼女は僕と彼の相違に気が付いたのだ。無言で顔を背けた彼女の表情を伺う気も起きない。僕は近づけた顔を遠ざけて、彼女の上に被さったまま、しばらくそのままで居た。
僕の世界は遂に暗黒になった。僕は完全ではなかったのだ。僕を受け容れてくれる人など居なかった。抑圧、隠蔽、排除。僕は何処に在るのだろう。彼が目覚めても、その答えは見つからなかった。
……。それでも、僕は君に還る気など無かった。君で無いのなら、君になってしまえばいいじゃないか。僕はそうすれば完全になれる。君は、僕を排除して、そうして何を手に入れた?何を思った?何故、まだ苦悩しているんだ?
情欲、それが邪魔をして彼女を正しく愛する事が出来ないと。僕が存在していたから彼女を愛する事が出来なかったんだろう?じゃあ今の君は彼女を愛しているのか?いや、寧ろ君は彼女に愛されているのか?言葉が効力を持たないと、都合の良い言い訳で、余計に苦しんで。彼女は何も言わない?君が彼女の言葉を聞こうとしていなかっただけだ。僕には彼女の声が聞こえていたよ。もっとも、僕には何も出来なかったけれど。でも君は違うだろ。聞こえない振りをしていたのは罪だ。プラトニックな感情は、それだけでは罪なんだ。誰も、それを望んでいなかったのさ。君だって……。
僕は、君に失望しているんだ。君はまだ愛情と、情欲が同一のモノではないと思っている。僕達は同じなんだ。同じ足で歩いているんだ。どっちかが大きくなれば破滅する。僕達は均衡を保つべきものなんだ。僕はそれに気付いている。
でも、君はまだ。さっきだってあと少しの所で、君が僕を否定したんだ。あくまで別のモノだと。
なら僕も別のモノだとして、彼女を愛する事にするよ。もう何も心配する事は無いよ。僕は僕、君は君だ。彼女がどちらを選ぶか、任せてみよう。
でも、君は彼女すら否定していた事を忘れてはいけない。仕舞われた記憶、君だけが知らない記憶。何で見なかったんだ?何で、何も知らない振りをしているんだ?
多分、僕の存在なんて君の決断一つで消えてしまうんだろう。それでも、君が全てを受け容れるまでは、彼女は僕の物にしたいんだ。
でも、僕は思ってしまう。彼女が愛するべきは僕達じゃない。彼女は、彼女だけを愛していればいい。きっとそれが一番良いんだ。これだけは、僕と君とで同じだろうね。もっとも、だから何がどうなる訳じゃないが。
……。僕達はさ、恐らく、愛というモノの形を知らないんだ。だから、理解されたがる。理解されれば、自分の行為が愛だと証明されるような気がして……。
……。僕達は、いや、君は、また一人で、彼女を愛せるだろうか。
僕は、自分が何を望むかも分からない。君になら、分かるだろう。自分が何を望むかが。