Tone of voice
乖離していく彼を見る。
あの日私は夢を見ていた。
不安のない真っ白な空。道の向こうに見える紫陽花。私達はそちらの方へ歩いていく。
梅雨の最中、しかし晴れた日。ただ歩いている。
目的地は何処だっただろう。私には分からない。多分彼にも。行くあてもなく歩いていく。
目的地があるとすれば、それは『紫陽花の綺麗なトコロ』
二人はただ歩いている。
私は夢を見ている。
奪われた夢を。散ってしまった花弁を。
口を開けている、酷い夏を。
今はもう、手に入らない夢を。
その後、私が目を開くと、決まって道化が何人も。
『愛するものが死んだ時には、』
『自殺しなけあなりません。』
『愛するものが死んだ時には、』
『それより他に、方法がない。』
道化の面を浅く被った、父母姉が口を揃えてそう告げる。
あの日々のだけでは、まだまだ足りぬと言う様に、私を苦しめ追い詰める。
何処で見たかも分からないような詩を、私に何度も歌う。
きっとそれは、きっと悲しいだけの詩じゃないだろうに、この場所には、その頭だけが反響する。
そうだ、あの人が死んだのならば、私は。
『愛する人が死んだ時には、』
私は傍らの刃を手首に当てる。
分かっているから……。
私は滴る赤い血を見ている。あの紫陽花とは正反対に、赤くて、暗い。
私は消えた両親と姉に別れを告げず、夢を見る。
けれども、もし、生きているのなら……?
私は夢を見ている。
だからこんなにも、傷は浅いのだ。
目が覚める。瞼を開くとそこには私の右手が見えた。身体を横向きにして眠っていたのだ。そこにある傷痕が、忌々しく、だがもの悲しくて、私は右手を下へ動かす。そのまま仰向けになって、私は上を見上げる。
外の雨も、関係なく、ただ塞ぐ天井。それは当然のように無機質だった。
隣に誰も居ないベッドは少し広く感じた。私は手を広げて、大の字に寝転がっている。
彼は、何処へ行ったのだろう?同居人は行き先も告げずに、何処かへ出掛けて行ってしまったよう。私は一人で寝転んで、ただ、天井を眺めている。
何かを思い出すには、まだ早い。何かを不安がるには、もう遅い。どうしようもないこの時間を、ただどうにも出来ずに過ごしている。緩やかな絶望が、部屋の中を渦巻いているのが見える。
全てしまった傍らの引き出しは、まだ誰も開けていない。それは多分、今は誰も望んでいないから。封の無い、ただ閉じているだけの段を、彼は開けてはくれない。
彼はいつだって優しかった。それはあの事故の前もそうだったように覚えている。
汚れた身体が、精神が、浄化されていくのを感じた。黒にもっとも近い赤が、薄紅から純白へと近付いていくのを感じた。
けれど、私は黒いモノを残したままで、遂にはあの紫陽花を近くで見る事など出来なかった。
結局、これは罰だったのだろうか。私は自分では認識出来ないような罪を犯して、それを償う為に、私に差し伸べられた手を、横から掠め取られて……。
あの事故から、彼は以前にも増して無口になった。しかし、その一方で饒舌になったようにも思える。彼と彼のチグハグな乖離、それが私のせいだと言うのなら、この緩やかな絶望こそが、私への罰なんだろう。
私の声は彼に届いているのだろうか。謝罪の言葉は、彼に届いているだろうか。
事故の後遺症、乖離していく彼を引き止める事が出来るだろうか。
私には分からない。
けれどそれより先は、もしかしたらこれより先は、彼自身が彼だけが行かなければいけない道なのかもしれない。
私はただ怯えて帰ってきて、私すらを見ても尚怯えて、震える彼が一人であるように、願うだけ。
私は夢を見ているのだろうか。また、紫陽花を見る事が出来るのを。二人で、あの道の先の……。そして、あの日叶わなかった一つになれる瞬間を。
もし、その為に私に出来る事が、まだあるとするのなら。
家の戸が開く。錆び付いているドアは、私には重い。家の何処に居ても、それが開いた事が分かるような音もする。
彼が帰ってきた。何処からか、多分今日も怯えているんだろう。自分に、世界に、記憶に。そして私に。
彼はあれから互いの好意を確かめる事をしなくなった。私が問い掛けても、彼には聞こえていないようだった。彼は私の腕を握って、私に覆いかぶさって、そして、しばらくそのままで、その後は、私の両の手首を見て、それから震えて……。
『今日はこれで終わりにしよう。』
私の手を離して、そう言って……。
「今日はこれで終わりにしよう。」
彼の声がした。多分寝室の戸の前に。
「今日はこれで終わりにしよう。」
彼の声がする。まだ今日は始まっていくばかりなのに。
「今日はこれで終わりにしよう。」
彼は今日を終わらせようとしていた。
戸が開けられる。いつものように震える彼がいた。私はそのままベッドに横になったままで、彼を待った。
彼はブツブツと何かを呟きながら、いつものように私を上から覗き込んだ。
彼は何も言わずに、いつものように震えていた。
彼は私の手首を掴んだ。とても力強く。痕が残りそうな程に。この痛みにも、もう慣れてしまった。
彼は私の手首を掴んだ。とてもか弱い。
彼は、私の手首の傷跡を指でなぞる。その這う後が、少し不快だった。
彼は、傷跡をなぞりながら震えていた。
彼はその指に力を入れる。握っていた私の手が自然に開いていく。彼は痛い程に力を入れる。私の傷跡を潰すように。
彼は、彼はただ震えている。
「今日は何処に行ってたの?」
私は少し怖くなって、気を逸らそうと思ってそう聞いた。
「君の、知っている所へ。」
彼は答える。
彼は何も言わない。
「父親には、どんな風にされたんだ。」
父なら、私を。
『愛する人が……。』
父親の声が反響する。父は何処にいるのだろうか。もうこの町には居ないはずなのに。
彼は険しい顔つきになって私を睨んでいる。『彼』は既に消えてしまった。
今の彼を動かすのは純粋な情欲だけ。私は、諦めて、天井を見た。無機質。緩やかな絶望。彼が彼に身体を返すまでの、ただ無機質な行為だけ。
「君は、君だけを愛していればいいのに。」
それは彼の口癖だった。私はそれが彼なりの優しさである事は理解していた。理解していたけれども、耳元で父が五月蝿くて、私は否応なしに父を思い出していた。
逆らえない力。捻じ曲げられる言葉。乱れる衣。絶望。父は私を汚していく。彼はそれを思い出させる。
父は思うに、純粋な情欲を肯定してしまっていたのだ。だから、それは彼に似ている。母も、姉もそれに屈服させられた。次は私だった。心の何処かで、私だけは、ただ見せられるだけの傍観者であると思い込んでいた。
父の情欲は平等であった。それ故に、もうこの町にはいない。母も、姉も。
父は死んだ。あの日母からそう教えられた。何故かは分からない。けれど私はその理由を聞かなかった。だが、私はそれだけでは安心出来なかった。
程なくして母と姉が姿を消した。ああ、この先は思い出す必要が無いのに。もう父は死んだのだから。もう母と、姉の事など。
『愛する人が……』
うっすらと涙で濡れた瞼を開くと、耳元で囁いていたのは彼だった。
それは『彼』から乖離した、情欲。元は愛と同価値だったモノ。しかし今は均衡を失っているモノ。彼が、醜悪だとして嫌っていたモノ。それは、私の父と同じ声色で、何かを呟いていた。
私は、何故だかこの時初めて彼が恐ろしくなって、叫んだ。
出来るなら『彼』に届いてくれるように。出来れば感情の均衡を取り戻してくれるように。願わくば、また一人に戻ってくれるようにと。
「愛する人は死んだ。」
「今日は、ここで終わりにしてくれないか。」
彼は私に、彼は彼に、そう告げた。
それは全く同じ声色で。
中原中也『在りし日の歌/永訣の秋/春日狂想』より一部抜粋