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カンジョウ  作者: 5番目
3/10

ガンボウ

 夜が深まった頃、俺は境界線上に居た。明るくも暗くもない。寒くも暑くもない。幸福でも不幸でもない。

 彼女に対して、極めてプラトニックであろうとする感情が、他の全ての物事に対して俺を無関心へ置いていた。

 俺は無理矢理に掴んだ手首に薄赤の痕が付いたのを思い出す。潤んだ瞳も荒い息も噛んだ唇も。俺には今ここにないモノばかりが見えている。

 されるがままだった彼女の表情が悲哀を表していたのか、多幸感を表していたのかは分からない。けれど、それは前者であったように思う。

 彼女はおそらく怯えていたのだ。

 その怯えた彼女を見て、俺は全く、この感情はプラトニックでなければならないのだと理解した。危うい境界線上をずっと歩いていかなければならないのだと。

 越えてはならない線を跨ごうとする自分の足は、自分の意識では動いていない。

 目の前の彼女の白い肌が、細い腕が、抱えられた両膝が、両の乳房が。線の向こうにある。手を伸ばせば届く距離。越えてしまえば大した事の無いモノ。

 しかしそれは、彼女の立てる水音が一つする度に遠ざかっていくような気になる。

 浴槽はそこまで広くないから、お互い膝を曲げて身体が一部分でも触れ合わないように入っている。

 薄い湯気の向こうに彼女がいる。退屈そうに、所在無さそうに左手を動かして水面を潜らせている。パシャ、パシャと、その音だけがここにある。

 呼吸は聞こえない大きさで、声を発する事もせず。

 愛していない訳じゃない。今すぐにでも感情を表したい。けれどその手段が無い。俺はそれらを一切捨て去ってしまったからだ。

 言葉なら弱弱しく、行為なら壊してしまう。プラトニックラヴを正確に、白日の下に晒すにはどうすればいいのか、俺は知らないでいた。

 彼女は迷う俺を責める事もせず、心身を覆う下ろした帳の中に誘う事もせず、ただ俺を見ている。口を閉じて、少し虚ろが差す瞳で。

 どうして欲しいのか。どうすればいいのか。分からないんだ。それに、自分が真にどうしたいのかも……。

 恋愛感情が所謂肉欲と隔絶されるべきだと、解っていても彼女の肌が目に刺さる。凶暴性に中てられた俺が、迷う俺を乗っ取ろうとする。彼女の全てを支配しようとする。

 欲を食むだけなら、愛を語る必要は無い。けれど彼女は愛を語った。俺も、愛を語ってしまった。それがそもそもの過ちだったのだろうか。

 彼女がもし悪女で、一切を適当にはぐらかしたままにして、俺が悩み燻るのを見て楽しんでいるのなら。そう思い込めたら彼女を汚す事にも躊躇は無くなるだろうに。怒り、失望のままに彼女を壊してしまう事すら出来るだろうに。

 俺がそうしたいのかは分からない。だが、きっと『俺』は彼女をそうするだろう。

 どうやら彼女は悪女では無いのだろうが。同じように悩んでいるのだろう。感情の正体を明らかにしようとしているのだろう。

 お互いに、思っている事が同じだからこそ、何も言えない。解決策が無い事が分かっているから。言葉にすれば酷くちっぽけに聞こえるだろうから。

 水音がいつの間にか聞こえなくなっていた。彼女は膝を抱えたまま透明な水面を見下ろしていた。二人は僅かに俯いたまま。

 彼女の感情が分からない。自分の感情も分からない。ただ静かに、どこを見ればいいのかも分からずジッとしている。

 お互いの身体が火照る頃、彼女の結ばれていた両手が解かれた。そのまま左手を伸ばして、俺に……。

 水中を進む彼女の左手は俺の右手に触れた。湯の中では分からないが、きっと彼女の手は温かいだろう。彼女は俺の右手を自分の方へと寄せていく。俺はされるがまま、彼女の左手を見つめている。

 拒めない、いや拒まない。振り解けない、いや振り解かない。俺にはどうする事も出来ない。ただ、彼女に任せている。

 彼女は俺の左手を自分の方に寄せると両手でそれを包んだ。狭い浴槽で、手だけが触れ合っている。彼女は俯いている。俺もそうだ。

 この行為にどんな意味があったとしても、二人が思っている事は違うのだろう。

 触れ合うのは不安だからだ。求めるのは確証が欲しいからだ。俺達の感情は不確かすぎる。

 確かなモノは、お互いの肉体と、そこにある傷痕くらいだ。傷痕に関係する全てと言ってもいい。

 彼女の左手首の傷痕は、水中でぼやけて見える。俺は目を動かして、揺れる彼女の傷痕を見ていた。彼女とは長い付き合いであるのに、それがいつ出来た傷なのか分からなかった。

 ……あれはもうずっと消えないだろう。

 感情を確かめ合うより前に、俺達はお互いの事を知らなさ過ぎるのかもしれない。

 もっとお互いの事を知りたい。記憶を、出来る限り共有していたい。傷の故も、何もかもが知りたい。

 けれど二人はどうやら言葉が嫌いなようだから、何も叶わない。吐息は何も語らない。

 ……。

「このまま……。」

 彼女が口を開く。圧し殺されそうな声を発する。彼女の傷は塞がったまま、もう血が流れる事は無いだろうに。

「このまま、溶けあえたらいいのにね。」

 それは良い事?それとも好い事?善い事?俺には何も分からない。俺は何も言わずにただずっと彼女の傷を見ている。

 このまま溶け合えるなら、きっと傷は開いて血が出てしまう。そしたら赤い湯の中で、二人の形が無くなっていくのだ。もう、境界を見る事は無くなるだろう。それは素晴らしい事のように思えた。それは、気持ちの良い事のように思えた。

 ……。

 彼女は本当にそれを望んでいるのだろうか。

 傷から視線を外して、彼女の顔を見る。

 彼女は僕をじっと見ていた。いつから?分からない。ただ彼女は、俺を見ていた。

 吐息の音も聞こえない静寂の中で、俺の手を握る彼女の手に、僅かに力が入った。

 俺は……。


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