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カンジョウ  作者: 5番目
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ツイの棲家

 この後俺達はどうなるのだろう。この後僕達はどうなるのだろう。もうすぐ終わるであろう全てに向けて、何を考えても結論など出はしなかった。

 愛だ恋だを語るのに、ふさわしいモノの一つも知らない俺達は、真に一体化出来るだろうか。意思の疎通がスムーズに行くのかどうかなんて、分からなかった。

 そもそも少なくとも俺は、自分が何を言わなければいけないのかすら分かっていなかった。ただ、彼女を満たすのが、一人の人間としての自分なのかを確かめたいだけ。

 三人、いや、二人が望むのはきっとそういうもので。誰も一人よがりな愛などは抱えたくないのだ。もしも、三人として考えても、これは変わらないだろう。全員がそれぞれ、誰かの空白を埋めようとしている。それが自分の存在理由だと信じている。それが正しい事だと信じている。

 俺は沈黙の先に行く。優しかった沈黙は自分が生み出した幻想であった。彼女はずっと俺の傍らで問いかけていたんだ。

 忘れた振りは終わらせなければいけない。

 俺から乖離した情欲を、元の場所に戻さなければいけない。

 不幸な事故だと思っている。けれど、そのままでは俺は歩けないだろう。ヒトは愛を食って歩く生き物だと言える程では無いが、俺は今日、それの正体を確かめる必要がある。

 行く先はあのアジサイ。願うのはただ一つのガンボウ。不快な梅雨は終わる。出会うべくして出会う邂逅は、今日で別れになる。

 答えをくれる彼女の声色はどんなだろうか。

 俺はその声に情欲を思い出すだろうか。

 あの日聞いた嬌声を。それに狂ったアイジョウも。全て自分のモノだと言い切れるだろうか。あいつも俺の感情だと、認める事が出来るだろうか。

(雨が上がる。静寂。)


「ほら、来たみたいだよ。」

 彼は彼女にこちらを見るよう促す。彼女は何も言わない。俺も何も言わないでいる。

 彼は一つため息を吐いて、しかし静寂に身を任せた。

「私は、私達と、貴方が、貴方達が間違っていたとは思わない。」

 彼女の声は鮮明に聞こえる。破られるべき沈黙が、破られるべくして破られる。それは正しい事だと判った。

「お前が、俺の生み出したモノなのなら、一つに戻る事だって出来るはずだ。間違いは正さなければいけない。」

 彼は何も言わない。自分の運命と宿命を悟って、それでもまだ何か、その通りではない何かを成そうとしている。

「僕は君の情欲。それでも、僕は僕として彼女を見ている。間違いなく一つのヒトとして。これを間違っていると思いたくない。」

 口を開いた彼は彼女の手を握っていて、彼女はただこちらを見ている。

 俺は二人の人間を一人にする方法を知らなかった。もし知っていても、多分それは簡単な事では無いんだろう。始まりが不幸な偶然なら、終わりはどうなるのだろう。どうしなければいけないのだろう。

「多分、俺が情欲を覚えたのも、お前を嫌悪したのも、彼女の沈黙も全て間違いじゃない。」

 俺達はあの日、間違いが始まった場所で間違いを正そうとしている。

「間違っているのは、お前の存在じゃない。俺と、俺の嫌った自分が乖離していること。そして……。」

 俺は自分の情欲が嫌いだった。それは美しい紫陽花に似つかわしくないような気がしたから。彼女をすぐに壊してしまうだろうと考えていたから。彼女を欲の対象として見てしまうのは間違ってしまうと思っていた。

 結局、自分に触れられている彼女を見るのが怖かっただけなのだ。無責任なのは嫌だった。傷つけるのが嫌だった。俺は沈黙を選んだ。沈黙はただ優しかった。浮遊、不快な音もなく、ただ諦めの溜息と雨音だけが聞こえていた。苦しかった。水の中に閉じ込められているようだった。結局、選んだモノもそう、良いものではなかったのだ。

「そして、俺が自分の情欲を嫌ったこと。」

 沈黙は彼女を傷つける。俺は彼女の脚を、手首を掴んで水の中に引きずり込んだ。言葉なんて要らない。彼女が居れば、それだけで満たされるのだと思っていた。

「正しい愛の形が。」

 彼は彼女の手を放す。穏やかな声で続ける。

「この先にあるのが絶対な正しさなら、僕は今すぐにでも君に還って、彼女を愛するべきだろう。」

 それは彼にとっては自我の消滅。もう二人では居られない。でも、それが正しい事なのだ。俺は人格の乖離なんて正常として認められない。一人になるべきだ。しかし彼が消滅に抗うというのなら、それも正しい事なのだと思う。

 俺は、自分が傷つきたくなかっただけなのだろう。俺は情欲を憎んではいない。こうして直視していても怒りなんて沸かない。多分、彼女に情欲に煽られて動く自分を否定されたくなかったのだ。だから忘れようとした。

 情欲の中に埋もれてしまうなら、彼女の父親がした事と同じじゃないか。俺は違う。違うと言いたかっただけなんだろう。

「僕は、僕が消えてしまうのが怖い。けれど、間違いを犯してしまうのも怖いんだ。」

 彼は呟く。俺と同じ声色で。

「なぁ、僕はどうすればいい?」

 俺はその問いに対する答えを持っていなかった。自我の消滅、回帰。暗闇を恐れるのと同じく至極当然のような恐怖。それは死に等しい。全く同じモノだと思う。俺はそれを強いる事が出来るだろうか。

 静寂。風が紫陽花の花弁についた露を拭っていく。やはり静寂は苦しいものなのだ。穏やかだが、窒息してしまいそうになるくらい息苦しい。俺は何も言えずにただ、ここに居る。

「私は……。」

 静寂を終わらせた彼女の声を掻き消すモノは何も無い。

(再びの静寂。)

 私は二人が間違っているとは思わない。

 元は一つの間違い、それに不幸な偶然が重なってしまっただけなのかもしれない。

 けれど。何も間違ってない。

 愛の正体を探すのも、抗う心も、正しさを引き戻そうとするのも。何も。

 ……父はね。優しい人だったと思う。多分優しさの意味をそこに見出してしまっただけの、優しい人だった。私を汚して傷つけたのは、許せないけれど、私は愛されていたように思う。

 満たされない私に、あの人は気付いていたんだ。結局その為にとった手段でも私は満たされる事は無かったけれど。そしてあの人は私を捨てた。最後、満たされたのは、彼だけだった。

 けれど、貴方達は私を満たそうとした。私は私が満たされるべき存在だったのか、もう分からないけれど、嬉しかった。満たされていく気がした。悩んで、悩んだ末の愛の履行にも、救われていく気がした。

 だから私は、間違っているとは言いたくない。その愛の行く先が私なのなら、私は救われている、だから正しい事なのだ。そう思う。

 正常さじゃなくて、異常でも良いとさえ思っている。

 でも、私は二人を愛する事は出来ない。二人を満たす事は出来ない。相反する二人に、相対して、正しくあれる自身が無い。自分までをも、単一性が保持出来なくなってしまいそうだ。

 私達は、どうしても今、正しさを定義する必要がある事に気付いている。私達は何も間違っていないのに、私達は間違っていると唱え続けて、私達は間違える前に、ここで終わらせなければいけない。

(静寂。僕は彼と並んで、彼女を見る。)

 僕は、消えてしまうのが怖かった。

 唾棄すべき肉欲としてじゃなくて、彼のもう一つの人格として、いや、もう一人の人間として彼女を見ていたかった。

 正しさが結局、どんな姿をしているのかは、僕には分からず仕舞いだったけれど、選択が間違っていても、僕は彼女に触れてみたかった。それが間違っているとは思いたくなかった。

 しかし、正常だけど間違っていたんだ。幸福を求める行為が愛なのなら、誰も苦しむ現状は、誰の幸福なのだろう。もし、分からないのなら、これは多分正しい形じゃない。僕には分からない。分からないんだ。

 僕は、僕の我侭で彼女を苦しめる事をしたくない。君だってそうだ、僕が還るのを望むのは他ならぬ彼女の為なんだろう。今更彼女の身体を縛りつけたかったからなんかじゃないはずだ。

 なぁ、僕は何の為に生まれたのだろう。彼女の声、彼女の身体、雨音、紫陽花、ここにある全て、君だけが知っていれば良かったのに。荷物は少ない方が良いとは本当なんだな。

 せめて、あの日が、何も無い雨の日だったら、僕は初めて知った感情の名を愛と名付ける事などしなかっただろうに。

 彼女が苦しむのなら、もう終わりにしよう。僕は還る。あるべき場所へ。

(静寂。)

 俺達は、先に進まなければいけないんだ。

 もう泣き言はやめて、その姿を、様相を明らかにしなければならない。

 彼が俺達の間を歩いて、車道の側に立つ。俺達はそれを止めずに、ただ見つめている。

(静寂を裂き、車道を走る影が一つ。)

 俺にはそれが何だったか分からなかった。色も、形も不定で、全てが俺の知らないモノだった。彼女と俺は不安で顔を見合わせる。

 逃げられない。彼は俺達の前に立つ。ああ、今思い出した。これはあの日の。

 それは速度を緩める事をせず、こちらへと走ってくる。

 もう少し此方に来て、多分あの辺りでスリップして、そのまま此方に……。

 それは俺の思い描いた通りに進んできて、僕の思い描いた通りにスリップする。ただ、あの日と違って、辺りは静寂だった。摩擦の音も聞こえない。俺は彼女の手を握る。目を瞑る。

「また僕達は一人で、彼女を愛せるだろうか。」

 その声に俺は目を開ける。彼女は俺の手を握ったまま、固く目を瞑っている。

 彼は、それに衝突され、水風船のように、パシャリと弾けた。

 透明な水が、俺達と、紫陽花を濡らす。顔にかかった水を空いている方の手で拭った時には、事故の記憶の残滓も、彼も居なくなっていた。

 ここにあるのは二人だけ。

 彼女は恐る恐る目を開けて、そして全てを理解したように、何も言わずに俯いた。

 不意に雲間から漏れる陽がこの道を照らす。

 雨も無いのに濡れそぼった紫陽花が、輝いているように見えた。

「きっと、今度は、正しく愛せるだろう。」

 彼女は何も言わない。

 優しい沈黙がここにはあった。

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