愛情
「あの子は誰にでも優しいから」
僕は誰に聞いたかも分からないその言葉をすんなり、無条件に信じてしまっていた。
あの子の振る舞いは、確かにその通りに全うされていく。疑わせる事など何も無かった。
だから信じた。
彼女の優しさを向けられる「みんな」の内に、無意識に自分を含めてしまっていた。
彼女なら僕に優しくしてくれるかもしれない。そう思っていた。
実際それは間違っていなかった。彼女は確かに僕にも優しくしてくれた。向けられる微笑み、視線。僕は彼女をすっかり受け入れてしまった。
誰にでも優しい彼女は、遂にその姿を完全なモノにしたのだ。彼女という聖女の誕生を拒んでいたのは、僕が最後だった。もう疑う者などここにはいない。笑みを浮かべる彼女をどうして悪く思えるだろうか?
ここでは彼女は絶対の善。その善い人がする事は全て善い事なのだと、全員が思っていた。
……。
僕は彼女の手首を掴む。どうしようも無く細い。少し力を加えれば壊れてしまいそうだ。
彼女はかつて、誰にでも優しかった。
全ての人に微笑みかけ、そして彼女の周りでは誰もが模範し、善人になったかのようだった。
しかし、今は違う。聖女は堕ちたのだ。
堕とされたのかもしれない。
いや、もしかしたらずっと、堕ちていたのかもしれない。僕達が崇拝していたのは、最初から汚れた娼婦だったのかもしれない。
彼女はその事について何も言わない。語らない。思えば、昔から自分の事を何も喋ってはくれなかった。
ただ笑っているだけ。人の話を聞いているだけ。誰も彼女の事を知らなかった。だから彼女は「優しいだけ」の彼女だった。僕達の盲目的な目が、彼女を作り出していたのだ。
僅かに汗ばんだ手で掴んだ手首は冷たく、静まり返っている。僕の指が、そこにある傷痕を隠す。誰の目も無いのに、何から隠しているつもりなのか。
彼女は優しくされたかったのか?そうすれば自分の欲求すら満たせると考えていたのか?ついぞ、彼女の目的は分からず、思考すらも。自分の殻に閉じこもったままだった。
彼女が優しくされたかったのなら、それは達成されていたように思える。
彼女を悪く言う者は誰も居なかった。女も男も、彼女を信じていた。少なくともあの場所では。
しかし、彼女の欲求はそれでは満たされなかったのだろう。他者では決して満たす事の出来ない欲求。殻に閉じこもった彼女は、一人で生きる事さえ許されなかった。しかし、その全員が誰も埋める事の出来なかった空白。
腕の傷痕の数が幾つあるのかを僕は知らない。傷を作る度に、彼女が何を思っていたのかも。何故彼女がそうしたのかも知らない。
彼女の欲求がいつ満たされるのか。彼女が本当に優しくされたいのは誰なのか。彼女を支配する感情とは何なのか。
僕には何も分からない。
けれど、彼女は今日から、誰にでも優しい彼女を捨てる事になるだろう。僕はきっとそう思う。そうでなければ彼女も、僕も彼だって、ずっとこのままだろう。
彼女は、もう聖女では居られない。善い事など、もう出来ない。
彼女が最後に優しさを向けるのは僕だ。
あの日から信じていた優しさの中に沈んでいく。最後にただ、それだけを許して欲しい。
多幸感。彼女も感じているだろうか?
表情を見ても、彼女はもう微笑んでいない。
ここに居るのは優しさ以外の感情を思い出してしまった彼女だ。
彼女は涙を浮かべ、僕を見つめた。
彼女が涙を浮かべた事など、あっただろうか?
それなら、今日は終わりにしよう。
彼の真似事をするのはこれで終わりだ。
もう、僕に優しくしてくれなくてもいい。
彼女は、彼女にだけ優しければいい。
あとは、君が終わらせるんだ。