閑話:ユリサール・エンジの苦難
ユリサール・エンジは戸惑っていた。
いつも隣で微笑んでくれた姉の姿は、現在何処にも見当たらない。
目の前にはⅥと書かれた扉。まるでユリサールを威圧しているかのように、拒絶しているかのよう(ユリサールにはそう見えた)に存在している。
「わ、わたし……ユリサール……ぅ……」
何故か扉に向かって話しかけ始めたユリサール。
いったい彼女に何があったのかーー。
その日の朝。
ユリサールはいつものように温かいベットの中でまどろんでいた。
朝の爽やかな日差しの当たるベットは、成程確かに意志の強い者でなければ一度起きてもすぐには離れられないだろう。
それに、安心していい理由がユリサールにはある。もう少ししたら、きっと声がかけられるから。
いつまで寝ているの、と。少し困ったような、優しい声が聞こえれば起きればいい。
いつも、毎日そうやって朝を迎えてきたのだからーー。
「ん……んぅ……」
目を細めながら枕にぐりぐりと頭を押し付ける。
屋敷で使っていた最高級の枕には勿論劣るものの、この枕も中々の物だ。
まどろみ始めてから結構な時間が流れた事をユリサールは感じる。
この状態時では、時間の流れる速さがいつもの倍なのだ。
簡単に言えばーー気持ちのいい時間程速く過ぎる、という事。
「……?」
そんなユリサールに、衣擦れの、シュッと言う音が聞こえてきた。
朝にはよく聞く、着替えの音ーー。
枕から顔を離し、ちらりと音がした方に顔を向ける。
そこには、寝服から制服に着替えている、カナリア・クルトールがいた。
おかしい、おかしい。
カナリアが着替えるのは、いつも朝食を食べてからの筈。
それもユリサールを起こしてから、着替えを手伝ってくれて、ユリサールの着替えが済んだ後に、手早く自分の服に着替えていたのに。
(……まだ……夢?)
人はそれを現実逃避と呼ぶが、勿論ユリサールは本気でこう思っている。
実はこれが夢で、カナリアも自分もまだベットの中にいるのではないか、と。
しかし、聞こえて来る音。肌に当たる寝服とベットの感触。
夢とは思えない程にリアルだった。
衣擦れの音は既に終わっている。次に聞こえてきたのは、水の音だ。
まるで、歯を磨き、顔を再度洗っているようなーー。
「……ぁ……カナリア……?」
ここにきて遂にユリサールが危機を感じた。
夢でない、しかしカナリアは一人で朝の支度を終えているではないか。
寝起きで掠れてしまった声はカナリアには届かない。
ユリサールはベットを出ようと、グッと体に力を入れる。否、入れようとした。
が、甘えに甘えきった体は優しく起こされる以外の選択肢を嫌った。
カクンと力の抜けた腕が倒れ、そのまま毛布に巻き付かれるようにベットから転げ落ちる。
ユリサールは軽い。普通の十歳に比べても軽い。
更に毛布が音を小さくする。コト、という小さな音を響かせて、カナリアは暖かなベットから転落した。
この世界に存在しているかは知らないが、まるで春巻きの様だ。ユリサールが具。
「…………」
最早声を出す気力も無い。
うーうーと唸り声をあげながら、姉の助けを待つ。
そうして待つこと二分、ここで今日初めてユリサールはカナリアの声を聞いた。
「ユリー?」
自分の名を呼ぶ、聞き慣れた優しい声だった。
やっぱりいつも通りだ。とユリサールは安心する。少し声が遠かった気がするが、次はきっとすぐ近くから聞こえて、この毛布から助けてくれる。
そう思ってーー。
「ユリ?朝ごはんの用意はしてあげたから、自分で食べて、自分で支度して、ちゃんと教室に行くのよ?私はもう行くからね?」
「…………ぇ」
言葉の意味が理解できない。
かろうじて動く首を精一杯上にあげれば、ドアを開けたカナリアの姿が目に入った。
「ぁ……ま、まって」
「頑張りなさい、ユリ」
最後にユリサールが見たものはーー心配そうな目をしたカナリアが、ぱたんと音を立ててドアを閉める姿だった。
bad end.
勿論死んでなどいない。英雄の子供がこれくらいで死ぬならば、今頃世界は魔王に支配されているだろう。
まずユリサールが我に返るまで十分。
部屋の壁に浮かび上がる文字を見て、状況を理解するまで五分。
丁寧に並べられた朝食を食べて、正解かも解らない手順で制服を着るまでに十五分。
本当にカナリアと同い年なのか、と言いたくなるような動き。
今までカナリアに甘えてきたツケは、いきなりやってきた。
甘えさせてきたカナリアもカナリアなので、一様に悪いとは言えないかもしれないが、少なくとも半分はユリサールの責任だろう。
洗面台で鏡を見ながら髪を整える。いつも櫛で優しく撫でるように髪を梳いてくれたカナリアの姿を真似たが、中々上手くいかない。
なんとか身だしなみを整え鏡に映った自分を見れば、いつも通りとは言わずとも、なんとか人前に出てもおかしくは無い程度に整えられた自分の姿。
カナリアが見れば涙を流して感動するかもしれない。
「ぅ……大丈夫……次は、教室に行くだけ……」
最初こそユリサールは見捨てられたと嘆いたものの、現在は一応前向きな考えが出来ている。
前々からカナリアは言っていたのだ。もうユリも、なんでも一人で出来るようにならなきゃね、と。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながらドアを開ける。
教室の場所は解らないけれど、案内役でもいるのだろう。
半ば投げやりな考えだが、これもユリサールの努力だろう、彼女も頑張っている。
「カナリア……私をお空から見守ってて……!きっと第六教室に……辿り着くから……」
まるでカナリアが死んだかのように話すではないか。
ちなみにカナリアは丁度教室に入り、いきなり飛んできた魔法を防いでいた。
初めて一人で歩く魔法学園の廊下は、終わりの無い程に、長く見えた。




