II
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トラは何かがいることを感じ取ってはいたようだったが、それが何だかが認知できないと、その場から離れて先ほどまでの行動を再開し始めた。
和琉はその後を着いて回って、トラが自分のことが見えていないことを確信できた。正直なところ、自分が置かれている状況を把握しきれていなかったのだ。
自分は死んでいる……ということを。
和琉は思い出そうとする。ここへ来るまでの記憶は、駅から出たときのことからしかない。
その前は?
久蘭玻との思い出は鮮明によみがえってくるが、他のことばぼやけている。
トラの飼育舎を抜けてからは、飼育舎に入り込むこともなく、久蘭玻とのデートで歩いたルートをなぞるように歩きながら、記憶を取り戻そうとしていた。
ホッキョクグマが夜にも関わらず水槽の中で元気に泳ぐ姿を眺めているときだった。
二人で来たときに、和琉はここで体の調子がおかしくなったことを思い出した。久蘭玻に心配をかけたくなくて、言い出せなかったことも。
そこから、記憶が次々と蘇っていく……。
この動物園は、動物園通りという名のついた道路を挟んで、東園と西園と呼ばれるエリアに分かれている。それぞれをつなぐのは、通りの上を渡る橋と、吊り下がり式のモノレールである。もちろん、モノレールは動いていない。
東園と西園には高低差があり、橋の西園側は下り坂になっていた。
和琉は橋の上から通りを眺めていた。車の往来は少なく、時折通る車のヘッドライトが眩しくさえ感じる。
そのまま、車道から西園の方へと目を移すと、都会の明るさを映し出す池が見えた。西園の半分を占める池で、蓮が一面に群生している。この時季は蓮特有の大きな葉は見られず、枯れた茎の間に、夜の街の灯りが映り込んでいた。
和琉が景色を見渡していると、池の端の方に街の灯りとは違う、ぼやっとした光を見つけた。そちらにはワニやカメなどが飼育されている建物があったこと、そこに久蘭玻と入ったときに爬虫類を見て「カワイイ!」と彼女が目を輝かせたことを思い出す。
和琉は、その光のあるところへ吸い寄せられるように歩き出した。下りになっている通路を降りると、売店などの陰に隠れて光は見えなくなったが、売店の脇を通り過ぎて池の方を眺めると変わらずに光っている。それは、どうやら池を横切る木道の上のようだった。
途中の浮き島にはキツネザルの飼育舎があったことを和琉は思い出した。二人で宙に張ったワイヤーを渡るキツネザルを見て、その少しコミカルな姿に顔を見合わせて笑ったことも。
光は、その浮き島よりも先に見える。木道の中間地点あたりだった。和琉は、そこに向かって歩いて行く。
あの日。動物園を一通り回った和琉たちは、表門と呼ばれる入り口とは別の出口から動物園を後にした。その出口から出れば、この動物園へ来るときに利用したターミナル駅周辺の繁華街に近かったからだ。
夕闇が押し迫った時間だった。二人で夕飯を食べて帰ろうと、その繁華街へ向かって歩いていたとき、和琉は不意に意識を失った。
薄ぼんやりと、久蘭玻が泣きそうな声で自分を呼んでいることは覚えていた。
次に意識を取り戻したときに見えたのは、薄い緑色の天井だった。和琉は病院のベッドで寝ていたのだ。横から父と母が顔を覗き込み、泣きながら「良かった」と繰り返し言っていた。
しかし、もう手遅れだった。和琉は、それから病院を出ることはなかった。
見舞いに来る久蘭玻は、いつもどこか泣きそうな笑顔を見せた。涙を流すことはなく、退院したあとに二人でどこへ出かけようかと、一生懸命に話をしてくれた。
その願いも叶わなかった……。
光は、そこに立っている人から発せられていた。近づいても眩しいということはなく、逆に光が落ち着いたように感じられた。
次第にその輝きに慣れてきて、その中の人の顔が見えるようになってくる。
「……久蘭玻?」
と、思わず声を上げる。
和琉が覚えている彼女とは少し違う……大人びた女性になっていた。
「あぁ……逢えたね、カズくん、久しぶり」そう言って久蘭玻は微笑んだ。雰囲気は変わったとしても、笑顔の可愛さだけは変わらないと和琉は感じていた。
「どうして……ここに?」
と問いかけながら、自分の置かれた状況を考え、久蘭玻と逢えたことの意味に思いが至った。
「そう、そのとおり」
和琉の考えていることを読み取ったかのように久蘭玻が応える。表情からは微笑みは消えて、泣きそうな顔になった。
「カズくん、ごめんね」
俯きながら、久蘭玻は謝った。
「……謝らないでよ」
和琉は困った顔で言った。その顔を見て、久蘭玻も困った顔をする。
「だって……あたし、カズくんに約束したのに……」
「……俺の分まで、がんばって生きていくって、あのこと?」
「……うん」
「いったい、何があったの?」
「あのね……」
久蘭玻は語り始めた。
和琉が亡くなる前、和琉の分まで生きていくことを久蘭玻は約束した。
久蘭玻は勉強ができるほうではなかったが、人の命を救う職業に就きたくて、必死に勉強して看護師への道を目指し、看護学校にも入学できた。
けれども、運命は残酷だった。
看護学校3年生の冬、夜勤の実習明けに疲れた体を引きずるようにしながらの帰宅中、車に轢かれたのだ。家のそばの狭い道路で、スピードを出していた車に。
久蘭玻自身が、疲れで注意力が散漫になっていたのも原因の一つだった。
「その瞬間ね、カズくんに逢いたいって強く願ったの……そうしたら、ここに立ってた。で……カズくんが来てくれた」
最後の一言で、久蘭玻は俯いていた顔を上げて和琉の目を見て笑った。
和琉は手を伸ばし、久蘭玻を抱きしめた。
「カズくんと、こんなに近づくの初めてだね……でも、できれば生きているうちが良かったな」
「……ごめん」
「ううん、悪いのはカズくんじゃない……病気」
そういって、久蘭玻は和琉の体から少しだけ離れた。和琉より背の低い久蘭玻が、上目遣いで、和琉の顔を見つめる。
「お化粧してるんだね」
「うん、あれから4年も経ったんだよ。成人式も迎えたし、あたしも大人なんだから」
「そっか……俺は、あれから何にも変わってないや」
と言って、和琉は苦笑いした。
「仕方ないよ、カズくんの時間は止まったままなんだから……でも、これからは……あたしも一緒だよ」
少し、首を傾げるようにして久蘭玻は笑った。
その時、キツネザルの飼育舎から鳴き声が上がると、それを合図にしたように、次々と動物が鳴き声を上げる。
深夜も近い動物園が動物たちの喧噪に包まれた。ほんの一瞬のことではあったが。
「……どうしたんだろ?」
驚いたように和琉があたりを見回すと、
「あたしたちのことを祝福してくれたんじゃない?」
「そ、そうなのかな……」
「そうに決まってる。だって、こうやって二人が逢えたんだもん」
久蘭玻の自信ったっぷりの言葉に、和琉も
ようやく笑顔になる。
「うん、きっとそうだね」
二人は声を上げて笑った。
「久蘭玻……こんな形の再会になっちゃったけど……俺はきっと、久蘭玻のことが忘れられなくて、この世に残ってたんだと思う」
「うん」
「大好きだよ、久蘭玻」
「……あたしも」
久蘭玻が目を閉じる。
和琉は久蘭玻に顔を近づけ、そしてキスをした。
生まれて初めてのキス。
それは、死んでからの初めてのキス。
もう一度、動物園中の動物たちが一斉に鳴き声を上げる。
唇を離して、
「やっぱり」
と、二人同時につぶやいて笑った。
二人を優しい光りが包み込み、二人の姿を消し去る。
静かな夜の動物園が戻ってきた。
ふぅ、何とか書き終わりました。
思えば云十年、物書きをしていなかったのですが、書きたいという意欲が湧いてきたのが、ついこの間。
でも、その物語を紡ぐ前に、練習として、云十年前に書いた、この物語を書き直し始めました。
その頃に比べて、それなりに人生を重ねてきた経験が少しは生かされた文章になったかなぁ……なんて、思っています。
この物語を偶然、目にされた方。
もし良ければ感想を下さい!
くだらねぇなぁ……と思ったら、もちろんスルーで(苦笑)
さて、次は書きたいと思った作品を手がけます。
最後に、某ゲームで知り合い、拙作を読んで下さった友達たちに感謝の気持ちを表して、あとがきを終わりたいと思います。
本当にありがとう!




