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I

   1


 平日も休日も関係ない。

 ターミナル駅はここから旅立つ者、ここに到着して次の目的地へと向かう者であふれていた。

 そんな駅にも関わらず、近くには商業施設だけでなく大きな公園に博物館や美術館といった施設があり、この駅を目的地とする者も多くいる。

 午後四時半前。

 日中はようやく春を感じさせる陽気になってきたが、この時間ともなると上着を着なくてはならないほど気温が下がってくる。

 和琉はターミナル駅の『公園口』と名のついた改札口を抜けた。

 暗くなってきたことを確認するように空を見上げてから、手に持ったキャップで少し伸びてまとまりが悪くなった髪を押さえ込んだ。

「寒っ!」

とつぶやいて、外してあったデニムジャケットの前ボタンを閉めた。

 駅前の横断歩道の信号が点滅し始めたのを見た和琉は足早に渡り始める。駅方面に向かう人の方が多い。その中を人にぶつかることなく、信号が赤に変わる前には渡りきった。

 横断歩道の先はすぐに公園入口になっている。すぐ右側に美術館や博物館などが建っているが、和琉はそちらには目もくれず歩いて行く。

 そこを過ぎると周囲は桜に彩られた。まだ、七部咲きほどだ。道を覆うように桜が枝を張っていて、桜のトンネルをくぐっていくようだった。

 正面に公園の一角を占めている動物園の入り口が見えてきた。和琉はそこへ向かっている。


 閉園ぎりぎりに『表門』と呼ばれる入り口から、和琉は動物園に滑り込んだ。園内の人は少なく、それも出口へ向かう人ばかりだった。

 和琉は、そんな人の流れに逆らうように歩いて行く。

 入り口から左手に向かうと、ツルやシカといった日本の動物たちが展示されているエリアがあり、その中心には五重塔が建っている。和琉が目指しているのはそこだった。

 五重塔のそばに着くと、周囲を見回して人気がないことを確かめ、五重塔の周りに巡らしてある柵に手をかけて乗り越えた。そのまま早足で正面にある扉から五重塔に忍び込む。

 ホコリとカビの入り交じった匂いに顔をしかめながら、和琉は物陰に身を潜めて扉を見つけたときのことを思い出していた。


 和琉が彼女と初めてのデートで、この動物園に来たときのことだった。

 入り口から見えた五重塔に彼女が興味をもち、動物には目もくれずに和琉の手を引いて、ここまでやってきた。

(初めて手をつないだの……あの時だったな)

 和琉は微笑む。

 彼女は少々興奮気味に、

「こんな建物を、三百年も前の人が建てたって、信じられる?」

と和琉に問いかけてきたときの表情にグッと来て、つないだ手に力が入ってしまう。

 彼女はその手を見つめ、続いて和琉の顔を驚いたような表情で見つめると、サッと手を離して顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。

 和琉は、改めて彼女の手を取り、そっと握った。

 彼女が握り返してくれたのが嬉しかった。

「扉があるけど……あの中に入れるのかな?」

 ごまかすように和琉が言うと、

「入れるよ……だって、建物だもん」

と、馬鹿な質問に彼女は返事し、和琉に照れたような笑顔を見せた。

久蘭玻くらは……キミの言う通り、入れたよ)

 心の中で和琉はつぶやいた。

 和琉の視界が夜に支配されていく。


 和琉がふと腕時計を見ると、蓄光した時計が午後九時を過ぎていることを示していた。周囲は闇につつまれている。眠っていたことに気づいて慌てて体を動かそうとすると、しゃがみこむような姿勢で覚醒したので、身体の節々がしびれて動かなくなっていた。

「くっ……いたっ」

と声をあげながら、立ち上がって筋肉をほぐすように体を動かすと、外の様子をうかがう。閉園時間はとっくにすぎている。小さく色々な動物の声が聞こえてくるが、人の気配はない。

 外へ出ると暗闇の中にいた和琉には、明るさが感じられた。それでも夜だから暗い。昼間に見た景色とはまるで雰囲気が違っていて、それはそれで面白いと和琉は思った。

 和琉が入ってきた入り口の北側あたりに、目指す場所がある。来た道を戻る感じになった。所々に小さな街灯があり、和琉の行く先を照らしてくれていた。

 動物園の職員や警備員が巡回していそうなものだが今のところ見当たらず、和琉は悠々と、この動物園の目玉の一つである動物の展示施設へと入り込んだ。平日はもとより、休日ともなると見学者が長蛇の列をなし、その姿を見るのもやっとなほどの動物――パンダの飼育舎である。

 入り口からすぐに室内飼育室になっていて、ガラス張りの向こうは4部屋に分かれている。普段は通路しか通れないが、警備員もいない今はガラスのそばへ行き眺めることができた。

 中のパンダは座った姿勢で竹の葉をむしゃむしゃと食べている。その姿を見ているだけで和琉の頬は緩みっぱなしだ。


 あのとき。

「カズくん、だらしない顔になってるよ」

と笑いながら言い、久蘭玻が和琉の顔を覗き込んできたことを思い出した。

 間近に迫った久蘭玻の笑顔が可愛くて――和琉が久蘭玻を好きになったのも、その笑顔を見たからだった――余計にだらしない表情になったようで、久蘭玻は和琉の両頬を軽くつまんで引っ張った。

「いたた……」

と、和琉は痛くもないのに痛がってみせて……久蘭玻は、そんなこともお見通しだけどといった様子を見せながらも、謝りながら頬をなでてくれた。

 どこにでもある、普通のデート中の恋人同士の風景。

 今は……。


 和琉は、そっと展示室のガラスに触れた。

 そして、このガラスの向こう側に行きたいと願う。

 触れたあたりのガラスが虹色に輝きだし、和琉の手はガラスを通り抜けていった。そのまま体の全てが入り込むと、パンダの目の前に和琉は立っていた。竹の葉と獣独特の匂いが入り交じった香りが鼻をつくが、不快に感じなかった。

 パンダは何事かというように和琉の方に顔を向けるが、それもほんの一瞬で気にかける様子もなく、また竹の葉を食べることに専念し始めた。

 飼育員でもないのに、こんなに間近でパンダが見られるのは、なかなか気分が良いものだと和琉は思う。パンダの横にしゃがみこみ、竹の葉を食む口元を眺めているだけで、二十分ほど費やした。


 パンダに別れを告げ、ガラスを通り抜けて、パンダの飼育舎を順路通りに抜けると、右側に街灯に浮かび上がる、独特な建物が見える。タイから送られたというサーラータイというものらしい。その向かいには動物たちの慰霊碑があり、和琉はその前に立ち手を合わせた。

 そのまま右側に進んでいくと猛禽類の飼育舎がある。まるで夜だということを演出するかのように、フクロウの啼く声が聞こえた。

 その周辺は街灯の届かない林が広がっている。和琉は暗闇に目を慣らしながら、その林の中にある小径へ足を向けた。林は生い茂ったものではなく整備されていて、まわりの光が中まで届くようで、ぼんやりとまわりを見ることはできた。

 正面から長く響く低いうなり声が聞こえてきた。

 この先には猛獣たちの暮らす飼育舎がある。たち(・・)とは言っても、ライオンとトラの二種。トラはスマトラトラ、ライオンの方はインドライオンといって、トラやライオンの中では小型の種類ではあるが、見た目は良く知られたものと何ら変わりはない。

 飼育舎のそばには街灯が設置されていて、和琉はまわりが良く見えるようになった。

 正面にまず現れるのがライオンの飼育舎の屋外部分だが、ここは高いところからのぞく形となっている。ガラスを通り抜けても、その先のライオンが歩き回る場所へ降りるのは難しい。和琉はガラス越しに中を覗き込むが、見える範囲にライオンの姿はなかった。

 そこから右に坂を下っていくと、同じ高さで覗けるようなガラス窓が用意されている。こちらも覗いてみるが、ライオンの姿は見えなかった。

 そのすぐ先は、岩を模した壁でエリアを区切られていて『トラの森』という看板がついている。そのエリアに入っていくと右側にトラの様子がガラスごしに観察できるようになっていた。

 ライオンと違い、トラの方は動いている様子が見て取れた。飼育場の中を行ったり来たりしている。

 和琉はトラも間近で見てみたいと思い、パンダの飼育舎と同じようにガラスに手を当てる。先ほどと同じようにガラスが虹色に輝いて、手から順番にガラスの中へと入っていった。

 和琉が飼育舎に入り込むと、中にいたトラはピタリと動きを止めた。和琉がいるほうに顔を向け、自分のテリトリーに何者かが侵入したことを察知したようで、それが何なのか調べようと鼻をひくつかせた。

 その様子が、家にいる猫にあまりにも似ていて、和琉は思わず笑ってしまう。

 トラはゆっくりと、和琉のほうへと進み始めた。あごをグイッと上げて、匂いを確かめようとするように鼻をひくつかせて。

 トラが匂いを嗅ぎ分けようとする鼻息の音が、間近で感じられるくらいに近づいてきても和琉は慌てない。むしろ、そのトラの顔を覗き込むように自分の顔を近づけた。

 和琉はトラの瞳を見つめている。

 しかし、トラの瞳は……和琉を見てはいない。和琉の顔の向こう側を見ている。

 トラには和琉の姿が見えていないようだった。

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