罠 1
悪い予感というものは、願いとは裏腹によく当たるものだ。
ティラータが危惧していたよりも、事件はすぐに起きた。
近衛隊長が危惧し護衛を強化するための算段すべく、ティラータの元を訪れたその翌日。アシャナ姫が何者かに襲われた。
「きゃあああぁ──!!」
侍女の叫びに、次の間に控えていた近衛兵たちがいっせいに、居室になだれ込んで来た。
たそがれ時、アシャナ姫がお茶を楽しみながら一息ついていたところを、弓矢で狙われたのだった。
ポタリと鮮血が絨毯に滴り、赤い染みをつくる。
「ティ……ティラータ!」
「くっ……」
アシャナ姫を壁際に押しやり、その身で庇うように立つティラータの左腕をかすめ、壁に矢が突き刺さっていた。
「ボルド!」
侍女に続いて駆けつけた近衛副隊長を呼び寄せると、ティラータは手早く指示を出す。
「早く姫を安全な部屋へ。矢は西の方角から放たれた。探させろ、私もすぐに追う!」
そう言うとティラータは、自らの剣で壁に刺さったままの軸を切り落とし、念のため血に染まった矢尻を抜き取って腰の袋に収める。
矢尻がかすめ血を滴らせる傷は、上腕の肉を少し抉られた状態だ。
アシャナに傷をつけずに済んだなら、このくらいの傷は厭わないティラータであったが、剣を抜く間もなくやられた不甲斐なさに、思わす舌打ちしていた。
ランカス・ボルドはティラータの止血を手伝いながら、部下に大声で追跡と護衛増員の指示を出す。
「姫は私とこちらへ!」
「い、いや! ティラータが!」
ティラータの腕から、赤い筋となって流れた血を目の前で見たこともあり、アシャナの顔は真っ青だった。
ボルド副隊長はアシャナ姫を隣の窓のない部屋へと促すのだが、呆然とティラータを眺めていて動こうとしない。仕方なくボルドは、姫を強引に抱き上げる。
ティラータはマントの切れ端で腕の傷を縛り終え、痛みを微塵も感じさせることなく微笑んで見せた。
「大丈夫だ、アーシャ。あなたは早く安全な場所へ」
勢い良く踵を返すと、窓を乗り越え外へ飛び出していく。
「ティラータ!」
アシャナの呼び止めには応じず、ティラータは猫のようにしなやかに二階窓から着地する。
そしてあっという間に、薄暗い夕闇の中へと消えていった。
泣き崩れるでもなく、ただ呆然と涙を流すアシャナ姫を抱え、ボルドは居室から寝室へとつながる扉をくぐる。ベッド脇の長椅子にアシャナをそっと下ろした。
「ランカス、ランカス……お願い私はいいの。ティラータが怪我をっ、血が」
ランカス、と昔のように呼ばれたボルド副隊長は姫の前に跪く。そして虚ろな瞳を泳がせ、取り乱すアシャナの白い肩に両手を添えて落ち着かせる。
「大丈夫ですよ、彼女なら応急処置はしましたし、急所ももちろん外れていました」
「でもっ!」
アシャナは涙で潤む眼を、ようやくボルドに向ける。
「姫、あなたに大事あれば、彼女は、黄金の獅子はここにいる意義を失います。そして誰よりも悲しみます、判りますね?」
くっと息を飲み、不安を押し込めた反動からか唇がかすかに震えながらも、アシャナはしっかりと頷く。
ボルドも頷き返して、不躾にも肩に乗せていた手を引いた。
すると扉の外からバタバタと、それこそ不躾な足音を響かせながら、女官長が数人の侍女を連れて駆けつけてくる。
「姫様、ご無事でございますか!」
それを受けて、ボルドはスッと立ち上がり姫の御前を女官長マイヤに譲り、後ろへ下がる。
「行くの、ボルド?」
アシャナの不安そうな眼がボルドを追っていた。
「いえ、私は姫のお傍に。何かありましたら、必ず声をおかけ下さい」
一礼すると、寝室から居室につながる狭い部屋で、護衛を続けることにした。そしてそこから他の近衛兵に指示を出す。
「陛下の護衛をされているカナン隊長に、改めて報告を……」
部下が走り去るのを、厳しい表情でボルドは見送っていた。
黄昏時は去り、城は闇色に覆われようとしていた。
城のいたるところにある魔道灯に、ほのかな明かりが次々に灯ってゆく。
滲むようにやわらかい光は、かろうじて足元に影を落とす程度のものだが、無いよりは随分ましだった。
外灯として立ち並ぶ姿はまるで、霞がかった夜の月のようだ。
ティラータは屋根を伝って賊の影を追っていたのだが、ついに見失い、仕方なく近くのバルコニーに降りる。
王宮は大騒ぎなのに対して、そこは辺りを見回しても人の動く気配もなければ、物音ひとつしない。
「ここは……」
確かここは城の西側にある、王弟アレス公の居住区域にさしかかった辺りだろうかと、ティラータは眼をこらす。
姫が襲われその実行犯が逃亡中なのである。当然知らせが届いているだろうにもかかわらず、あまりに静かで別世界のようだ。
しばらく辺りを見回していると、背後に気配を感じて振り向く。誰かがバルコニーへと出てくるようだ。
「そこにいるのは、誰か?」
庇の影で顔はよく見えず。が、上品な身のこなしのすらりとした長身と、深みのある凛とした声で、ティラータにはそれが誰なのかすぐに分かった。
「アレス公」
ティラータはその人物のほうへ向き直り、右手を胸に当て、深く頭を下げた。
「許可も無く立ち入りまして、申し訳ございません。アシャナ姫を襲った賊を追っていたのですが、見失い、捜しているうちにこちらへ」
アレス公が魔道灯の光の内まで歩み寄ってきたので、その顔がようやくはっきりと見えた。
その人物は、現イーリアス国王の弟、フォレス・ライ・アレス公だ。
ブロンズ色の髪が、魔道灯のオレンジ色の光に照らされて、さらに印象的だった。
「アシャナが襲われたことは、今聞かされたところだよ」
淡いブルーグレイの瞳を細めると、アレス公はティラータに歩み寄り、強い力でその腕を取る。
「怪我をしているではないか。こんな応急処置だけで……ティラータ、手当てが先だ」
ティラータは慌てて腕を引こうとしたのだが、しっかりと掴まれてしまっていた。
強引に振り払おうとすれば可能な程度の力だったが、それはそれで公に失礼と思い、ティラータは断念した。
「大した怪我ではありませんので」
「君がよくても、私やアシャナは心配するのだ。跡が残らぬよう、安心させるのも務めと考えなさい」
静かに、諭すように話すアレス公は、いつも穏やかに微笑んでいる。
「分かりました」
ならいい、とようやく腕を開放される。
「アレス公もお気をつけ下さい。護衛もつけずにおひとりで行動なさいませんよう……私はこれで失礼させていただきます」
軽く礼をし、バルコニーの手すりに手をかけた丁度その時、ティラータはアレス公呼にび止められる。
「明日は祭り前最後の、満月だね。……森へ行ってみなさい。『ゆらぎ』の元へ」
突然の言葉に、振り返るティラータ。
「さあ、行きなさい。早く処置をしたほうがいい」
促すアレス公の言葉。
「でも……」
問いただそうとするティラータを、手で制す。
「供の者がもう来る」
ティラータはためらいつつも、素直に従い手すりを乗り越えた。
階下の石畳に飛び降り、そのまま振り返らずに走り出す。
──アレス公は何を知っている?
──いつの頃からだろう。彼の人が多くを語らなくなってしまったのは。
ティラータはアシャナ姫の元へ戻りながら、思いを巡らせていた。
まだ、アシャナ姫と遊ぶことだけが仕事だった幼い頃。二人の娘の傍には、いつも大声で子供のように笑うアレス公がいた。やんちゃな娘達に振り回されつつも、飽きずに相手をしてくれたことを、ティラータは思い出す。
時には悪戯がすぎ、アシャナとティラータとアレス公の三人で、ミヒャエル王に叱られたこともあった。
後々になってテイラータは、王弟である彼を悪戯のお供をさせていた事に気付き、ひどく恥じ入ったものだった。
そんな彼の素朴な飾らない人柄は、今のアシャナ姫にも少なからず影響を与えている。
「満月……ゆらぎ、か」
何を言わんとしているのか分からないが、それを伝えるためわざわざバルコニーへ供も連れずに現れたのだろうか。だが「まさか」とティラータは己の思考を否定する。
明日は魔法障壁周辺への見回りを念入りにしておこうか……そう思っていると、走るテイラータの足元がもつれた。
「なっ……」
かろうじて転ばずに壁にもたれたティラータ。だが手足に、かすかだが痺れが増してきているようだった。
「ご丁寧に、遅効性の毒か」
ティラータはふらつく足元を剣で支えながら、行き先を変更する。
──もつだろうか。
そういえば早く処置をと言われたな、などと苦笑しながらも、ティラータは壁伝いに歩いて行くしかなかった。
こんな時こそ頼りになる、だが少しうるさい薬師の部屋を目指して──。