記憶 1
獣──
ティラータはしばしば己をそう呼称してみせる。
そう言われ続けたというのもあるが、真実獣のようだったと自らを振り返ることがあったからだ。
幼い頃、ティラータは森で過ごしていた。
生粋の蛮族である母はそばにいたが、それ以外のものをティラータは知る由もなかった。
森と水とそこに暮らす生き物は、生きるために必要なものではあるが、母ほどには寛容ではなかった。出し抜かれれば傷を負い、殺さねば生き残れない。言葉よりも獲物を狩り、身なりよりも休める寝床を確保する方がずっと重要だった。
唯一それ以外に得たものといえば、母親がいつも歌っていた歌。
哀しければそのような歌を、楽しければ心のままに。
だがそれだけだ。
母親が死に、獲物を十分に取れなくなったティラータを救ったのは、誰だったのかは分からない。
連れてこられた時には衰弱し、しばらくは寝たきりだったと教わったが、それもよく覚えてはいなかった。
しばらくしてアシャナと引き合わされ、目を白黒させていたティラータを振り回すかのように遊びに誘ってきた。それに応えているうちに、いつの間にか住む場所を移されていたのだろうと、ティラータは推察する。まさかいつまでも城に蛮族の子供を置いておくなど、ありえないからだ。
移されたそこが、今のアレス公の別邸となっている、風見の塔があるあの屋敷だ。
「移されたばかりのアレス公の別邸で、しばらく体調を崩したことがあったんだ。一週間くらいだったか……その時にだと思う、気が付いたら紋章が刻まれていた」
「体調を崩した?」
「……まだ幼かったから、流行り病でも拾ったのだろう」
そう告げるティラータを、リューラはじっと見つめたまま黙っている。
言外に、それで納得するわけがないと言っているかのようだ。
だがその時ティラータは、リューラには知られたくなかった。このとき寝込んだ原因が、屋敷を訪れたヴィヴィアンの手によって首を絞められ、殺されそうになったせいだということを。
彼女が自分を恨む理由は、後にベグシーと国王陛下の二人から聞かされた。ティラータの父が何者で、自分を産んだ母が彼女から夫となるはずだった父を奪い、その父が得るはずだった地位を失わせたのだと。
だが今、彼が問うているのは、そんなことではない。
言う必要のないことは、省くことを決めた。
「後で聞かされたのは、城で得体の知れない蛮族の子供を保護するには、そうするしかなかった、ということぐらいだ」
「そうする、とは? まさか所有印などというくだらない理由だけではなかろう」
「……分かるのか」
「魔力……の痕跡がある。いや、痕跡ではない、今も動いている」
魔法に詳しくないティラータからしてみれば、その確信がどこから来るのかは疑問なのだが、あの一瞬でそこまで見極められるとは思いもよらなかった。
「保護する価値を与えられたのだ。これは、守護の印だと」
「守護……何を守らせる、わずか五歳の子供に」
「アーシャを。つまり将来の、王を支えるための繋がり」
リューラの表情が厳しくなる。
「それを刻まれたのは……何年前だ?」
「十年くらい前だと思う」
リューラはなるほど、と小さく呟いた。
「最初のゆらぎが起きた年だな」
「ゆらぎ? 魔法障壁のか?」
「ああ、詳細は伏せられているが、かなり大規模なゆらぎが起きて、犠牲者も出たと聞いている」
「……そう、なのか」
犠牲者が出ていたことを、ティラータは聞かされていなかった。ただ障壁が乱れ、このまま手をこまねいていれば崩壊するところだったということだったはず……後で詳しく調べておかねばならないと、心に留める。
「アシャナを守る、つまりそれは、再びゆらぎが起きて王が支えきれなくなった時の、魔力の補給元になることか」
リューラはそばにあったワインを飲み干し、グラスを叩きつける。
「クソが!」
ティラータはそんなリューラを唖然と見ていた。
なぜそこでリューラが怒りを露にして、物に当たるほど毒を吐くのかが、分からなかったからだ。
確かに、剣聖となった今、国から出ることが叶わないのはなにかとマズい。一国に引きこもることは自由だが、それはあくまでも剣聖自身の自由意志としてのこと。囚われているとなったら、イーリアスに非難の声が集まることになる。
言いかえてしまえば、その程度の問題なのだ。
そこに非難が集まるようならば、ティラータはいつだって剣聖の地位から降りる覚悟はできている。
だがリューラの憤りはそこではなかった。
「生け贄というわけか、なぜおまえはそれが分かっていて受け入れている?」
「なぜって……」
自分に向けられるその怒りの意味が分からず、ティラータは言葉を濁す。
「解除はできないのか?」
「……無理だ」
「どうして?」
「する必要がないからだ」
次に言葉を失うのは、リューラの方だった。
「アーシャのために役立つ日がくるかもしれないなら、別にこのままでいい。このせいで剣聖にふさわしくないというのなら、それも受け入れる。仲間からの評価で退位するのが一番早い、お前からグレカザルに提案してもらえれば」
「そんなことを言っているんじゃない」
「……リューラ?」
声は大きくないものの、怒りを乗せた声に、ティラータはますます分からなくなる。
「おまえ……馬鹿だろう」
これまでならばそんなことを言われれば喧嘩腰になるだろうティラータだったが、力なくつぶやくらしくないリューラに、そんな気が起きない。
「そうかもな、ボルドにはよく言われる」
「洒落にならねえ」
「はは、言葉使い崩れているぞ、王子様」
分かりやすい顔でリューラが、ムッとして見せた。
そして笑うティラータを横目に粉々に砕けたグラス片に手をかざすと、吸い上げられるようにして集まり固まる。それをワインボトルの横に置くと、リューラは弔問客がまだ残る広間へ戻るつもりのようだ。
これ以上は、紋章の話をする必要はないのだと、ティラータの気持ちを汲むリューラ。
「ヴラドはこのまま森に置いておく、好きに使え」
「おまえは?」
「明日、ここを発ち外のシンシア軍と合流する」
「そうか、ありがとう」
「前にも言ったが、イーリアスの混乱はこっちにも不都合がある。それだけだ」
そう言って背を向けてると、リューラは去っていった。
残されたティラータは、ひとり夜空を見上げる。
きらめく星の光をも吸い取るかのような漆黒の森に、目をこらせばゆらゆらと煌めく魔法障壁の帯。
ふいにティラータの頭に甦るのは、自分を覗き込む泣きそうな顔をしたアレス公。
──すまない、止められなくてすまない。
そう繰り返す言葉と、アレス公だけではない大人たちの顔、顔、顔。その中に、ひとつだけ若い女性の顔も見えた。
その少女ともいえる若い女性が、感情のない水色の眼で自分を見下ろすのを、ティラータは怖いとは思わなかった。
むしろ目が覚めたはずなのに今にも寝てしまいそうなほど、全身がだるくてたまらなかった。
声を出す気力さえない。
まるで全力で走っているかのように、息がきれる。
しまいには耳も聞こえなくなってきた。
『失敗、これ、死んじゃう。切るね』
まだ言葉もおぼつかない獣のティラータに、その意味がすぐには分からなかったのは、聞こえにくいだけではない。その言葉に、感情が一切こもっていなかったせいもある。
ティラータの顔にかかるたんぽぽ色のおさげをかき上げ、少女はそのついでといったなにげない動作で、ティラータの胸にナイフを突き立てた。
痛みとともに、ティラータのなにかも切れた。
乱れた鼓動と息は急に落ち着き、耳も目も、クリアに開けた。
『相性が良すぎ、想定外。繋がりすぎ……どっちが主体かわからないほど』
少女がそう言うと、どういうことだと問いただす声。
聞き覚えあるその声は、誰だったろうかとティラータは今でも分からない。
『魔力の補充元、でも、この子が傷つけば、障壁も影響うける』
ざわつく室内。おのおのが懸念を口にし、議論を戦わせている。そのせいで、余計に聞きづらくなり、ティラータには理解できなくなった。
そのなかで、少女だけが黙ってティラータのそばに立つ。
ぼうっと見返すティラータと、周囲の騒ぐ大人たちを見比べて、少女が初めて笑った。
『名前は?』
「ティラータ」
『私は、オズマ。あなたと同じ』
「……おなじ?」
その意味がわからず聞き返したとき、オズマがティラータの上に倒れかかってきた。
意識を失い、力を抜いた人間がとてつもなく重いと知ったのは、この時が初めてだった。支えようとして失敗し、二人揃って寝かされていた寝台から落ちた。
それが、ティラータにとって紋章が刻まれたときの記憶。
このときオズマが持てる魔力を使い果たし、倒れたのだと知ったのは、ずいぶんと後になってからだ。
そしてオズマもまた、ティラータと同じように死にそうになっていたのを拾われ、王家のために魔術師となるしかなかったのだ。それを『同じ』と表現したのだろうと、ティラータはそう推測している。
辛いことも多かったが、そうしたなかで出会ったのがアシャナ姫であり、ボルドでもあり、そしてオズマである。
命をかける価値を見出せることができた自分は、幸せだとティラータは疑ってはいなかった。