黒真珠の姫 4
一心不乱に型の鍛錬をするアシャナ姫の周りには、いつの間にか鍛錬を装って近衛兵が囲む形になっていた。
当のアシャナ姫はそれを知ってか知らずか、隣で剣を振り回していた新人近衛兵の若い男に、こそこそと近づく。
「ねえ、ベルナール? 近衛のお仕事はもう慣れたかしら? カナン隊長に随分しごかれてるって聞いたけど」
話しかけられたベルナールの顔には、内心ヒヤヒヤしているのが見てとれる。
離れたところに仁王立ちする剣術師範長を、視界の端にとらえつつ、ヒソヒソと返すベルナール。
「ご心配ありがとうございます姫様。何とかやってます。でも、どこからお聞きになったんですか、その……しごかれてるって」
その言葉につられて、アシャナ姫も小さな声で返した。
「まあ、そこかしこから。ふふ、可愛がられているのね、ベルナールは」
「はあ、恐れ入ります」
苦笑いを浮かべながら再びティラータの方に視線を移すと、ばっちり目が合い、ベルナールは背筋が緊張で跳ねて固まる。
「そこ、無駄口をきかない。集中しろ!」
ティラータが叱責を飛ばす。
それだけでなく、つかつかと歩いてくるティラータに気付き、狼狽するベルナール。
「す、すみません」
ティラータはとりあえず謝るベルナールを、ジロリと無言で観察すると、眉間に皺を寄せた。するとベルナールは何か思い当たる節があるのか、無意識に半歩下がる。
「ベルナール」
「はい!」
「お前、ちょっと太りすぎだ」
「……へっ?」
思い描いていた説教パターンでなかったことに相当拍子抜けしたのか、ベルナールは唖然としたままだ。
「いい、いやですね師範長。僕……いえ、私は太ってなど」
「剣の鍛錬で付けたものならいざしらず、無駄に筋肉をつけるな、身体が硬くなる。得物に剣を持ちたいのなら、尚更だ」
ベルナールは何か身に覚えがあるのか、バツの悪そうな顔をしているので、ティラータが無言のプレッシャーで「言ってみろ」と睨む。
「実はその、砂袋で足腰の鍛錬をと思って……ダメでしたか?」
やっぱりな、という呆れ顔で聴いていたティラータが、ベルナールの脳天に容赦なく拳骨を落とす。
「まあいい。ベルナール、アシャナ姫の相手になってやってくれ」
「え、ええぇ?!」
突然の切り返しについてゆけず、痛む頭を押さえ呆然としていた若い近衛兵の顔が、追いついてきた理解とともに蒼白になる。
「アーシャ、丁度いい相手がいた。まず、彼とひと試合やってみてくれ」
「わかったわ。よろしくね、ベルナール?」
固まるベルナールに、アシャナ姫がにっこりと微笑みかける。
アシャナ姫と新人近衛兵ベルナールの試合は、本日二つ目のイベントとなった。
新人近衛隊員のベルナールと、我らが世継ぎの姫アシャナの対戦であるので、当然ではあった。だがアシャナ姫の応援をする者がいても、ベルナールへのそれは皆無といっていい状態だ。
その状況が面白いのか、ますます男たちは野次を飛ばす。
「では、両者かまえ……はじめ!」
ティラータの掛け声と共に、試合が始まった。
「どうしたベルナール、腰がひけてるぞ」
早速の野次に、どっと笑いがおきる。
ベルナールからしてみれば、絶対に怪我など負わせられない相手である。腕が確かでなければ入れない近衛に、末席とはいえ名を連ねているベルナールではあったが、さすがに緊張で身体が強張っている。だが万が一手心を加えて、守るべき相手であるアシャナ姫に負けたりなどしたら──。たるんでいるとばかりに、今以上の先輩達からのしごきが待ちかまえているであろうことは、嫌でもわかるのだろう。
勝たねばならない、と珍しく真面目に剣を構えていた。
試合の合図とともにアシャナ姫は、細身の長剣を繰り出すのを、ベルナールが慎重に受け流す。ということを先程から繰り返している。
そこへティラータが無情にも声をかける。
「アーシャ、遠慮せずに思い切ってやって大丈夫だから」
にっこりと、しかし目は笑っていないティラータに気付き、ベルナールは青くなる。
ティラータの声に反応して、アシャナの動きが変わった。身体の柔軟性を最大限に生かし、ベルナールを上下に翻弄するかのように攻撃してゆく。
「わ、わわ、姫」
慌てるベルナールに、周りの男から更に野次と笑いが巻き起こる。
レイチェルが腰に手を当てて、尊大に言った。
「相変わらずね、彼」
「本人は真面目に励んでいるつもりのようだが、方向性が常にズレている」
「ふふ、その点、アシャナ様は期待以上なのよね。素質あるわ、うん」
レイチェルは二人の対比を、興味深いと眺めている。
「アーシャは身体が柔らかいからな、上手く受け流すこともできるし、際どいところからでも攻撃に転じられる。それに比べてアイツは……」
「硬い、わよねぇ。もう、ガチガチ」
レイチェルが、あっはっは、と大笑いすると、姫と間合いを取っていたベルナールが二人を見ていた。
自分が笑われていたことを、ベルナールは本能で悟ったようだ。
「アーシャと立ち会って、気付けばいいのだがな」
ぷはっ、と再びふき出すレイチェル。
「ムリムリ。あいつの鈍さは天下一品だもの。苦労するわね、ティラータ?」
眉を寄せて、ため息をつくティラータ。
それでも、近衛という花形に就けるほどの実力はあるのだが……ここらで一皮むけてもいい筈なのに、と肩を落とす。
当然の結果ではあるが、アシャナ姫の剣を奪い取るかたちで、ベルナールが勝利を収めた。二人を兵たちが取り囲み姫へは労い、新人近衛へは労わりという名の、きつい可愛がりを施している。
「やれやれ、もうしばらくは雑用係り延長だな」
背後からの落ち着いた低い声にティラータが振り返ると、ベルナールの上司であるランカス・ボルド近衛副隊長が立っていた。
「戻って来てたのか、早かったなボルド」
ティラータの言葉に、印象的な空色の瞳を細め微笑む。がっしりとした体躯だが、人に威圧感を与えない穏やかな表情をする男だ。
王宮でも屈強な男達の集う近衛兵たちを、副隊長として束ねるにはいささか迫力が欠ける。その丁寧な言葉と物腰は性分なのか、感情をあらわにする時でさえ、そのスタイルは崩れたためしがない。
「隊長から申し付かりまして、あなたと打ち合わせのための、打診をしにきたんですが……師範長殿?」
「お前ににそう呼ばれると、背中がかゆくなりそうだ」
「いえ、剣術場での立場を守るのも、同じく師範としての私の務めでもありますから」
穏やかだが、鋼のように揺らぎない芯を見せられ、ティラータはそれ以上何も言うべきではないと悟った。
「ところで何だ、その打ち合わせの打診とは?」
「ああ、そうでした。大祭中の姫の護衛についてですが、カナン近衛隊長が今日は都合が悪くて、日を改めて細部を確認しておきたく……どうせなら他の者も、たまにはここへ鍛錬に来たいだろう、と隊長が」
ちょっと可笑しそうに笑う、ボルド。
「……それはカナン殿のいつもの悪い冗談か? それで誰だ、運動不足の犠牲者とやらは?」
堅苦しいことを嫌う、叩き上げの近衛隊長らしい言い回しに、ティラータはクスリと笑って同調する。ボルドの上司にあたる近衛隊長は、時折りこうして遠回しにティラータと打ち合わせを打診してくるのだ。
「あら、私も身体がなまっているから、お誘いいただけますかしら副隊長殿?」
「ええ、もちろんですよレイチェル。あとは……魔術次官と薬師殿にも」
横から会話に参加してくるレイチェルだったが、ボルドの言葉に、ティラータと顔を見合わせて苦笑い。
「……二人とも来るかしら……アレルヤは渋々、ジャージャービーンは文句たらたらよ、きっと」
「はは、いつものごとく、ごねられたら隊長が何とかするんでしょう」
レイチェルのあきらめたような口ぶりに、ボルドがにこやかに答えている。
薬師まで呼び出すことを選択した、近衛隊長の重い判断に、ティラータは嘆息しながら話の先を促す。
「それで、日時は?」
「そうですね、明後日の正午あたりはどうでしょうか」
「分かった」
ティラータが頷いたところで、兵たちの取り巻きから脱したアシャナが、ティラータの元に戻ってきた。そのまま三人の会話は終了され、
「どうかしらティラータ? 少しはマシになって?」
「ああ、ずいぶんさまになってきたなアーシャ。もう少し上達したら、ベルナールに引けを取らなくなるだろう」
その言葉にアシャナは、大きな眼を輝かせてそうだったらいいな、と喜んだ。
そしてアシャナはふと、ティラータの横に立つボルドに気付いた。
「……来てたのね、ボルド」
アシャナの言葉に、近衛副隊長は握った右手を胸に置き、頭を下げて世継ぎの姫に最敬礼をする。
「姫、失礼ながら拝見させていただきました」
「ボルド、ここでは敬礼は不要よ。ところで、まだお迎えでは……ないわよね? この後ティラータが直接手ほどきをしてくれる事になっているのよ」
心配そうに伺うアシャナ。女官長の差し金でここに来たのではないかと勘ぐっているようだ。
「いえ、私はそこの雑用係を拾いに来ただけです。ご心配には及びません」
微笑んで答えたボルドの言葉を受け、ベルナールが姫の背後で、蛇に睨まれた蛙のごとく固まって青くなった。
ボルドは慌てるベルナールの首根っこを、むんずと掴み、にこやかにアシャナへ挨拶をする。そして雑用係りを容赦なく引きずって行った。
それを見て、アシャナが「まあ」と眼を丸くしていたかと思えば、ころころと鈴が転がるように笑い声を立てた。
「少しだけ、同情するわ」
二人をを見送っていたレイチェルも、小さくこぼしたのだった。
「さあ、少し休憩したら、次は私とだアーシャ」
そう言ったら思いのほか嬉しそうなアシャナ姫を見て、ティラータの心が温かくなる。
久しぶりの休息に、アシャナとレイチェルの華ふたつ。
むさ苦しい日常の男所帯を思い出し、やはり女性がいるだけで場が華やいでいいものだなと、ティラータは達観せずにはおれなかった。