白月の攻防戦 5
宮廷魔術師次官の特製魔法がかけられた矢を放ったレイチェル・リンドは、周囲の障壁の揺らぎが落ち着くのを見て、安堵のため息をもらした。だが警戒を怠らない傍らの剣士の様子に、再び気を引き締めて新たな矢をつがえる。
「ティラータの方はどうなっているの、オズマ?」
『は、はい。それが戦闘が激しくて……詳細はわかりませんが、その、ティラータ殿には、い、異常はありません』
「そう。方向と距離をお願い」
『……わ、分かりました』
瞼を閉じて集中するレイチェルに、警護にあたっていた近衛兵ヒューが話しかけた。
「副隊長の方は終わったのか?」
「ええ、穴は閉じたって。だけど入り込んだ者たちを処理するのに、まだ時間がかかると思うわ」
「そうか……」
先に矢を放った方角を、ただでさえ細いその目を細めて眺めるヒュー。気配を追っているのだろうと、レイチェルは己の事に集中しようとしたところで、それを妨げられることになった。
「なあ、あいつ、良い奴じゃん。嫁に行けば?」
「……な、へ?」
振り返るレイチェルは、仲間の言葉に動揺し、その指から矢をとりこぼした。
「ば、馬鹿、何言ってるのよ! 取ってこい!」
弓を抱えたまま、蹴りあげるレイチェルの足をひょいと避けて、ヒューは枝から降りていく。その顔は悪戯が上手くいった子供のようだ。
レイチェルは思いがけない言葉を拭うように頭を振り、改めて遠く離れてた魔術師へと意識を集中させる。
『な、なにかありましたか、レイチェル? 繋がりが一瞬、と、途切れましたが』
「なんでもないわ、アレルヤは気にしないで!」
ぶつぶつとオズマと交信するレイチェルに、戻ってきたヒューが苦笑いを浮かべながら、矢を渡す。
レイチェルはここ最近、父親から逃げるようにして顔を合わせないようにしていた。顔を合わせれば必ずといっていいほど見合いを進める父親が、ついに業を煮やしたのか、遠く離れた他国の商人を連れて来たのだ。その強引なやり口に我慢がならなくなり、話をつけようと顔を出したのが失敗の元。さすが豪商とうたわれるだけはある、その父の策略にのせられ、出会った人物がヒューの言う『あいつ』だった。
それから数度、顔を合わせはした。だがレイチェルにとってはそれだけだ。
「のぞきは悪趣味よ」
「偶然だって」
「……で、どこまで知ってるのよ」
ほんのり顔を赤らめながら聞いてくるレイチェルに、ヒューは今度こそ声を堪えきれずに噴き出すのだった。
それに当然、怒り出して容赦なく蹴りのひとつでもいられると身構えた男は、肩透かしを食らうことになる。レイチェルは遠くを眺めたまま、一言も発しない。
「この国の男じゃないからこそ、良いこともあるんじゃないのか?」
「……なによ、うちの父にお金でも掴まされたの?」
「……ティラータを置いてきぼりに出来ない?」
「なっ、何を」
レイチェルが声を荒げたのは、図星だからだ。ヒューはそう納得したようだった。
そんなヒューの考えが読めるからこそ、レイチェルもまた舌打ちをする。
この諜報活動が得意な男は、ティラータの最も側に長くいる者の一人だ。当然、彼女とレイチェルの関係をよく理解していた。そしてレイチェルも、ヒューがティラータのことをどのように扱っているのかも、嫌というほど知っている。だからこそ、彼には生半可な誤魔化しが通用しないのだ。
「あんたなら今、この国を出て行けるっていうの、姫とティラータを置いて!」
「いいや」
「なら分かるでしょ」
肩をすくめるヒュー。だが続いて告げた言葉は、レイチェルにとって意外なものだった。
「命令なら別だけどな」
レイチェルが思わず振り返った男の顔は、いつも通り飄々としたものだと思いきや、酷く優しげなことに驚いた。
何か変なことを考えているのではないかと問い詰めようとしたそのとき。
『レイチェル、じゅ、準備はいいですか』
「大丈夫よ、状況は?」
『は、はい、今のところは良くも悪くも、ないです。壁の向こうには、まだまだ感知できるだけでも相当数の人数が控えています。入ってきている方は入れ替わるものの、その、だいたい一定数を保っているようです』
「……わかった、もう一度距離を確認おねがい」
『は、はい』
レイチェルが矢をつがい、目を閉じてじっと周囲の気配に気を配る。
呼吸を整えて、導き手であるオズマの魔力に沿って目標を定める。ポッと光がともるように、はるか遠くに見えるのは、微かな気配。強烈な魔法障壁のラインを分断するだけの力を持つ、石板。それがほんのりと淡く光るだけの存在なのが、レイチェルにとっては不思議でならない。
そんな事をオズマに問えば、答えは明瞭だった。
それ自体はただの石板である。そこに描かれる魔法陣によってほんのわずかな魔法が展開しているだけなのだと。その微かな力で、太古の神が作ったとされる障壁を無効にしているだけなのだ。
「……あれは、なに?」
レイチェルがオズマの感じている魔力を、同化して感知しているにすぎないレイチェルに、光の束になって見える障壁の手前、明るく輝く蛍のようなものが見えたのだ。
『き、きき気にしないでください、あ、あれは魔王です』
「はあ? でも一つだけすごい光って……」
『だから魔王なんです、恐ろしい!』
レイチェルは怯えるオズマの様子に、その灯が誰のものなのかを悟った。そしてそれを胸にしまっておくべきか悩み、そしてその方が良いのだとひとりごちた。オズマが恐れる人物には心当たりあるが、それは今ここで自分たちとともに戦ってはいるが、本来ならば雲の上の人物なのだからと。
そんな事を思っていると、レイチェルは急に周囲の気配に気づいて目を開ける。
側で周囲に警戒していたはずのヒューがいなくなり、次いで樹の下からはうめき声がして見下ろせば……。そこにはいつかぎつけたのか侵入者が数人、ヒューによって斬りつけられ倒れたところだった。
武装した男たちを全てのした後、樹上に戻ってきたヒューの表情はくもったままだ。
「レグルスの懸念通りになったな……どうやらかなりの手練れなのだろう、穴を塞ぐ存在に気づいて動き出している。副隊長の方が心配だな」
「行ってもいいわよ」
「いや……大丈夫だ。俺たちはこのままレグルスの援護を」
躊躇ったもののそう言い直したヒューに、レイチェルは頷く。ヒューが信じるなら、己もそうしようと思うからだ。
幼いボルドとティラータが現れるまで、この男が次期副隊長となると誰もが疑わなかったほどの実力の持ち主なのだから。
『……れ、レイチェル、準備を!』
緊迫したようなオズマの声に、いよいよかとレイチェルの弓を持つ手に、緊張が走ったのだった。
ティラータの掴む胸ぐらの奥で、男はひとつ唾を飲み込む。
この世のどの剣よりも鋭い切れ味を誇るそれが、血脂にまみれて己の首に添えられているのだ。動揺しないはずがない……だが、この男は違った。
激しい喧騒のなか、二人の空間だけが抜き取られたように止まったままだ。
怒りをあらわにする女剣士を前に、命を握られているにもかかわらずその顔には余裕が見てとれる。
「もう一度言う。魔術師の持っていた『アーリアの欠片』をよこせ」
「……なぜそんなものに拘る?」
「お前が知る必要はない。持っていても使いようもないものだ、ジン・マクガイア」
首に当てられた刃をものともせず、ジンが力任せにティラータを押し返す。
殺されないというジンの咄嗟の判断だったが、それを実行できるだけの胆力に舌打ちするティラータ。一歩引いたティラータだったが、すかさず剣を持ち直して斬りかかる。
それを受け流す形でジンが半歩下がる。
だがそこは穴の中央。
ぽっかりと空いた穴の周囲は、不気味に魔道が跳ねて光る。そこに一瞬だが、ジンの肘が触れる。
ジュッという肌が焦げる音。
一瞬だけだが怯んだジン。そこへティラータが踏み込む。大きく空いた穴の中へ。だが──
「レグルス!」
シリウスの声で、ティラータは我に返る。
剣の合わさる激しい音とともに、後方へ身を翻すティラータ。
だが飛びのくティラータの残像が、黄金色の髪が、ジンの目の前に光の粉となって降り注いだ。
「……な、んだ?」
何が起こったのか、ジンは息をのんでその光景をただ見つめるだけだ。
ティラータは息をはずませて地に膝をつく。
「気を付けろ」
息を整えるティラータへ声をかけながら横を走り抜けて、ティラータを庇うようにジンとその周りに集まってくる兵たちに斬りかかったのは、それまで後方支援に徹していたシリウスだった。
ティラータの支援に徹していたといっても、次々に出てくる大勢を相手にしていたのは変わりない。なのにシリウスに息の乱れは見られない。冷静にジンの周辺を固める者たちの守りを崩し、あっという間にその長剣をジンへと振り下ろしていた。
見た目以上に重い斬撃だったのだろう、ジンが体勢を崩しながらも受け止めていた。
「目的を忘れるな、レグルス」
シリウスの冷たい灰色の瞳が、ジンを見下ろす。
ジンはその冷たさに、判断を一瞬だけ遅らせていた。
目の前にいたシリウスの影から伸びる、片刃。
痛みというよりも熱さに襲われ、ジンは己の左腕が血の池をつくりながら地面に落ちるのを見た。
「ぐあああああ」
重い重圧とともにジンを抑えていたはずのシリウスは、白刃とともに斬られたかのようにジンには見えた。
だが腕を抱えて唸る己を、数歩向こうでただ眺めるシリウスに気づき、ジンはその痛みとともに思い知る。これが、剣聖かと──
吹き出る血潮をそのままに、再び剣を振り上げたジンの眼前には、今にも振り下ろされる剣を構えたティラータが迫る。
「ちくちょおおおおおおお!」
薙ぎ払うようジンの剣よりも先に、ティラータの剣が斬り裂いたのは、血の雨が降りそそぐ大地そのものだった。
切っ先が、甲高い音とともに石板に突き刺さる。
立ち上がる土煙越しに、睨み合うティラータとジン。
同時に、激しく音を立てながら弾け、うねり始める魔法障壁。
障壁が閉じることを悟り、慌てて下がろうとしたジンを、ティラータが止める。その左手に、ジンの剣を握りしめて。
「よ、よせ! 離りやがれ、レグルス!」
「まだだ、アーリアの欠片を返せ!」
「離せ、何のことだよ!」
血に濡れ、滑る剣を掴んだまま離さないティラータは、ジンを睨みつけたまま微動だにしない。
これまでの冷静さをすっかり欠いたジンを、決して逃がさないその姿は、獲物を狙う獅子そのものだった。
音を立てていつ襲ってくるとも知れない魔法障壁の下で、ティラータは再び吠える。
「魔術師から奪ったものをよこせ!」
「はなせえぇぇ!」
稲妻のようにうねる光が、もつれるティラータとジンの二人を襲う。
だが、ティラータは冷静だった。
微かに届く声が、報せを告げる。
割けて血を滴らせる左手を開き、ティラータは身を翻した。
そこに、空気を裂いて降る一本の矢。
ティラータとジンを引き裂くかのように、落ちて、刺さったレイチェルの放ったもの。
そうしてティラータの剣とオズマの魔力を込めた矢の二つにより、ようやく固い石板が二つに割けたのだった。
血に濡れた暗い森が、まるで光の洪水にのまれる。
「死ぬ気か?」
「いいや、私は死なない」
ジンが、仲間に引きずられるように穴の向こうへと消える。
すると皮の鞭が、襲いくる魔法障壁からティラータを巻き取るようにしてその場から攫っていた。
次の瞬間、凄まじい雷のごとき音が鳴り響き、障壁が大地を貫く。まるで鉄の扉が下ろされたように、虹色の牢が森を別つ。
放り上げられるように宙へ投げ出されたティラータ。
不安定な体勢を戻そうと手を伸ばすと、その手を取ったのはシリウスだった。引き寄せられるようにして降り立つティラータに、その男は不敵な笑みを見せる。
「後片付けを残して、休憩されても困る」
取り残された残党を眺め、シリウスがそう言う。
かなりの数の野党が地面に転がってはいたが、まだ抵抗する者たちが相当数残っていた。ティラータは仲間の近衛兵を数え、減っていないことにほっと息をついて気持ちを切り替える。
「……そうだな。これからもう一仕事だ」
ティラータは再び剣を構える。
それだけで、くたびれボロボロになっている近衛兵たちの士気が高まるのが見てとれることに、シリウスは楽し気に笑う。
まだまだ多勢に無勢。近衛兵の方が押されているにも関わらずだ。
ティラータとシリウスが再び互いを背に、無法者たちを地に沈め始めた頃、援軍がかけつける。先に障壁の穴を塞ぎ、何とか野党を殲滅したボルドたちが合流することができたのだ。
押され気味だった近衛兵たちがこれで巻き返し、ティラータたちは全ての野党を捕縛し終えたのだった。