白月の攻防戦 2
残酷描写あります。
地上に降り立つティラータの眼前、木々の葉影に息をひそめる近衛兵の視線の先で、障壁が途切れる。ぽっかりと空いたその穴は、ティラータが以前見たものに比べ、ゆうに三倍はあろうかという大きさだった。
不安定だった穴は次第にその形を安定させ、イーリアスの外と内を繋ぐ。ただし、そこから見えるのは外の世界などではなく、人、人、人。武装した集団の影が覆い隠し、西の森から続く外界の様子は、まるでうかがえない。
障壁の穴を正面に見据え、草むらの中央にティラータが立つ。つづく背の高いシリウスが、飄々としてその脇を守る。
近衛兵たちは、二人の剣閃の外を固め、森の中へ唯の一人も逃さぬように剣をかまえていた。
待ち構えるイーリアス近衛兵たちをまるで気にもとめぬかのように、障壁を越えて武装集団がなだれ込む。一気に緊張が走り、血の気を孕む集団の息遣いで満ちていく。
最初の衝突は、前触れもなく訪れた。
ティラータとシリウスが、流れるような一閃を払う。
無言のまま、先頭を切って襲い掛かる男たちが崩れ落ちたが、それに続く者たちは、倒れた仲間を踏み越えて襲い掛かってくる。
「必死だな、あらかじめ誰を相手にしているか了承済みか」
シリウスの笑みを含んだ言葉を聞き流し、ティラータは無言で目の前の剣を弾き、自分より一回りも大きな男を蹴り飛ばす。それすらも数人の足を乱したのみで、次々と二人に斬りかかる武装集団。
その間にも、巨大な穴からは次々とイーリアス側に人がなだれ込み、静寂のはずの西の森に、剣の交じり合う音が鳴り響く。
ティラータは次第に手加減が難しくなる。少しずつではあるが、血に濡れる愛刀を握る手に、じわりと汗が滲む。
そんな中、ティラータの耳に声が届く。
『あ、あの、ティラータ殿、やはりもう一か所も穴が! ボ、ボルド副隊長殿のところのようです』
一瞬気を削がれた隙をついて脇を突く剣を薙ぎ払い、ティラータは渾身の力で剣を振り下ろす。はるか高く赤い血しぶきを上げて、目の前で男の首が胴体から転がり落ちた。
ぼとりと鈍い音とともに、数拍の静寂が森を包み、悪夢のような赤い雨が降り注ぐ。
黄金の鬣を揺らし、新緑の瞳を燃えたぎらせた獅子が、薄暗い穴に向かって吠える。
「ジン、そこにいるのは分かっている、出てこい!」
ティラータの叫びと共に、再び静寂は破られ、そこかしこで戦闘が再開される。
仁王立ちになるティラータの傍を守るように、シリウスが襲いくる剣を弾く。その動きをまるで見通すかのように、ティラータは一歩一歩前へ進む。
「オズマ、レイチェルにそちらの穴を塞ぐよう伝えろ」
『わ、分かりました』
ティラータが仰ぎ見る空の揺らぎは、確かにボルドのいる方角にも見てとれる。恐らくそこが穴の場所にあたるのだろう。しかし後のことはボルドが何とかする手筈だ、任せるしかないと気持ちを切り替える。
そして再びティラータは剣を構えた。
ティラータがオズマと通じている間、シリウスは鞭を使って敵を薙ぎ払っていた。器用にもその隙をついて剣で止めを刺し、次々と人の山を作り出している。長く束ねられた茶色の髪が、素早い動きに合わせて揺れて舞う。その姿がヴラドを思わせ、彼の二つ名を思い出すティラータ。自分とは違い、その表情はいつも通りである。だがその姿に、後ろを任せることに今となっては何の不安もなかった。
ティラータは背後を完全にシリウスに預け、再び目の前の敵を殲滅にかかる。剣斬の速さでは、ティラータの右に出る者はいないだろう。その太刀筋の前には、斬れぬものはなかった。打ち払うシリウスの刃も強力だったが、受けて反撃を狙うこともできず、斬り捨てられるティラータの前にもまた、敵はない。
未だ障壁の穴から出てくる傭兵たちを、たった二人でそのほとんどを倒す二人の剣聖。それはまるで剣の舞のように優雅にも見え、そして消える命の数に反して実に淡々としてあっけないものだった。
味方であるはずの近衛兵たちですら、二人の姿に息をのみ、絶句する。
この二人をとにかく仕留めねば、この場を制することはできない。となれば二人を取り囲むように、傭兵たちも連携をし始める。だがそれを上手く攻撃に反映する隙すら与えず、二人の剣聖は申し合わせたかのように互いの剣を読みあい、確実に相対する数を減らしている。
近衛兵たちは、そんなティラータとシリウスの間に入ることなど出来るはずもなく、ただひたすらまだ動ける者を昏倒させ、次々と作り出される物言わなくなった傭兵たちを片付けていた。
目の前の一人を昏倒させ、足元の人の山を飛び越えたティラータの前に、ようやく障壁の穴が現れる。障壁の前にはその出入り口を守るかのように、数人が盾になっている。既に百人足らずの傭兵たちがそこから出て、ティラータや近衛兵たちと対峙していた。
ティラータは再び、盾の向こう、穴に向かって叫ぶ。
「ジン、答えろ!」
薄暗い穴の奥は、目を凝らしても人影すら伺えない。
「ジン・マクガイア! 私はここにいるぞ」
「うるせー、こっちも忙しいんだよ馬鹿女」
暗い穴の向こうから、人影が現れた。その声はティラータには確かに覚えのある声だ。
ゆっくりと何かを引きずるようにして障壁を越えてきたのは、確かにジン・マクガイアだった。その手には、一人の男が血を吐きながら抵抗しているようだった。
仲間割れか。ティラータがそう思ったのと同時に、周囲の傭兵たちにも動揺が広がっていた。
「てめーは、まったく思い通りになったためしがねぇな、レグルス。どうやってここに来た」
ティラータの表情が厳しくなる。
「魔術師を殺したのか?」
イーリアスの森に姿を現したジンは、うめき声を上げる男を放り投げ、持っていた剣を振り下ろした。
ひしゃげた声を上げて動かなくなった男を見下ろし、ジンが冷たい声で呟く。
「あの世で見物でもしてろ、クズが」
細い目を更に薄くして、ジンは楽しげにティラータを見る。
「さあ、初めましての挨拶だ。たった今から、俺が盗賊の巣のアタマだ」
「…………おまえ」
堪え切れないように、くつくつと笑うジン。
「コレが実の兄だなんて、悪い冗談だと思わねえか?」
息絶えて転がる男をブーツで踏みつけるその仕草には、ティラータは一切の情を感じることはできなかった。
ティラータのすぐ後ろまで来て、剣をさばいていたシリウスが、軽く舌打ちする。
「聞きしに勝る、狂気っぷりだな」
「あれにはまだ用がある。手を出すな」
それを受けてシリウスがわざとらしく肩をすくめた。
だがジンは上機嫌に剣を振り上げ、叫ぶ。
「いいか野郎ども! 客と繋がってんのはこの俺だ。報酬は継続してやる。そこの女さえ殺っちまえば、後は雑魚だ、ぶっ殺せ!」
ジンの余裕が押されていた傭兵たちを後押しする。そうでなくても、後に引けない状況は察しているのであろう男たちは、一斉に動き出した。だが既に数は相当減っている。近衛兵たちも少なくない人数を殲滅してきている中で、どう見てもジンに勝機は少ない。
薄く笑うジンの後ろに、ティラータは蠢く人影を見て、薄く唇を噛む。
「ここからが本番だろ。そこらに転がってる奴らと一緒にすんなよ、俺が用意した私兵だ」
ジンの言葉の意味を悟り、緊張を増す近衛兵たち。
「いーこと教えてやるよ。あっちは全部、俺の私兵団だぜ?」
ジンが送る視線の先は、もう一つの揺らぐ障壁の向こう。
「っきさま!」
高笑いするジン。
「オズマ! レイチェルに例の矢を使わせろ、そちらはもう、一人たりとも通すな!」
『わ、わかりました』
シリウスもまた状況を察し、ティラータの後ろにつく。
「ヴラドを行かせる」
「頼む」
森の気配が動くのを感じて、ティラータは再び血濡れの愛刀をかまえた。
◇ ◇ ◇ ◇
甘く香しい茶をたたえるカップをソーサーに戻し、アシャナは柔らかいソファの背に、その身を預ける。窓辺に立つデュークが視線を戻したのに気づき、アシャナはにこりと人懐こい笑みを浮かべた。
「いつもより、とても大きな揺らぎだったわ」
「分かるのか」
アシャナは頷いて見せた。
「あの揺らぎの下で、ティラータが戦っている。私も……」
アシャナは自分の応接室から続く控えの間、そして寝室への扉、バルコニーの外、それら待機させた近衛兵に目くばせをする。いつでもユモレスク伯が強硬手段に出ても、すぐに取り押さえられるよう、用意は万全だ。王女の居室に通じる通路の警備もまた、手の者が入り込んでいる。万が一、戦闘になったとしても、アシャナの身は守れとカナン隊長から指示されている。
アシャナは手元に父王の印が押された書類を置き、気を引き締める。
しかし、大臣を通すように侍女に告げようとしたところで、デュークが口を開いた。
「我は傍観者だ。しかし施政を知る者として一つだけ」
珍しく自分に対して言葉をつむぐ剣聖カペラに、アシャナは驚きつつも耳を傾ける。
「施した行いとその結果のみが、その王の人となりだ。民は王の苦しみも葛藤もあずかり知らぬ。かの名君と名高いラプスの大公もまた、今の貴殿のように悩み苦渋の選択を日々しているものだ」
アシャナはその言葉に、深く頷く。
近い将来、障壁が崩壊するのは間違いないだろう。だがそれは、今ではない。そしてユモレスクたちの仕掛けた、ならず者の手によってだなど、アシャナはとうてい許すことはできない。今自分が選択するのは、それらを阻止することだと、強く決意していた。
アシャナは再び、小さな呼び鈴を振る。
「ユモレスク伯をお通しして」
臣下の者がめったに通されることのない、王女の居室に通されたガウレス・ユモレスクは、一通り茶を用意した侍女を見送る。この部屋に通されてから、一言も声を発しないアシャナ姫の正面に、ユモレスクは勧められ座っていた。
ソファにゆったりと座り、カップをかたげる王女の傍には、金星カペラの剣聖デューク・デラ・デューンが、何を考えているのか無表情をたたえて控えていた。
「これはまた、お邪魔を致したようでしたかな」
形式ばった挨拶すらせず、いきなりの無礼な物言いに、アシャナは表情ひとつ崩すことなくカップを置いた。そして淡々と言葉を紡ぐ。
「この祭事の最中に、私への急ぎの要件とは何かしら、ユモレスク伯?」
常日頃の少女のような面立ちは消え、そこにいるのは国を継ぐさだめを背負う、貴人であった。その姿に、ユモレスクは目を細める。ユモレスクは言外に、お前の要件など些末なものだと言われたようなものだ。プライドの高い伯が、それだけで済ますからには、よほどその後の言い分に自信があるのだろう。アシャナはしっかりと敵を観察していた。
「ですが丁度良い。私もあなたに話があったのを、思い出しました」
「姫が、私にですか? いったいどのような件でございましょう」
「よい、伯から聞きましょう」
調子が狂う。ユモレスクは一瞬だったが、そんな表情をした。だがその場はアシャナに合わせることにしたようだ。
「では、私からお話しさせていただきます。実は姫にお聞きしたいことがございます」
「いいわ、話して」
「あの者が姫のお傍に居らぬと、聞き及んでおります。はて、謹慎中の身でありながら、これはいったいどういった事でございましょうか」
「あの者とは、ティラータの事かしら」
恐らく、突破口としてはティラータの不在を利用することなど、アシャナとて承知していたことだ。
「私の命で、他所へ」
「他所、と。それはいったいどこでございますか」
アシャナが少し間をおくと、ユモレスクは己に分があると思ったのか、追及を強めた。
「議会との約束をお忘れではございませんか、姫。」
薄く笑いを浮かべたユモレスク。
所詮は小娘。王女といえど、その権限は多くはないことを、ユモレスクはよく知っていた。なぜなら、それを誘導し続けたのが、ユモレスク自身であるのだから。どのような言い訳が出てこようと、ユモレスクは自分に不都合などあるはずもない。それが王女アシャナへの、この男の評価に他ならなかった。だからこそ、ティラータ・レダを排除することに、かなりの労力を割いたのだから。
だが、この後の王女の反応は、ユモレスクの予想とは違ったものであった。