秘密 1
ボルドは逸る気持ちを何とか抑え、丁寧な仕草で地下道への木戸をそっと閉じる。彼はアレス公の屋敷から城下へ続く、暗い地下道にいた。この道を使った痕跡を残さぬよう、細心の注意を払い、出口を目指す。万が一この道を魔術師以外が使ったことが知られれば、ティラータの脱出する手立てが絶たれるからだ。
ボルドがアレス公の屋敷からの脱出を決めたのは、ティラータが単身塔の中へ入ってから、一時間が過ぎようとしていた頃だった。
倒した見張りを塔の入口そばに座らせ、いかにもサボって寝ているかのように装った。ボルドは茂みの中から周囲を警戒して、ティラータの帰りを待っていた。しかし結局、ティラータは戻ってこなかった。
そして見張り交替の時間が来た。他の警備兵が塔に近づくのを確認し、ボルドはティラータと合流することを諦めた。
恐らくティラータに何かあったのだと、推察する。手助けに行きたいのはやまやまだったが、当初から何かあれば別行動する手はずであった。ここは早々に城に戻り、詳細はオズマ魔術師次官に聞くしかない。
ボルドは来た道を辿り、焼けこげた廃墟の地下から這い出し、城へと急いだ。
城門に馬を乗りつけ馬を預けていると、城の方から近衛兵が二人、ボルドの元へ駆け寄って来た。血相を変えた二人のうち一人は、近衛隊長の伝令を受け持つ、新人近衛兵のベルナールだった。
「副隊長、至急来ていただきたいのですが」
今この時にか、とボルドは焦る気持ちを抑える。
「こちらも取り込み中なのだが……何があった?」
もう一人の近衛兵が、門番に背を向けてボルドに耳打ちする。
「魔術師次官のオズマ殿が、暴れだしたらしいのです。今から様子を見にいくところですが」
どうやらボルドの目的地は、変える必要がなくなったようだ。
「ベルナール、隊長からは何と?」
「はい、ボルド副隊長を見つけ次第、一緒に向かうようにと」
わかった、と頷くボルド。そしてもう一人の近衛に指示を出す。
「……隊長に、伝令を。猫があちらに渡った。詳細はオズマ次官が知っているはず、と」
その言葉に、近衛兵はハッとして青ざめ、すぐさま城へと走り去る。
──猫。隊長が時折り冗談まじりに使う、ティラータを指す隠語だ。
近衛兵なら、それが誰を意味するのかすぐに分かる。
「お前は私と来い、ベルナール」
ボルドはぽかんとしていたベルナールを促し、自分はオズマの収監されている独房へ急ぐ。
「た、大変だ……師範長が?」
そしてようやく事の重大性に気づいた、ベルナール。足をもつれさせながら、遅れまいと走り出す。
「黙って付いて来い!」
ボルドの一喝に、ベルナールもようやく口元を引き締めた。
イーリアス城、城壁の地下に、オズマの収監されている監獄がある。その最奥の独房から、太い男の悲鳴が上がる。行き交う看守たちの足音と、石壁をなにかが擦れ合う音が響いていた。その異様な空気を割くように、ぽつりと唄が聞こえてくる。
次の瞬間には、何かを叩きつける音と、悲鳴がつんざく。
逃まどう看守たちを下がらせ、ボルドはようやく最奥へたどり着く。
「……なんだ、これは?!」
独房の鉄格子の前に看守の男が二人、腰を抜かして座りこんでいる。その足元には、生き物のようにうねる、緑の蔦が無数に絡みついていた。
屈強な牢番が泣きそうになりながら、その蔦を解こうとしているのだが、びくともしない。
蔦はどうやらオズマの独房の窓から出ているようだ。中の様子を窺おうと、ボルドが近づく。
「オズマ殿いますか、私です、近衛副隊長ボルドです!」
ボルドから見える範囲全てが、緑の蔦に覆われていた。窓、扉もうっそうとした蔦とその葉で埋まり、まるで森の中をのぞいているようだ。
しかし、突然うごめく蔦が、ぴたりと静止する。
「オズマ殿?」
叫ぶボルドの声が届いていたのか、今度は返事があった。
「……ふ、副隊長殿?」
微かに届くのは、確かにオズマのものであり、ボルドは胸をなで下ろす。
「そうです、私です。戻って来ました。あれから何があったんですか、これはいったいどうしたんです、オズマ殿?」
すると突然、ボルドの見ている前で再び蔦が動き出す。
「うわあああっ」
叫び声に後ろを振り返ると、看守たちが絡まる蔦から解放され、床を這って逃げ出そうとしていた。
「副隊長、下!」
ベルナールの声に足元を見ると、凄まじい勢いでボルドの足元を、蔦が流れていく。しかしそれはボルドに絡まることなく、独房の一室に吸い込まれるように入っていった。元の体積を考えると、蔦はいったいどこに消えているのかと、不思議な思いでボルドが見守る。次第に溢れかえっていた蔦は小さく縮こまり、独房の床一面に収まって収縮を止めたようだ。
見渡せるようになった独房の中央に、ぽつんとオズマが佇んでいた。
「オズマ殿、大丈夫ですか?」
ボルドの声に小さな肩を震わせ、オズマが振り向く。姿を確認してほっとしたのもつかの間、オズマの顔を見て、ボルドは眉を寄せる。
「だ、大丈夫じゃないんです……大丈夫なんかじゃ」
そばかすの散る頬に、幾すじもの涙が伝っていた。眼鏡の奥で真っ赤に腫らした両目が、己がここに来るまでの長い間、そうして泣き続けていたことを、ボルドに知らしめる。
ボルドはベルナールに目配せをして、解放されぐったりとしている看守たちを連れて行かせる。
人気のなくなったことを確認し、オズマに向き合う。
「……話して、もらえますね」
オズマがゆっくり頷く。
「ティラータ殿は、捕まりました」
立ち尽くすオズマの足元には、小さくなった蔦が、未だ脈打つように蠢いている。オズマはまるで迷子の子供のように、草原で佇み泣いている。
「誰が、彼女を捕らえたのですか」
ビクリと身体を揺らすオズマ。
「あ、あいつです。あの女と、ジン・マクガイアの二人です」
珍しいな、とボルドが驚く。荒げる言葉と丸眼鏡の向こうの瞳の中に、暗い感情がこもっている。
「例の女魔術師だけでなく、ジン・マクガイアも塔に居合わせたのですね。それで、今も彼女はあの塔に?」
オズマは頷く。鉄枠のある狭い窓を隔てた先の、ボルドに手を伸ばす。灰色のローブの下の足が一歩一歩出るごとに、蔦がうねってその場を避けてゆく。その様子に、ボルドはどうしてか嫌悪を禁じえない。およそオズマらしからぬ、見たことのない術だからなのか。
ボルドの印象では、オズマはもっと大胆で分かりやすい、攻撃的な魔術を得意としていたはずだった。
「それで、今はどのような状況ですか? 彼女と話はできますか?」
鉄格子に、オズマがか細く小さい拳を打ち付ける。冷たい音が、石の廊下に響いた。
「オズマ殿」
「助けて、下さい……お願いです、あいつが……このままじゃティラータ殿が!」
「落ち着いてください、必ず助けますから、まずは状況を」
「呼びかけに、応じないんです! このままでは、あいつに刻まれる……あいつが刻印に気づいたら何もしない訳がない、早くしないと」
ボルドの顔色も変わる。
「ちょっと待って下さい、なぜ刻印のことを? いえ、それよりあいつとは、あの女魔術師のことですか? オズマ殿はあの者の素性を知っているのですか?」
その時、二人の会話を割るかのように、ひとつ杖が打ち鳴らされた。
「アレルヤ」
ボルドが振り返ると、そこには魔術師団長官ヨーゼル師が、杖を片手に立っていた。その後ろには、ベルナールが申し訳なさそうに、控えている。ベルナールごときでは、この老人の行く手を阻むなど、出来ようはずもない。
「お、お師匠様……」
ヨーゼル師が、彼特有の重そうな眉を持ち上げる。そして普段窺うことのない瞳を晒して、弟子であるオズマを威圧した。
「その術は禁忌であると、言っておいた筈じゃが、違うか養い子よ」
杖の先で、蔦を一房持ち上げて見せる。
突然のヨーゼル師の出現に、ボルドは頭を悩ませる。彼がアレルヤ・オズマの養い親であることは知っている。だからと云って、こちらに与するとは限らず、その立ち位置が未だに知れないからだ。
そんなボルドの困惑を知ってか、ヨーゼルはいつものようにフォッフォと笑う。
「心配するでない。どちらの邪魔もせんわい」
それはどちらの味方もしない、という事なのだろう。苦笑するしかないボルド。
「お、お師匠様、あ、あいつです。ここから、で出てもいいですか?」
オズマは蔦を動かし、ヨーゼルに懇願する。
「アレルヤ!」
師の一喝に、オズマは狼狽する。何を叱責されたのか理解しているのか、小さく頷くと、足元にあった緑の蔦が萎んでゆく。緑から茶へ、そしていつしか砂のように崩れ、跡形もなく消え失せた。
ヨーゼルは大きく溜息をつき、憂いのある声だった。
「……母親じゃったか」
俯いたまま、オズマは肯定する。
「あいつは私にしたように、ティラータ殿も切り刻むかもしれません。あいつは、生かしておいてはいけません。この前の子供のように、また禁忌を犯すかも……あのとき気づいていればこ、こんなことには」
オズマは再びボルドに縋り寄る。
「まだ、あいつはティラータ殿を隠しています。ジンという男も何を考えているのか、それに手を貸しています。塔のさらに地下へ、ティラータ殿を移したようです。きっとそのまま、大祭が過ぎるまで隠すのでしょう……でも、あの女なら、何もせずにいるだなんて、考えられません。あいつは残酷で、人を人とも思わない狂人です、お願いします、早く助け出してください、私、何でもしますからっ」
再び淡い水色の瞳から、涙が溢れる。そしてオズマは繰り返す。
──あいつを、母親を、殺してください、と──