悔恨 3
屋敷の主であるアレス公が戻れば、警備の人員も格段に上がるのは目に見えている。ティラータとボルドは一刻も早く、探索を終えねばならかった。
とりあえず、うろ覚えとはいえ数ヶ月滞在していたティラータの記憶を当てにしつつ、警戒しながら建物を出た。
ティラータはボルドに念を押す。どちらか一方に万が一の事があれば、必ず一人でも脱出し、姫の警護に戻ることを。彼は渋い顔をしてはいたが、それを了承する。互いに優先せねばならないのは、あくまでも姫を護り無茶な策略から民と国を護ることなのだから。
ティラータが先を行き、ボルドが後方の気配に警戒しつつ、二人は建物の壁伝いに身を隠した。
左耳のピアスに向けて、ティラータは小声で話しかける。
「変化はあるか、オズマ殿?」
『い、いえ。先程からあまり動きはないようです……ですが、周囲には他にも人がいるようです』
「人数は分かるか?」
『そ、それが……三人いるのは分かるのですが』
オズマの探知はあくまでも魔術を使える者を捉えているにすぎない。少なくとも三人魔術師の側に居るのは確かだろうが、ボルドのように魔力を持たない者が多数居る可能性もまた残されていた。だがティラータは一向に怯むことなく淡々としている
「それだけでも助かるよ」
ティラータにとって、警戒すべき相手は魔術師だ。魔術についての知識に乏しいティラータにとって、避けるべき相手。
アレス公の別邸であるはずのそこは、閑散として人の気配も乏しかった。本来はイーリアス城に住むアレス公ではあるが、妻であるヴィヴィアン・ユモレスクが静養中なのを考慮すれば、いくぶん少なすぎるのではないだろうかとティラータは思う。最初の建物から出て、同じような小さな倉庫や東屋をいくつか過ぎるまで、やり過ごした使用人は女中が五人ほど。
オズマが指し示す方向は、確実に広い敷地の中心部だった。とても城下町の中にあるとは思えない広大な敷地は、取り囲むように植えられた樫の木と高い塀に閉ざされている。内側にはいくつか庭園が造られ、木々を縫うようにしてそれらを繋ぐ細い小道が通る。背の低い植木の先には、点々と東屋が建ち、細い小路が交わる箇所には、小さいが二階建ての使用人棟が見える。さして人を雇い入れていない印象の通り、手入れのされていない棟がちらほら窺えた。
母屋は敷地の中央より北に位置し、広大な庭園を望めるようにそびえ立つ。
ティラータとボルドは、最初に確認した高いレンガの塔に、慎重に近づいていった。塔の前には、ティラータが滞在していた頃と変わらず、芝の広場がそのまま残されてあった。
二人は広場に差し掛かる手前、小路の植え込みの影に身を隠す。
「ここからは、かなり目立ちますね」
ボルドが遮るものが何もない広場に、視線を投げる。塔のすぐ側に男が数人いるようだ。警備の者か、もしくは庭師か。
その時、身を潜める二人の頭上に鐘の音が響き渡る。
北の方角から打ち鳴らされる音色は優雅に澄んだもので、警鐘の甲高さとは程遠い。恐らく、主であるアレス公の帰還を知らせるものだろう。塔の前の男達に動きがあった。一人の男を残し、どうやら残りの者たちは北門の方角へ移動するようだ。
去った男たちに見張りを言いつけられた、二十代と見られる若い男が、渋々といった体で立っていた。
ティラータとボルドは互いに目配せをし、無言で動き始める。
ボルドは塔の正面をうかがいつつ、塔に近づく。ティラータは木陰を伝い、見張りのいない塔の裏手へ回る。
『どど、どうするんでしょうか?』
「ボルドが見張りを引きつけている間に、中へ入る」
短く答えると、ティラータは息を殺し、苔むしたレンガに背をつける。
一方ボルドは近場で小石をいくつか拾うと、それを塔の見張り目がけて投げつける。広場を越えて、警備の男の足元近くにそれは落ちた。
物音に気づいたおとこはが、警戒して辺りをキョロキョロと見回している。
次にボルドは小さいナイフを取り出すと、今度は男から少し離れた木立の幹に、投げつけた。
幹に刃が突き刺さる小さな音が、辺りに響く。
見張りの男はハッとして、林の方へと視線を送る。そしてゆっくり剣を抜き、音がした木の前まで来て突き刺さったナイフに気づく。慌てて後ろを振り返ってはいるが、ボルドを見出すことはなかった。
しばらく警戒していたかと思うと、男はナイフに近づいて、おもむろにそれを抜き取る。
男が手にとっているナイフは、簡素だが上等な設えだ。柄は木製ではあるが、細い彫が入り、刃はよく研がれ使い込まれている。若い男の手が手に取れば、見惚れるであろうことは分かりきっていた。
ボルドが見守るなか、再び男が周囲をじっと見回す。そして誰の気配もないことに、薄い笑みを浮かべていた。
「こんな所に忘れるくらいだ、無くなっても文句は言えねぇよな」
手の中でナイフを持ち替え、クルリと回す。
「……悪くねえ」
そう言うや否や、男は唐突に崩れ落ちる。
男の後ろには、手刀とかざしたボルドが立っていた。完全に倒れこむ前に片手で男を支え、ボルドは塔を振り仰ぐ。遠目にも目立つ金の髪が、見張りの立っていた木戸の中に消える。
「急いで下さいよ、レグルス」
気絶した男を引きずりながら、ボルドはそっと呟いた。
おとり、というその言葉通り、若くやる気の無さそうな見張りが持ち場を離れると、覗き見ていたオズマが聞いてくる。
『……い、行かないんですか、ティラータ殿?』
「まだだ」
ひと言だけ答え、ティラータは塔に背をつけたまま動かない。
魔道具のピアス越しとはいえ、オズマから見れば見張りはあの男一人で、林の方に引き寄せられている。となればティラータの素早さを持ってすれば、今のうちに扉を開けて入れそうなものだ、と言いたいのだろう。ピアスの向こうで、ぶつぶつと『あの』とか『でも』といった声がティラータの耳に届く。
「意外と大胆、というか好戦的だな、オズマ殿は」
ティラータは少しだけ笑い、ボルドが見張りをのしたところを確認すると動き出す。その動きには周囲を警戒する慎重さが微塵もなく、瞬くうちに重い木戸を開け、暗い石造りの中に身を滑り込ませていた。
ティラータの目の前に現れたのは、階段だった。しかも、それはただ下へと進む、地下への階段だ。
点々とひどくまばらに灯された魔道灯が、かすかに先を照らし、その長さをティラータに知らしめる。
『……あの、ティラータ殿はここへは……?』
「初めて来る」
塔に登って遊んだ記憶はある。だがそれはレンガ造りの外観に張り出すように作られた、外階段を使ってだった。いくつか立ち入ることを禁じられた扉があったような気はするが、幼い頃のことだ。特に気にも留めていなかった。ここは恐らくその内の一つなのだろうとティラータは思う。
ともかく、時間がない。ここまで来たからには、進むしかない。
ティラータは気を取り直して、階段を降り始めた。
『あ、あの……近衛副隊長殿は、だ、大丈夫でしょうか』
気配を殺して暗い階段を下りる中、緊張に耐え切れなくなったのか、オズマが話しかけてくる。
「あいつなら、大丈夫だろう」
ティラータとボルドは打ち合わせなどせずとも、互いに何を考え、どの行動を選択するのかは手に取るように分かる。ボルドに任せておけば、恐らく見張りの交替の時間までは、上手く時間を稼いでくれるだろう。
石をはめ込んだ地下階段は、かなり年季が入っている。ここも、例の地下道と同じ時代のものなのだろうかと、ティラータは考えながら降りてゆく。
『も、もうすぐ……近いです』
オズマの声に、ティラータも気を引き締める。
石階段を降りきると、再び木戸がひとつだけ現れる。どうやら出入り口はここだけのようだ。ここを開けたら、後戻り出来そうにない。
「魔術師はこの中でいいのだな、オズマ殿?」
扉を指し示しティラータが尋ねると、そうだと答えが返ってきた。例の女魔術師だけではない、残りの三人にも警戒せねばならないだろう。
「残りの位置は分かるか?」
『あ、はい……中には例の魔術師と二人、それと、恐らく上の……塔に一人です。周囲の感知できる範囲には、いません』
それだけ分かれば、ティラータには充分だった。
「オズマ殿は、魔術の発動に注意して、何か感知したらすぐに教えてくれ。……オズマ殿は存在を決して感づかれないよう、他は何もするな」
『……は、はい』
ティラータは壁に背をつけて、扉に手を伸ばす。
そっと音がせぬよう、木戸を動かし隙間を作ると、ほんの親指ほどの間から光が漏れる。
まず目に入ったのは、階段と大差ない荒削りの石の床。その上には色あせくたびれた絨毯が敷かれ、幾つか積み重なった古い本がある。何かの鉱石やひび割れた皿、何に使うか分からないガラクタや、乾燥させた植物の束まである。
ティラータは一旦覗くのを止め、暗い階段に視線を戻す。
『……ど、どうでしょうか、中の様子は?』
「魔術師というのは、皆ああいう習性があるものなのか?」
──まるでオズマ殿の執務室に入り込んだのかと思った。
ティラータは一瞬自分の居る場所に、疑念が湧くのを抑えられなかった。
『あの……どういうことです?』
何でもないとだけ返し、ティラータは再び明かりの中へ視線を戻した。今度はもう少し奥まで目を凝らすと、そこに人の気配を感じる。
ティラータは扉の近くに置かれた、大きめのチェスとの影に身を潜めることにし、素早く木戸をすり抜け、室内に滑り込んだ。
突然の大胆な行動に、ピアスの向こうでオズマがひゅっと息を呑む。
物音を立てずに影へ隠れると、チェスとと思っていたものは、大きめの作業台のようだった。床にしゃがみ込み見上げれば、台の上にいくつも無造作に置かれた本がはみ出している。その横から落ちてきそうな走り書きのメモを、一枚抜き取ってみる。
──何を熱心に研究しているのやら。
物陰に滑り込む一瞬でわずかに確認できたのは、奥の机に向かって何かを覗き込む女魔術師らしき後姿が一つ。そしてその横に体格の良い男が一人。
『ちょっ、ちょっとそれ、よく見せて下さいティラータ殿!』
ティラータの手の中の紙片のことだろうか、ふと慌てた様子のオズマに促され目をやると、そこにはびっしりと細かい魔術の文様。魔法陣の一種だろうが、ティラータには全くもって意味が分からないそれに、オズマが驚愕しているのが伝わってくる。
これが一体何なのか。よく見るともう一枚紙が重なっていたようで、紙片がはらりと舞い落ちる。それを拾い上げたティラータの手が止まる。
「……これは」
──なぜ、これがここにある?
驚きのあまり、声が漏れたティラータ。
びっしりと描かれた文様。だがこれは先程のものと違って、ティラータはよく知っていた。いや、この形を知らぬ者はこの国にはいまい。
それはイーリアス国を表す紋章。剣を象った華やかで鋭利な印象を持つ、国章。
だが国章には無い細かい文様のそれは、見間違える筈はない。ティラータの身体に刻まれたものと、寸分違わぬのだから。
『……なぜこれがここに……イーリアス紋を象った……封印の呪いが。ど、どうして!』
──呪い。
何も知らないはずのオズマの言葉が、何故かひどく突き刺さるように感じられるティラータだった。