悔恨 2
──私が私としての自我が芽生えたのとほとんど同時期、霞がかったかのような記憶の中にそれはあった。
赤い煉瓦を積み重ねた物見櫓はとても古く、城下町の外れだったここに、自衛のために建てられたそうだ。拡大していった街に埋もれた今となっては、子供の遊び場になるくらいしか役目がない。
レンガと同じ色をしたとんがり屋根の先には、風見鶏を模した鋼の装飾があり、黒髪の少女『アーシャ』は、いつも「鳥の塔まで競争よ」と笑って走った。
塔の前には芝生の広場があり、そこに群生する野花や花壇の花を拝借して、私とアーシャは毎日のように花冠を作った。
そもそも母を失い、死にかけた末に森から連れ出された幼い私は、衰弱により何日も寝込んでいたようだ。
手厚い看病を受け、起き上がれるようになってからの数ヶ月間、私は『おじさま』の屋敷で過ごした。屋敷の敷地はとても広く、塔を含めいくつもの建物があった。森で母と二人、隠れるように暮らしていた私にとって、そこはまるで迷宮のようだった。迷子になる以前に、一人ではどこにも辿り着けない気がした。事実、常に誰かに手を引かれて過ごした記憶がある。
屋敷にいる間は、毎日アーシャとおじさまが相手をしてくれて、いろんな事を教えてくれた。それこそ花冠の作り方から、あいさつの言葉、スプーンの上手な使い方に至るまで。
ある日、塔の見える広場でアーシャと二人、いつものように花を摘んでいた。
アーシャに贈る花冠を作ろうと、夢中になっていた私の上に、影が落ちた。
見上げると人が立っていて、逆光で顔は見えなかったせいか、私はぼんやりその人を眺めていた。おじさま以外は数人の使用人しか見たことがなかった私は、見知らぬ人とそうでない人との区別がつかなかったのだと、思う。
ふいに影からとても白くて細い腕が伸びてきて、その人が女の人だと気付く。
かがんで近寄ってきたその顔立ちはとても美しく、しかし儚げで、さらさらと長い金髪ととても澄んだ青い眼が印象的だった。
その時、側にいたアーシャが驚いたような小さな悲鳴をもらした。
視線を逸らした次の瞬間、私は膝の上に白い花を散らした。芝の緑と、目に鮮やかな赤いスカート。それらを汚すように、花冠が崩れて舞う。
息が、できなかった。
幼い私には、いったい何が起きているのかさえ、分からなかった。
抵抗すら出来ない強い力で締め上げられ、首を動かすこともままならず。驚きとともに、視線だけを女性に戻す。するとそこには天使のように微笑をたたえた女性がいた。
アーシャのつんざくような悲鳴が、ひどく遠くに感じられる。
少女の悲痛な叫びより、はるかに小さいはずの女性の呟きが、締め付ける首を通して、いやに大きく耳に響いた。
「かえして……かえして、わたくしのあの人を。あの人の金を」
シロツメクサの群生に沈みながら、かすむ視界。きつく締め付ける激情とは裏腹に、小さく呟く声が繰り返す。
あの人を返せ、と。
あの人と結ばれるのは、わたくし。あの人の金を産んでさしあげるのは、わたくし。
これが消えてしまえば、きっとまたあの人が、かえってくる。
失われゆく意識の代わりに、女性の射抜くような激しい感情が、身体に入ってくる。
この人は、私が憎いんだと悟った。どうしてなのか知らないけれど、私が邪魔なんだ。
ふいに圧迫から解放され、突然戻った呼吸に、私は激しく咳き込んだ。永遠に感じられた苦しさは、実際はさほどの間ではなかったのだろう。
私を掻き抱き、泣きつくアーシャ。その肩越しに、おじさまに羽交い絞めされ、虚ろに宙を見る女性が見えた。
その両腕はいまだ前に差し出され、何かを求めているようだった。首を絞められて、空気を求めもがいた時よりも、その姿は私に恐怖を感じさせた。
おじさまはその人に、一生懸命声をかけてなだめている。
「ヴィヴィ、もうやめるんだ」
「ああ、ルートヴィッヒ様、ヴィヴィは今、穢れをはらうところでしたのよ」
虚ろな表情から一変して、微笑をうかべて振り返るる女性の言葉に、おじさまの方が泣きそうな顔だ。
「ヴィヴィ、だめだ」
「ルートヴィッヒ様を穢したあの恐ろしい獣が、ここに」
口元は笑んだまま、狂気に満ちた目がティラータを見下ろす。
「やめろ、ヴィヴィアン!」
おじさまの制止をきかず、女の人は続ける。
「ルートヴィッヒ様の金の髪を簒奪するなんて、卑しいにもほどがあるわ。わたくしが消してさしあげますの。そうすればほら、もうあの汚らわしい雌も、わたくしとルートヴィッヒ様の邪魔をできませんわ……もういちどルートヴィッヒ様が王となり、わたくしが妃としてお支えしましょう」
羽交い絞めにされながらも尚、私に伸ばされる白く細い指。そのうごめく指を見ながら、今度こそ私の意識は闇に沈んでいった。
「ス……レグルス!」
ティラータはボルドの呼びかけに、ハッとして意識を現実へ引き戻す。
そしてひとつ大きく息をついたところで、心配そうに覗きこむボルドと目が合った。
「大丈夫ですか、真っ青ですよ」
「大丈夫、だ」
久しぶりに見た景色に触発されたのか。ティラータにとって既に思い出すことも少なくなった記憶が、まるで白昼の夢のごとく溢れ出したのだ。
ティラータは壁に身を預け、暴れて波打つ鼓動を必死に押さえ込む。
「……すまなかった、何でもない」
「……本当に? 無理をせず、引き返しますか」
大丈夫という言葉をはなから信用していないかのようなボルドに、ティラータは首を振る。
「いい。それよりも、アレス公のここ最近の動向を把握しているか?」
ボルドはその言葉に頷く。
「二週間ほど前からは、奥方様のご容態が芳しくなく、公務もそこそこにこの屋敷に戻られることが多いようです。今日はまだ城に残られていたはずですが……」
ボルドの報告に、ティラータはようやく落ち着けた心臓を鷲掴みにされた気がした。
──あの人が、ここに居るのか。
ヴィヴィアン・ユモレスク、アレス公の妻である人。王妃であることを周囲に望まれ、しかし叶わなかったが故に心が壊れた、哀れな女性。
「件の魔術師は、アレス公の屋敷に匿われているということに、なりますね」
ボルドの言葉が、ティラータの胸に重たく響く。
そこへ、暫く静かだったオズマが声をかけてきた。
『あの、ようやく、大体ですが突き止めました』
「魔術師の居場所か?」
ティラータの驚いた様子に、オズマはいつも以上にどもりながらも肯定する。
『そそ、それでどうしますか?』
「もちろん、誘導を頼む」
ティラータとボルドは頷き合って、埃の舞う倉庫部屋を出ることにした。