先触れと凶聞 2
重傷を負ってイーリアス城に戻ったフェイゼル騎兵隊隊長は、国王ミヒャエルに謁見すらできずに、城内の医務室に運び込まれていた。
本来ならば自らの屋敷に戻って治療を行いたかったが、城に帰り着いたころには傷の痛みに意識が朦朧とし、それも叶わなかった。
とはいえ城の侍医たちが数人がかりで傷の状態を診て、適切な骨折の治療を施していたので、屋敷であろうと城の医務室であろうと結果は同じことだ。折れた右足の骨を引っ張り整え、添え木をして固定された。これから恐らく患部が腫れて熱をもってくるだろうことは、戦士であるフェイゼルも承知している。
しかし一番の心配は、この先元通りに完治するかどうかである。
「……チッ」
苛立ちに自然と舌打ちして、さらにそれを思いもかけない者に聞かれたことに気付く。
「なぜ、貴様がここにいる?」
「失礼ね、あたしが医務室に出入りしていても、何の不思議もないでしょ。相変わらずねフェイゼル」
「笑いに来たのか」
そう言われ、呆れたように肩をすくめるのは、薬師ジャージャービーンだ。
茶色いもじゃもじゃ頭を揺らしながら、ベッドに横たわるフェイゼルに歩み寄る。珍しいことに薬師らしい白衣を羽織り、木でできた薬箱を片手に抱えていた。
「あたしはそんな暇人じゃないわよ。あんたに良い薬を処方してやってくれって、陛下から頼まれたの。じゃなきゃ、こんないけ好かないつっけんどんの所になんか来るもんですか」
「陛下が、貴様を?」
そうよー、と軽い口調で答えつつ、ジャージャービーンは持ってきた薬箱の中から白い包みをひとつ取り出すと、側に置かれてあった茶に混ぜる。
「上手に折れたみたいじゃないのさ、良かったねぇ相手が手練で。破損させずに真っ二つに折るなんて神業よ、ふふふ」
鼻歌交じりにかき混ぜ終わると、薬湯の入った湯飲みをずいと差し出す。
「はい、痛み止め……飲みなさいよね」
だがフェイゼルは湯飲みを差し出す薬師を見向きもせず、ただ正面を見据えたままだ。
ジャージャービーンは薬湯を受け取られるのを待ったが、なかなか動こうとしないフェイゼルに業を煮やす。
「んもうっ、陛下からだって言ってんでしょ、この石頭!」
「貴様の入れた毒など、口にする気はない」
ベッド脇のチェストの上に、ゴンと勢いよく湯のみが置かれた。
「……馬鹿にすんじゃないわよ! あんたは気に食わないけど、あたしは薬師よ。たとえ殺されてもね」
その言葉にフェイゼルの肩が一瞬揺れたのを、薬師は見逃さなかった。
「だから、あんたのその隠し持っているモノで刺しても、何にもならないわよ。……ホント馬鹿な男よ、あんた」
何も言い返さず、ジャージャービーンとも目を合わせることすらしない鉄面皮のフェイゼル。薬師は腰に手を当て、ひとつ溜息をもらす。
「ヴィヴィは、元気?」
突然フェイゼルは隠し持っていたナイフを投げつけた。
「……っつ!!」
刃はジャージャービーンの自慢のもじゃもじゃを掠め、鈍い音とともに後ろの壁に突き刺さった。
「貴様がその名を口にするな!」
フェイゼルは憎しみに頬を引きつらせ、苦々しく口元は歪み、その眼は先程までとは打って変わって、感情の波が溢れたかのように見開き、獲物を射抜く。
「……なんだ、ちゃんと感情出せるんじゃない。だけど、相変わらずそれがあの娘のことに触れられたときだけなのね。成長しないんだ」
「黙れ!」
フェイゼルの叫びは、まるで悲鳴のようだとジャージャービーンは思った。いけ好かないこの男が抱える過去が、いまだ男の心を蝕んでいると知りつつも、自分は知らぬふりをして突き放している。この男を見るたびに、微かな罪悪感と無力感を抱く。
しかしそう思っていることを知れば、このプライドの高い男が更に怒り出すに違いない。
無駄に年をとったと、ジャージャービーンはらしくない感傷に再び溜息を落とす。
フェイゼルの叫びは部屋の外にまで届いたらしく、すぐに医師たちが様子を見にやって来た。
ジャージャービーンはやれやれと呟く。
「んじゃ、あたし行くけど、ちゃんと薬飲みなさいよね。でないと今晩苦しむわよ?」
そう言って取り乱したままのフェイゼルを置いて、医師たちと入れ替わりに出て行った。
フェイゼルは忌々しい薬師に波たてられた感情を抑えようと、大きく息を吐く。だが急に動いたせいで足から全身へと伝わる激痛に、冷や汗を滲ませながら耐えるのが精一杯だった。
医師たちがフェイゼルを気遣ってあれこれと煩いので、大丈夫だとやっとのことでとりなしていると、再び来訪者があると告げられた。
「いったい、なんの騒ぎだ?」
現れたのは、貴族議会議長ユモレスク伯爵だった。
彼はベッドの上のフェイゼルを確認し、医師たちを遠ざけた。
「相当な深手と聞いたが、そのように起き上がっていて大丈夫なのか、フェイゼルよ」
「お恥ずかしいところをお見せして、申し訳ありません」
フェイゼルが頭を下げると、「よい」とだけ返し、連れて来た従者に人払いをさせる。
「おまえにこのような傷を負わせたのは、何者だ?」
ユモレスクは従者の男が用意した椅子にゆっくり腰掛けると、静かな口調で問うた。
「剣聖、シリウスにございます」
「……それは本当か?」
「はい、先日報告にありましたとおり、西の森にはシリウスとその手下となる黒い狼が、騎兵隊の行く手を阻んでおりました」
「顔は、見たのか? 何者だ?」
「いえ、深くフードを被り顔を隠しておりましたので……不覚にございます」
「またしても剣聖とは……」
ユモレスクは眉間のシワをいっそう深く刻みながら、大きく息をつく。
「フェイゼルよ、その者は確かにシリウスなのだな? カペラではなく?」
「カペラ……カペラとは確か、フィンディア出身の?」
今ひとつユモレスクの言わんとしているところが掴めないフェイゼル。
「そうだ。つい今しがた先触れが来たのだ。直にこの城にカペラのデューク・デラ・デューンがやって来る」
フェイゼルはそれを聞いて考え込む。
確かに男は名乗ったわけではない。だがユモレスク伯が疑うのも当然かもしれない。もしあの森で会った男がカペラではなく本物のシリウスであるならば、このイーリアスという小さな国に四人の剣聖が集まったことになる。
たったひとりの小娘にすら手を焼くというのに、今この時期に他の二人がどう出るかで、フェイゼルたちに打つ手が無くなるかもしれないのだ。
「森で狼を従えているのが、シリウスに間違いないと思いますよ、ダンナ方」
おもむろにユモレスクの連れて来た従者が口を挟む。
フェイゼルが従者をじっと見てから息を呑む。
「……貴様、ジンか?」
従者はにやりと下種な笑みで応える。
「よくお分かりで」
「気安くその名を口にするな、フェイゼルよ。これは魔術師に姿変えの魔術を施させてあるのだ。そう易々とばれはせぬが用心にこしたことはない」
「は、閣下」
「それで、そなたは何故そう思うのだ?」
ユモレスクはジンを問いただす。
「シリウスの二つ名は『天狼星』。それと詳しくは知りませんが……三百年前の最後のシリウスは、人狼をその脇に従えていたという伝説があるんだそうですよ」
──人狼。
その話を聞いてフェイゼルは、森で対峙した頬に傷のある、黒く大きな狼あいを思い出す。
魔獣。そう言われれば納得できるほどの禍々しい獣だった。
「その者の言うとおり、黒い大きな狼を従えておりました。さらにはその狼が数百等もの狼の群を統率していたようで……とても人の成せる業とは」
それが人狼だったと言われれば、ようやく納得せざるを得ない。
「じゃあ、シリウスで確定ってことで。隊長はゆっくり休んでてくださいよ、あとは俺がやりますから」
ジンが楽しそうに目を細める。
「フェイゼルでさえ、遅れを取ったのだ。お前にできるのか?」
ユモレスクはジンという男を信用しきれないのか、それは見下したような言い方だった。
「まあ、やってみるしかないでしょう。それに、今が好機だと思いますよ。騎兵隊が撤退を決めたのなら、向こうも安心から油断するでしょうし、これからあの女が一人で見回るなら隙もできる」
「だが、シリウスの存在はどうするのだ?」
「顔隠してレグルスの代わりしてたのなら、表に出られない理由があるとしか考えられない。そもそも、シリウスは公表されてない存在。このさい無視するしかないでしょう?」
ユモレスクはこの男の楽観的な読みに、半信半疑のようだった。視線でフェイゼルに意見を求める。
「一度は障壁に辿り着けたのは確かです」
フェイゼルは苦い表情でかつての部下を見る。
「ではこの件はこの者に任せる、それで良いな?」
ユモレスク伯が決定することに、フェイゼルは否はない。
「障壁まで辿り着けさえすれば、後はなんとでもなる。先日あの小娘魔術次官が捕虜を送ったように、魔法陣となる印を置いておかせる」
「ああ、そうそう報告が遅れましたが、二百ほどですがあちらも準備完了だそうで」
ジンの報告に、フェイゼルが頷く。
新たな剣聖の存在に焦りはするが、着実に準備は整いつつあった。
ユモレスクとジンは去り、フェイゼルは医務室のベッドに横たわる。薄っすらと額に汗がにじみ、神経質そうな細い眉が苦痛に歪む。
右足の傷が鼓動にのせて音をたてて軋む。砕かれた骨の周りの肉が、まるで悲鳴を上げているようだ。「チッ」と舌打ちしても、視界に入るのは変態薬師の置いていった薬湯。
次第に朦朧としてくる意識を何とか支え、フェイゼルは湯のみに手を伸ばす。
「……くそったれが」
一気に飲み干し、ベッドに沈んだ。
日も傾きかけたイーリアス城門に、二人の男が馬を乗りつけていた。
ひとりは金の長い髪を肩までなびかせ、白いマントを羽織る美丈夫な若い男。背に立派な双剣を携えてなければ、女性と見まがう繊細な顔つきが印象的だ。
もうひとりは重厚な鎧をマントの下に覗かせる、黒髪の壮年の男。柔和な表情ではあったが、黒い瞳の奥には強い覚悟がはっきりと見てとれ、それだけでこの男が多くの者の上に立つものであることが察せられる。
壮年の男のほうが門番に近づいて、丁寧に礼をする。
「私はシンシア国の将軍、フォレイ・ラスフォンと申す。本日先触れを出した通り、剣聖カペラのデューク・デラ・デューン殿をお連れ申した。イーリアス国王陛下にお目通り願いたい」
そう告げられると、門番ははた目にも分かるほど固まる。
「は、はい、只今!」
一人がそのまま慌てて城門の中へと駆けてゆく。
金髪の男、デュークが連れの男に声をかける。
「ラスフォン殿、申し訳ないのだが、私が面会を望んでいるのはイーリアス王ではなく、我が同胞のレグルスだ。なるべくなら早急に彼女に会い、話しておかねばならないのだが……」
その申し出に、ラスフォンは言葉を渋る。
「私の口からは申し上げにくいのだが、それは容易には叶わないかもしれませんぞ」
「それはいったいどういう事ですか?」
デュークの視線が鋭くなる。
「あなたの会いたがっているレグルス……ティラータ・レダ殿は、ただ今謹慎中らしいですからな」
ラスフォンはデュークの問い詰めるような眼差しを受け流し、笑う。
さすがに一国の将軍ともなれば、剣聖といえども若いデュークの威嚇などものともしないようだった。
「ティラータ殿にお会いになりたいのでしたら……そうですね、姫にお会いするのが一番の近道と聞いておりますよ、デューク殿」
「姫、というと確かアシャナ王女ですか」
「なぜ、剣聖ともあろう者が同胞である剣聖に会うことを、邪魔されるのか……そう言いたげですね?」
デュークは自身の心中を悟られたことに少々気を悪くしたのだが、あえて無視してその先の言葉を促す。
「彼女は、表に出てこられないのですよ。特に私やあなたのような立場の者がいるような場には、特に」
デュークの神経質そうな眉根がぴくりと揺れる。
「では、あなたはレグルス本人に会ったことは無いのですか、ラスフォン殿?」
「はい、残念ながら」
ラスフォンはにこやかに言う。
信じられないという面持ちのデュークを、門番が城門を開けて城内へと誘う。
門の中では、近衛兵と思しき兵が数人待ちかまえていた。そのなかの一人が前に出て、敬礼をもって二人を歓待する。
「ようこそ、イーリアスへ。カペラの剣聖デューク・デラ・デューン殿、我が国は貴殿を歓迎いたします。私はイーリアス国王の近衛隊隊長アズール・カナンと申します、以後お見知りおきを。そして案内役、ご苦労様ですラスフォン将軍閣下。お二人ともどうぞこちらへ」
カナンに促され、デュークは数々の疑念を胸にイーリアス城へと足を踏み入れたのだった。