先触れと凶聞 1
イーリアス城が騒然とした空気に包まれる。
ここ一週間ほど、騎兵隊の様子がおかしいという噂で持ち切りだった。
そして今日、日の傾きとともに戻った騎兵隊隊員たちの動揺は、尋常ではない。騎兵隊隊長の姿を見た者全ての者が唖然とした。
門番は大慌てで城内の医師を呼びに行き、残りの者は国王へと報告に走る。
アシャナ姫はその頃、祭の準備の為に城の一角に設けられた神殿に来ていた。
女神ファラを祭る祈りの間は、かなり大きな広間となっており、大祭の初めにここで女神に捧げる舞が披露される。
祭神が女神なだけあり、なにかと女性である王女アシャナの出番が多く、今日も祭の打ち合わせをかねて、奉納の剣舞の練習を見ているところだった。
祭の前夜祭に一回、当日に三回舞が奉納される。そのほぼ全てに国王と王妃の両陛下とアシャナ姫が、殿上で見守ることとなる。当然民衆もそれらの剣舞の奉納とともに、王室の貴人をひと目見ようと楽しみにしており、警護についてボルドが頭を悩ませている真っ最中だ。ただでさえ人手が足りないところなのに、それ以外──西の森の監視にもかなりの人員を割かねばならないのだ。限られた人数でバランスを取るのは至難の業だろう。
ティラータは目の前で剣を持って舞う巫女を眺めながら、警護について思いを巡らせていた。
「ねえどうかしら? あれ、ティラータならすぐにも出来るのではなくって?」
同じように眺めていたアシャナ姫が、突拍子も無いことを言い出す。
「……え? 私?」
「あのね、昔は形式としてではなく、本当に剣舞として真剣を使ったそうよ? ティラータならもしかして、見ただけですぐに舞えるのかなって」
アシャナの目が好奇心に輝いて見えるティラータ。
「いや、さすがに無理だろう」
素っ気無い返事に、アシャナは頬を膨らませる。
「本当?」
「あれは型そのものに意味があって、順番もきっちり決まっているんだろう? それに私は今日初めて見たんだし」
アシャナの表情がとたんに残念そうに変わるのを見て、ティラータは微笑む。
祭を目前にしてなにかと慌ただしくなり、以前のようにゆっくりお茶に付き合ったり、服を仕立てさせられたりしている余裕は無くなりつつある。しかしこうしたひと時が、ティラータにとっては何より得がたい安らぎになっていた。
だがそのひと時も、つかの間の泡と消える。
神殿の広間で舞を堪能していた二人のもとに、近衛副隊長であるボルドが近寄ってきた。
「姫、お楽しみのところ申し訳ありませんが、隊長から遣いがありまして」
「何か、あったのね?」
アシャナ姫の顔が引き締まる。
ボルドはティラータにも一瞬視線を向ける。
「西の森の探索に向かっておりました騎兵隊が、たった今全騎帰還いたしました。それと、フェイゼル隊長が重傷を負ったようです」
「なんですって、あのフェイゼル伯が? いったい何があったというのボルド!」
詳しく聞かされた内容にアシャナは驚き、ティラータもまた眉を寄せ言葉を失う。
──狼、西の森。その二つだけで、ティラータの脳裏にはあの男がよぎる。
「ボルド、フェイゼル隊長の怪我はどんな様子だ?」
「右足の脛の骨を、折ったようです。ですが外傷はなく骨だけ断たれているようで、恐らくこれは狼などではなく人の手によるものかと」
「あの……馬鹿者がっ」
突然の怒声に、にアシャナ姫がびっくりした顔をする。
ティラータは思わず出た悪態に「すまない」と詫びるのだが、こうした他人に対する言いようを、アシャナは意外に思っているようだった。
「それで、騎兵隊は撤退するということでいいのかしら?」
「はい、そのようです」
ボルドの返答に、アシャナは口元を弧を描くように吊り上げ、そして二人にしか聞こえないような小さな声で、うふふふと笑う。しかしあくまでも目は笑っていない。
「ア……アーシャ、その笑みはどうかと思うぞ?」
まあ気持ちは分かるが、と付け足す。
「これくらいは許容範囲内よ。では当初の予定通り、こちらからティラータの謹慎を一部解いていただけるよう、お父様に申請しましょうか」
アシャナは側に付き添うティラータを見て、すごく残念だけれどね、と眉を下げた。
アシャナの王女らしからぬ会心の笑みの理由は、三日ほど前に遡る。
西の森へ他の者を踏み入らせることに最も懸念を抱くティラータだったが、謹慎という立場である以上、手も足も出ないというのが現状だった。 騎兵隊がティラータになり代わり、かなりの人員を割いて西の森に入っていると聞き、危機感を抱かないわけが無い。
ただそれを承知の上で謹慎を良しとした、国王の意図をはかりきれずにいた。
だが騎兵隊の様子がどうもおかしい。それでティラータとアシャナは陛下を問い詰めるという、最終手段を取ったわけだが──。
「お父様、どういうことですの? 今あの場所を不埒者どもが入り込めば、再び障壁が危機に晒されることくらい、分かりきった事ではありませんか。お願いです、今すぐ西の森に関してのみ、ティラータの謹慎を弛めてください」
アシャナはティラータを引きつれ、父王の執務室に乗り込んでいた。
父王ミヒャエルは書類から目を上げ、アシャナを通り越して後ろに控えるカナンに手を上げる。
するとカナンは扉に行き、側に控える老執事に人払いをさせ、その扉を背に守るようにして立つ。
「アシャナ、そなたの言い分も分からぬでもないが、そもそもティラータの謹慎を申し出たのは自分であることを、忘れてはなるまいよ」
「しかしお父様!」
次にミヒャエル王はティラータへと視線を向ける。
「おまえも同じ意見か、ティラータ?」
問われてティラータは言いよどむ。障壁が気になるのは確かだが、今回の件に関して王に何か考えがあってのことだと感じていたのだ。
「陛下は、なにか策がございますのでしょう。でしたら私から異を唱えることはございません」
「ティラータ?」
そのティラータの言葉に驚きつつも、アシャナは父王を更に問い詰める。
「お父様、それは本当なのですか?」
「策というほどの大層なものは何もない」
「……どういうことですの?」
「私は言い渡したはずだぞ、アシャナ? もし騎兵隊の手に余るような危険があれば、その時は致し方ない、引かせると」
ミヒャエル王はアシャナに微笑む。
「……ならばお父様、その時には必ず、ティラータを西の森の守り人の任に戻してくださいませ。約束ですわよ?」
「分かっておる、二言は無い」
それでようやくアシャナは渋々ながらも引き下がったのだった。
それから三日。
ミヒャエル王の言葉通り、騎兵隊は手痛い負けを喫した。
たかだか狼相手に。
再びアシャナはティラータを引き連れて、王の執務室を訪れる。
「約束です、お父様」
にんまりと笑う王女アシャナに、父王であるミヒャエルも苦笑いだ。
「分かった……ローランド、あれを」
脇に控えていた老侍従が、用意してあった書類を差し出すと、それにミヒャエル王がサインをしてアシャナへと渡す。
「……ありがとうございます、お父様」
アシャナはティラータを振り返り頷いて見せた。
「陛下、ひとつお聞きしてよろしいでしょうか?」
ティラータが一歩踏み出る。
「申してみよ」
「陛下はシリウスと面識がおありなのですか?」
ティラータは真剣な面持ちだった。
「無いといえば無い、しかし有るといえば有る……だが接触は可能であろう。手はいくつか考えられぬこともない」
「ベクシーですか」
ティラータが使いを頼まれたあの書状だろう、と当りをつけ同時に納得する。
「ティラータが謹慎を受けるのは想定外ではあったが、それもまた補うに足る働きを見せてくれたと、思うておる」
「少々やりすぎの印象は否めませんが……」
ティラータの苦い表情に、ミヒャエルは低く笑う。
「たしかにな」
「あの者は容易く対価として命を狩ろうとする。少々危険であると感じております」
「いったい何者なのでしょうね、シリウスとは……」
アシャナが肩をすくめる。
「確かにフェイゼルは我が国の誇る騎兵隊隊長。此度のことは痛手ではあるが剣聖の成した事である。無闇やたらと捕まえて処罰する訳にもいかぬ。その身元も知れぬというのにだ。……という訳でティラータ、おまえに守り人の任に戻ってもらう故、今後も心して励むがよい」
「御意」
ティラータは一礼する。
──やはり陛下はあの男が何者か、知っているのだろう。だからこそあえてその存在を伏せているのか。
アシャナとティラータは王女の自室に戻るかたわら、城内の慌ただしさに目を向ける。怪我人は多くはなかったようだが、フェイゼルの負傷は議会や貴族たちに与えた衝撃は少なくなかったようだ。
城の侍従たちが慌ただしく行き来するのは、貴族同士の腹の探りあいか、はたまたご機嫌伺いか……。
アシャナ姫の自室に戻り、ティラータはボルドと今後の相談をしていた。すると城内の慌ただしさがここにも溢れ出したような勢いで、女官長マイヤが数人の女官を引き連れてやってきた。
「どうかされましたか、マイヤ殿?」
ボルドの問いかけに、こちらをチラリと一瞥しつつ声高に述べる。
「フィンディアの王子であらせられます、デューク・デラ・デューン様がもうすぐお着きになられると、先触れが参りました。王女であらせられるアシャナ様が出迎えにお出ましになられるのは当然の事。これから支度を致します」
ティラータとボルドは顔を見合わせる。
──デュークが到着する? 少しばかり早くはないだろうか、このタイミングとは……
「では私は外しますので、あなたは姫の警護をお願いします」
ティラータが頷くと、ボルドは確認のため慌てて出て行った。