黒真珠の姫 1
『麗しのイーリアス』『ローラシアの秘宝』
大陸最東端の小国イーリアスがそう謳われて、かれこれ三百年が過ぎようとしていた。
かつてのこの国を称える言葉は、いつまでも民にとっては喩えようもないほどに、心地良いものだった。
イーリアス城下町へ戻る馬上から、ティラータは街を見下ろす。
街の中央にそびえる王城を市街地が囲み、さらにその外側を、数年前にはほとんど見られなかった貧民街が囲んでいる。
馬をゆっくり歩かせるそのわきで、まだ日も高いというのに、貧民街の男たちはようやく雨を防げるかどうかという小屋の前で、座り込んだまま動かない。ボロ切れのような衣を着て、目は虚ろ。
──いつからだろうか。
ティラータは何度呟いたか知れないその言葉を、今日も心に刻み込む。
元々このイーリアス国の人々は、競い合うことを好まず、温厚な性格をした者が多い。生活も日々事足りれば良し、とする風潮であったのは事実だ。だが決して怠けることをせず、純朴で働き者も多かった。なのにこの城下を覆う閉塞感はいったい何なのだろうと、ティラータは違和感を覚えずにはいられないのだった。
これは決してティラータのみが感じている事ではないのだ。
国王陛下や大臣たち、政を司る者達の一部にも言い知れぬ危機感を抱いている者が、少なからずいた。何とかせねばならない、そう施政者が言い出してから既に多くの時を刻んできたが、一向に改善してゆく気配はない。それどころか、衰退は進むばかり。
そんな憂慮の多い日々を経て、今年は四年に一度の、女神ファラへ捧げる豊穣祭が行われる年にあたる。
国を挙げてのファラの祭りを、何としてでも成功させ、この国に活気を取り戻す。それが今この国の、最優先事項となっていた。
祭りまであと一カ月。
広い大陸の中でも、イーリアスのファラの大祭は有名であり、諸外国からも大勢の人々が訪れる。閉ざされた楽園の、王都がにぎわう唯一の祭りなのだから、期待はおのずと高まるというものだ。
イーリアスという国は、南と東を海に遮られ、西南は樹海とそこから北にのびる魔法障壁に囲まれているという、かなり特殊な環境下にある国家だ。唯一国境を接するのは、北の大国シンシアのみ。このイーリアスに入国するにはシンシア国を介するほかなく、それ以外となると港となるような海岸がほとんど無い断崖の海からか、生死をかけて樹海を越える覚悟が必要だ。
そして何よりイーリアスを象徴しているのは、ローラシア大陸東端にあるイーリアスを護るように横たわる『魔法障壁』だ。それ自体が西側の国境線となり、人のみならず動物から植物まであらゆる生き物の行き来を遮断している。
──神の与えた奇跡。
そう呼ばれる『魔法障壁』は、虹色に輝き、キラキラと美しくゆらめく。だがその美しさに惑わされ少しでも触れようものなら、その身は一瞬にしてすえた臭いのする黒い塊と化す、ひどく厄介な代物だ。まさに「壁」である。
この魔法障壁を越えることは不可能なのだが、唯一国境を接する、北の隣国シンシアとの間にだけは、障壁は及ばず途切れている。よって閉ざされたイーリアスへの入り口は、ここシンシアとの国境線上にしか存在しない。だがそれとても、イーリアスとシンシアの国境には、深い西の森から伸びる樹海と大河が横たわっているのだ。そのため河に架かる橋のみが、イーリアスへの入口となる。
ゆえにイーリアスが『閉ざされた楽園』と言われる。
そんな陸の孤島のごとき暮らしに慣れたせいか、国民は外の国と交流することを忘れ、自然と排他的になっていった。。
かつては優美な文化と優れた魔法技術が尊ばれ、唯一の入り口を使い、訪れる者が後を絶えなかった。攻め込まれぬ優位をもって、様々な国と友好を結んだ。
だがそれも、今は昔のことだ。
貧困街を抜け市街にさしかかると、ティラータは更にフードを深く引き下げ、馬を降りる。
城下街が賑わいを見せるのは、大祭が近いためだ。そこかしこに市が立ち、通りに面した商店は、軒先まで商品を陳列して客引きをしていた。
中心地にそびえる城が近づくほど人通りも多くなり、馬が暴れぬように手綱を短く持ち、ティラータは城を目指す。
先ほどの貧民街での見たような虚ろな目をした者は、ここにはもう見つけられない。それどころか、元気な子供達が賑わいの中を、楽しそうに駆けてゆく。
ふとティラータの横をすり抜けた子供達の一人が、石畳に足を取られ転んだ。咄嗟に手に触れた、ティラータのマントに掴まりながら──。
次の瞬間、ティラータの鮮やかな金髪が露になる。
「うわぁーん!」
見事な転びっぷりに自分でも驚いたのか、少女は少し溜めた後に、大粒の涙をこぼす。
ティラータ哀れに思い、膝をつき少女を助け起こした。
「大丈夫か?」
膝と尻の土を払い、泣き止みそうもない幼子をどうしたものかと覗き込む。だがティラータと目が合うとピタリと泣き止み、今度は少女が見つめ返してきた。大きなブラウンの瞳を、零れるかと思うほど見開いて。
少女の口が微かに動き、きれい、と小さく言ったのが聞こえたかと思うと、少女の後ろから優しく包む手が伸びていた。
「大丈夫? 怪我はない?」
慌てて駆け寄ってきた娘の母親のようだ。そのまま女は、ママとすがり付く少女を抱き上げた。
母親は娘の無事を確認すると、安堵したのか顔をほころばせながらティラータへと頭を下げる。
「どうもすみません、娘が……」
礼を口にしながら頭を上げた瞬間、母親の顔から色が失せていく。
身体が強張っていく母親の様子を、ティラータはあえて見ないよう視線を逸らす。
だがすぐさま母親は、娘を抱える腕に力を入れ、慌てて後ずさる。まるでティラータから引き離すかのように。
「ママ、どうしたの?」
抱きかかえられた娘の方はは状況を理解できず、母の顔を不思議そうに見上げた。母親はそんな我が子を抱えたまま、ひたすら拒絶するかのごとく首を横に振る。
「あなた娘に何かしたのね! この蛮族!」
母親のヒステリックな叫びに、行き交う人々が足を止め、ティラータに視線を送る。
立ち上がったティラータが振り返ると、賑やかだった通りに音が消え、ザワリと緊張した空気が辺りを包む。ある者は青い顔でティラータから目線を外し、ある者はあからさまに眉を寄せては、ティラータに向かって毒づく。そしてある者は蔑むように薄ら笑っていた。
再びティラータは深くフードを被り直し、母親に応えるまでもなく、そのまま愛馬を引いて歩き出す。
それを見て、まるで蜘蛛の子を散らすように行く手を空ける人々。
目深に被ったフードの下で、ティラータが苦笑いしたのを、気付く者はいなかった。
「蛮族が…なんで城下にいるのを許されてるんだ?」
少し離れたところから聞こえてきたが、いつもの事だと胸の内で呟く。
こんな言葉で傷つくのも、心を動かされることも、もう無い。面と向かって言われる事がないだけマシなのだろう。
いちいち相手をしてもキリがないのだと言わんばかりに、ティラータは固く表情を閉ざすのだった。