思い出と守りたいもの 5
懐かしい夢を、見ていた。
思い出すほど切なさに胸は軋み、それでいてほんのりと温かく何かが灯るような。
物心ついた頃には、私はイーリアス城にいた。
遠い霞がかった記憶の向こうに、微かに覚えていることがある。
森の中でたった一人で面倒をみていてくれた母が死に、途方に暮れていた。幾つも夜が来て、朝を迎え、あっという間に飢えと渇きがやってきた。
母様と同じように、死ぬのかな。そんな風に思いながら、樹にもたれかかって死を待つだけだった私。
だけどある日、細くて温かい腕が、優しく抱き上げてくれた。
あれは、誰の腕だったのだろうか……。
次に気付いたら、小さな黒い髪の幼子が私を覗き込んでいた。
それから衣食住を保障された私は、すぐに元気を取り戻した。
まだ何も分からず、自分がどんな存在なのかも知らされず、ただ毎日黒髪の少女と遊んだ。
少女の名はアーシャ。
黒髪の少女のことはアーシャと呼ぶようにと、少女自身からも「おじさま」と呼ばれた男の人からも、そう言われた。
名を聞かれ「ティラータ」と短く言えば、少女は嬉しそうに呼び返してくれ、「おじさま」は涙を流しながら、大きなその手で頭をなでてくれた。
思い違いではないかと今では思うのだが、私はそのように記憶していた。
その「おじさま」が、アレス公だった。
それから自分の歳を教えられた。
城へ来たのが5才だったそうだ。
森で母に隠すように育てられた私は、何も知らず、しゃべる事すら事欠くほどに無知で幼なかった。
それが余りにも哀れだったのか、私は大人たちの計らいで、アーシャとともに教師について勉強させられた。
もちろん、共に教わるという立場などではなく、アーシャの勉強の傍らに控えることを許される、という形ではあったが。
だが、私にはそれで充分だった。
乾いた砂に水が染み込むように知識が入ってゆき、一年もしないうちに言葉すら知らない獣だった私が、アーシャに追いついていた。
それを知った「おじさま」が、すぐさま私をベクシーの元へ連れて行った。
またしても私を見たベクシーが、泣いていた。
私の向こうに、違う誰かを見ていたのだということを後から知って、ひどく憤りを覚えたのだが、その時は訳も分からずただ呆然としていた。
それから時々だが、一人だったりアーシャと二人だったり、ベクシーの元に連れて行ってもらい様々な事を学んだ。
幼い頃、女官たちが私の世話をしてくれていた。
言葉も話せない幼子だったから、害のある者と認識されていなかったというのもあるが、珍しい獣を飼いならすといった認識だったのだろう。
可愛らしい服を着せられ、目を引く金髪も伸ばされてよく手入れされた。
だが、それもある時を境にぱたりと止む。
ある日他国の賓客がやって来たのだ。
ともに遊ぶアーシャと私。二人の姿を見たその者は、あろうことか私とアーシャを取り違えた。
それはその訪問者のみならず、私にとっても決してあってはならない事だった。
そして私の髪は短く切り落とされ、身体には王国の所有印が刻まれることになった──。
ああ、そのすぐ後だったな、ボルドにも出会ったのは。
そうして7歳になった頃、私の置かれた状況が一変した。
「ティラータ、どうしてアーシャっていつものように呼んでくれないの?!」
剣術場に向かう私に、彼女が立ち塞がる。
「そこをお通し下さい、アシャナ姫」
7歳になった私は、国に仕える兵になるために、剣術場で他の少年たちと共に訓練に出ることになった。
それまでに様々な教育に恵まれ、自分の立場も理解できるようになっていた。だからこそ、知らされた己の出自に、愕然とした。ただでさえ蛮族と忌み嫌われる種族なのに、私がいるだけでもたらす不協和音は、アーシャにとって邪魔にしかならないじゃないか。
実際、この身をもって現実を突きつけられていた。
「ティラータ! どうしてなのか、ちゃんと言って!」
幼いとはいえ、アシャナにもきちんと王族としての教育が施されているのだ。本人に分からない筈がないのに、何故そんな事を今更聞くのかと、ティラータは苛立つ。
「……身分が違います」
俯いていたと、思う。
「同じよ!」
「違います!」
唇を噛みしめ、それこそ身分にあるまじき勢いで、アーシャの言葉を乱暴に否定した。
「同じなんかじゃない……私は違う、違います。私は蛮族の子」
搾り出すように言ってアーシャを見上げると、悲しそうな顔をしていたが、それでも続けた。
「それに、自分の身を守るため、です」
ピクリとアーシャの小さい身体が揺れた。
「このままでいたら、私は排除される。会えなくなる……いずれ殺される」
子供だった。
とても残酷な言い方しかできなかった。
アーシャの綺麗なすみれ色の瞳が、涙で潤う。
私は子供心に思う。本当はこの少女を泣かせたくない。
だけど、側にいればきっと泣かせる。
私が死んだら、きっと泣いてくれるから……
アーシャだって本当はこのままじゃどうにもならないって分かっている。だからこそ、呼び名だけでも繋ぎとめておきたいのだろう。
しかしそれすらも、幼く何の力もない私には命取りだった。
アーシャの側に居ることを許されていたとはいえ、自分は護衛の対象ではない。
むしろ、邪魔な存在だ。
攫われたこと、襲われたこと、結果殺されかけたことすらあった。
あらゆる立場の者から憎悪と嫌悪を向けられた。
国王を崇拝するがゆえに、汚らわしい蛮族が姫とあるのを許さぬ者。
反国王側からすれば、あの者の血を引く私など拒絶の対象だ。
姫を貶める忌まわしき者として、女官たちの中ではある意味地位は不動のものであったし。
とにかく、快く思わない者にとっては、私は目障りでしかなかった。
それでもアレス公や陛下の口添えと、愚かで何も出来ない子供というその立場だけで、何とか命は取られずにいたのだ。
だが……抜きん出た学習能力、得た知識、ベクシーにまで可愛がられたことで、本当に身の危険を感じるようになったのだ。
それが僅か7歳になろうとしていた頃のこと。
「私はまだ死にたくない。強くなって、大人になって、必ず守るから」
アーシャの涙を見て、誓った。
これは夢だと分かっている。
涙が溢れているから……。
ずっとずっと、昔の思い出。
たった二年だけど、本当に幸せな思い出。
花畑で遊ぶアーシャの隣は私だけのもので、幼いアーシャはよく花冠を作って載せてくれた。
私も不器用ながら必死に編んで、その艶やかな黒髪に栄える淡い色の髪飾りを贈った。
彼女が微笑むのが、何より嬉しかった。
幼くて愚かな私は、それがいつまでも続くかと思っていた。
7歳の私は、アーシャに別れを告げた。
何の力もない私に出来ることは、そんな事しかなかったから。