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炮封の黄金獅子(レグルス)  作者: 小津 カヲル
第一章 忍び寄る影
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罠 4

 ティラータは愛馬ブランシスを駆って西の森に入っていた。

 いつも通り森の泉に向かい、馬を残して魔法障壁の見回りに、歩いて森を分け入るつもりだ。

 泉までの道のりは比較的平坦で、木々もまだかろうじて馬で入れる程にまばらだ。だが泉を境に奥に行けば行くほど鬱そうとしている。とてもではないが、馬の足では入れない。

 馬を泉のほとりにつなぎ水を飲ませながら、泉の清らかな輝きにティラータは心奪われる。

 森への探索の準備の手を止め、しばし誘惑に負けることにした。昨日からの騒動で水浴びすらできなかった為、汗を流したい衝動にかられたのだった。


「少しくらい、いいかな……本当はあまり時間がないけど」


 独り言で言い訳しつつ、ティラータは服を脱ぎはじめる。冷たい湧き水に腰まで浸かると、水をすくって顔や身体を洗い清めた。

 ──気持ちいい。

 左腕の傷が水に浸らないよう気を使いつつ、簡単に水浴びを終えて戻ろうとする。

 すると、脇の茂みから、覚えのある気配ともうひとつ、黒い影が飛び出してきた。

 咄嗟のことだったため、腰まで泉に浸かったままのティラータ。

 すると、目の前に現れたのは巨大な黒い狼。じっとティラータを見つめたまま、泉から顔を出す岩に立ち塞がる。狼もまたティラータに驚いているのだろうか、琥珀色の綺麗な瞳で彼女を見つめたまま、動こうとしない。

 そしてもうひとつの気配がすぐ側まで迫ってきたことに気付き、ティラータはひどく慌てた。


「ま、まて……来るなっ」


 狼が出てきたのと同じ茂みから顔を出した男と、目が合う。

 突然現れた一人と一匹を、唖然としたまま交互に見比べるティラータ。


「……シリウス?」


 狼は金色の瞳を細め、ティラータを眺めたまま、岩に腰を下ろしている。

 ティラータが呆然としていると、突然シリウスが泉に入り、ジャバジャバと水音を立てて近づいてくる。 ティラータは困惑して後ずさろうとするが、シリウスの動きは速かった。


「何だ、これは……」


 シリウスが鋭く冷たい目で見下ろし、左腕を掴み上げる。


「な、何?」


 掴んだ腕を凝視するシリウスに、ティラータは包帯が巻かれた傷のことを指しているのだと悟り、昨夜の失態を思い起こして彼から視線を外す。


「こ、これはかすり傷で……お前には関係ない」

「違う」


 ──え? とシリウスの言わんとしていることが分からずティラータが目線を戻すと、シリウスは相変わらず厳しい視線でティラータを見返していた。

 ティラータは、びくりと鼓動が跳ねる。

 シリウスが腕から視線を外し、ティラータの一糸纏わぬ胸の中心を凝視し、拘束していないもう片方の手をそこに伸ばす。

 白く透き通るような、幼い肌。

 緩やかな曲線を描く二つの丘陵の中ほどに、紅い剣を象った装飾文様が鮮やかに浮かびあがっていたのだ。

 ──イーリアスの紋──

 剣と魔法に護られし、この国を司る紋章。それは王家とこの国の所有となるものに刻まれるもの。

 痛々しいまでにはっきりと刻印された文様にシリウスの指が触れると、ビクリと身体を震わせ、自由の利く右手でその手を振り払う。


「っ、触れるな!」


 振り払うその両手の肘から手首にかけても、血のような赤い文様で埋めつくされていた。


「ただの刺青ではないな……魔術の、痕跡か」


 シリウスの目には、それ以上の言葉が含まれているような気がして、ティラータは顔を背ける。

 ──失態だ。ティラータは己の間抜けさに悪態をついた。

 これの存在を、今の瞬間までティラータは忘れていた。見られるつもりはなかったのに、と唇を噛む。

 いや、他の誰に見られても、この男には見せるべきではなかったとティラータは後悔していた。シリウスのグレイの瞳には、何もかも見透かされている気がして、冷や水を浴びせられたかのように背筋が冷えた。


「お前には関係ない……見るな」


 びくともしない左手をそのままに右手で胸を覆うが、片手では紋章とともに、二つの可愛らしい膨らみもまた隠しきれることはなかった。


「……すまん」


 シリウスは己のマントを外すと、泉に浸かったままのティラータに、ふわりと掛ける。

 意外な行動に驚いてシリウスを見ると、既に彼の整った顔には、先程の鋭さはすでに無くなっていた。

 訳もわからず拍子抜けしているティラータの腕をそっと放し、自分は脇に避けることで、ティラータの視界に再び黒い狼を入れる。


「紹介する。あれは俺の半身だ。名はヴラドという……人狼だ」


 ヴラドと呼ばれた狼が、立ち上がる。


「人狼……?」


 黒い艶のある毛並みは、木漏れ日を浴びて輝き、金の瞳を引き立たせる。

 すっと伸びた前足は太く力強く、どんな獲物もあの爪につかまれば無傷ではいられないだろうと思わせるものだ。

 森の王者を思わせるその只ならぬ風格に、ティラータは見惚れていた。

 ヴラドは引き寄せられるように泉に近づくと、水に足をつける手前で止まり、ティラータの様子を伺う。

 ティラータもまた大きな獣に近づくと、そっと両手を差し出した。

 狼は金の眼を細め、耳を後に傾けて、ティラータに頭を寄せる。

 ティラータの指が柔らかい毛に埋もれ、そのまま屈んで頬を寄せると、日なたの臭いがしたのだった。


「私はティラータだ、よろしくヴラド?」


 懐かしいような、それでいて心躍るような、くすぐったい感情が胸に湧き上がるのを不思議に思いつつ、ティラータは心地よい毛並みを撫でる。


「泉を使わせてやってくれ、血の汚れを落としたい」


 すっかり存在を忘れていたシリウスの言葉にハッとしてよく見れば、ヴラドの前足は血糊でべっとりだった。

 それで立ち止まっていたのか賢いものだと感心し、ティラータは微笑む。


「かまわない、好きに使え」


 言い終わらぬうちに喜び勇んで泉に入ってゆく狼と入れ替わりに、ティラータは泉から出た。




 ティラータが身体を拭き、茂みで服を着込むあいだに、シリウスは濡れたマントを木の枝に干していた。

 ちょうどそこにずぶ濡れの狼がやってきて、大きく身体を震わせる。


「こらっ、やめろ! 濡れる」


 シリウスが文句を言っても、ヴラドはかまわずもうひと振り。


「わざとか! 遊ぶのなら他でやれ」


 ハッハッハッと舌を出し、前足を伸ばして尻尾を上げ、まるで犬のように主であるシリウスを遊びに誘っている。

 大きな狼は、汚れを落として上機嫌なのだろう。


「く……はははっ」


 たまらず笑い声をたてれば、シリウスは少しばかりバツが悪そうにティラータを見る。


「ヴラド、お前ちょっと向こうに行ってろ」


 今度は素直に従い、ヴラドは畔の岩の上に寝そべり、日向ぼっこを決め込むつもりのようだ。

 ティラータが笑いながらその様子を眺めていると、シリウスに座るよう促された。


「腕を出せよ、巻き直してやる」

 

 そう言われてティラータは己の左腕を見ると、包帯がほどけてしまっていた。最初に出会ったときのような緊張感はもうティラータにはなく、素直に腕を差し出していた。

 シリウスは黙ってティラータの包帯を一度全て外し、現れた傷口を見て、少しだけ顔をしかめた。


「矢傷か……深いな、縫うか」


 独り言のように呟くと、腰袋から何かを取り出す。


「かすり傷だと言っただろう、かまうな」


 ティラータがそう言うと、彼は眉間を寄せる。


「すぐ済む。じっとしていろ」


 ティラータが引き戻そうとした腕は、またしてもびくともしない。

 困惑するティラータを無視し、シリウスは片手で液体の入った小瓶の蓋を口で引き抜くと、その中の液体を傷の上から盛大にぶちまけた。


「……っあ」


 傷にしみたというより、度の強い酒のような臭いが立ち込め、獣のような鋭い嗅覚をもつティラータは、その刺激に顔をしかめた。

 眉を寄せるティラータを他所に、なにやら針と糸のような道具にも小瓶の液をかける。

 ティラータは嫌な予感にたじろぐ。


「ま、まさか本当に『縫う』のか? 傷口を!」


 シリウスはいつものようにニヤリと笑う。


「すぐ済む、我慢しろ」


 そう言うと、有無を言わさず、摘んだ傷口に針を当てた。




「痛い」


 すっかり元通りどころか、ずっと丁寧に巻かれた包帯を押さえ、ティラータが呟く。

 それを道具を片付けながら、くっくと笑うシリウス。


「三日ほどしたら傷が塞がるだろう、その頃に抜糸する……初めてだったか?」

「……」


 ティラータの無言を、シリウスは肯定ととらえた。


「……見たことなかったか?」


 言葉もなく少し俯き考え込むティラータを、シリウスは黙って見ていた。


「誰もが、その恩恵にあずかれるのか?」

「ほとんどの医師は、技術を持っているだろうな」


 イーリアスでの裂傷の治療では、主に幹部を圧迫することで塞ぐ。まれに固定のために器具を使うことはあるが、縫うことはしない。だが傷が塞がらず、開いては出血を繰り返したり、傷口から毒が入り死に至ることもある。もしこのように細かく傷を縫い合わせるのならば、より確実に傷を塞ぐことができるのだろう。ティラータは感心しつつも、知識の遅れに恥じ入る。


「……そうか」


 こんなにもこの国は遅れているのかと、ティラータは溜息をつく。

 濡れたブーツを脱ぎ水を切るシリウスを、遠い眼で眺めながら不思議に思う。


「……何も、聞かないのだな」


 身体に刻まれた紋章のことも、ティラータ自身のことも……。

 呟くようなティラータの言葉に、シリウスはブーツ片手に振り返った。その向こうではヴラドも薄目を開けてこちらを伺っていた。


「聞いて欲しいのか?」


 ティラータは愚かな事を口にしてしまったと後悔しつつ、首を横に振る。


「いや、忘れてくれ」


 ティラータは気を取り直すように立ち上がり、腰に剣を挿す。


「思いのほか、時間を無駄にしてしまった。私は見回りに行くが……」

「もしかして、魔法障壁の見回りか?」

「そうだが?」


 それを聞いてシリウスが可笑しそうに笑うと、岩の上で寝そべっていた狼が、主の傍らに飛び降りる。


「先程面白いモノを見つけたんだが、来るか? 案内してやる」


 まるで自分の庭でも案内するかのような堂々とした物言いに、ティラータは驚きを通り越して、ティラータは呆れる。

 緊張感に欠ける男と狼を見ていてふと、ティラータは今さらながら気付く。

 狼の付けていた血糊──。あれは一体、何の血だ。

 ティラータは自分の迂闊さに、舌打ちする。


「一体何があったのか、詳しく話せ!」


 厳しい眼を向け、シリウスを睨みつけたのだった。


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