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第1話「燃える海岸」

「ぐちゃっ、ぐちゃっ、ぐちゃっ――シチューの出汁にゃ最高なんですよ。」

男はそう言って笑みを浮かべながら、木製のすりこぎでゼラチン質の塊を潰し続けていた。


「娘が隣の部屋で脚を引きちぎって、茹でる準備をしてましてね。ここらじゃ蟹に一番近い食いもんですよ、殿下。捕まえるのも簡単、危険もない。《ジェイロックフィン》はまさしく神の恵みでさぁ。」


男が鍋の蓋を少し持ち上げると、緑がかった濃い湯気が立ちのぼった。


「沿岸部にゃデカい化け物がうろついてるし、時々ゃ海ゴブリンの群れが家畜を食い荒らしに来る。そんな中で、この小せぇ連中が《スペトヴァルディ》様からの贈り物じゃねぇ理由がありやすかって話で。」


煮え立つ鍋の中で骨ががちゃがちゃと音を立て始める。料理人はなおも喋り続けた。


「まぁ、“母なる大地”の人間からすりゃ、こんなゼラチン質の蜘蛛みてぇな化け物を食うなんざ妙に思えるでしょうなぁ。ですが、この列島――特に《プリン》じゃ、豊富にあるもんを使い切るってぇ長ぇ伝統がありやしてね。……残念ながら、ルカ王子、あんたの国ほど豊かじゃねぇんですよ。」


男はくつくつと笑った。


ルカは戸口に立ったまま、魔物の肉を食べるという概念に未だ困惑し、呆然として動けずにいた。


――どの町でも。毎回だ。

同じ料理。

同じ言い訳


ルカは背を向け、小さな漁村スティッキー・ロックの蒸し暑い外気の中へと歩み出た。

沼の臭気と、煮えた肉の匂いが服にまとわりついて離れない。


「まるで何でもないことのように喰らうのか……」


彼は誰にも聞こえぬほど小さく呟いた。


「穢れた、魂なき生物を……。《スペトヴァルディ》の完璧なる設計から明らかに外れた存在を。……それを“祝福”などと呼ぶとは。」


その声音に苛立ちが滲む。


「我々が《プリン》内陸部への遠征を開始してから六か月。そして、私がこの地域の総督となってから一年――」


彼は湿った空気を肺いっぱいに吸い込み、吐き出した。


「六か月もの間、父上も《ソリダ》も、この遠征に一切の支援を寄越さない。補給もなければ代替案もない。これほど急を要する案件だというのに――」


そこで彼の声音が、ほんの一瞬だけ崩れた。


「創造主の御名において、一体なぜ――こんな辺境の塩水飲みどもの食生活を調査する程度の些事のために、政府や軍の資源を使うことすら許されぬのだ……?」


「えっと……大丈夫ですか、あなた?」


その声に、ルカの身体がぴたりと止まった。


数歩後ろに立つアンバーが、若き王子がわずかに思考の渦へ飲まれていく様子を見つめていた。


「……ああ。」


ルカは息を吐きながら答える。


「ただ……ジェイロックフィンのシチューの話には、少々うんざりしているだけだ。」


アンバーは肩を軽くすくめた。


「私は結構好きですけどね。スペトヴァルディ様の祝福があるなら、私も何匹か捕まえてみようかな。母国でも《カライグ・モール》でも見たことありませんでしたよ。骨が浮いた緑色のスープで、しかも家狼くらいの大きさだなんて。ほんと奇妙。」


「……それは確かに。」


ルカは静かに応じた。


「そもそも父上が、《スペトヴァルディ教会》からの圧力を受けて、《パエーゼ・ドーロ》国内での大半の魔物肉の食用を禁じたからな。」


アンバーはわざとらしく姿勢を正し、仰々しい口調を作った。


「それでぇ? どうしてなんですかぁ、ルー・ル――失礼、“プリン統治公にして継承順位第七位”、ルカ・オーロ・ヴィンチトーレ卿?」


「アンバー。」


ルカはこめかみを押さえ、半ば呆れたように遮った。


「分かったから、少しは勘弁してくれ。」


ため息が漏れる。


「……“穢れている”からだ。それが司教たちの理屈だよ。魂を持たぬ獣を、《クラルディア人》――いや、我ら帝国の支配下にあるいかなる国家の民も口にすべきではない、と。」


彼は家の方をちらりと振り返った。


「だが、この列島でより問題なのは別だ。《忌まわしき者の腕》――あの狂信集団が、高い人口密度を背景に、“魔物肉の摂取”を教義の一部に組み込んでいる。」


彼の声は低くなる。


「“喰らうことは、加わること。加わることは、変わること。”――信徒たちはそう口にするらしい。」


アンバーは小さく首を傾げた。


「ここじゃ、かなり人気なんですよね。」


ルカは眉をひそめる。


「どこにでも像がありますし。」

彼女は続けた。

「小さな彫刻とか。腕がいっぱい生えた、異星人みたいなやつ。家の中にも、玄関脇にも……《スペトヴァルディ》の聖印を掲げてる家の隣にだって普通に置いてあります。」


彼女は少し言葉を切った。


「最初は変に思えるかもしれません。でも、この群島の歴史と……うちの一族がどうやって列島全域の支配権を握ったかを知れば、どうして皆がそういう“カルトじみた慣習”に強く傾倒するのか、納得できますよ。」


ルカは外に立ったまま、再びあの家を振り返った。


鍋からはまだ蒸気が立ち上っている。

中では誰かの笑い声が響いた。


「……いや。」


彼は静かに言った。


「だからこそ問題なんだ。」


「ルー・ルー……じゃなかった、ルカ・ヴィンチトーレ統治公――」


「急げ。」


アンバーは舌打ちし、湿った板張りの通路を歩く速度を上げた。


「そんな大問題には思えませんけどね。」

彼女は言う。

「ここは《パエーゼ・ドーロ》から海を二つ隔てた土地。《ソリダ》からだって何百マイルも離れてる。ここの人たちの半分は、生まれからして《ヴィルトゥース人》ですらないんですよ?」


彼女は板の隙間を突き破って伸びた木の根を跨いだ。


「言葉を覚えて、あんたらの旗を振って、お父上に税を納めて……中には、お兄さんの海域で漁をするためだけに金払ってる人までいる。」


アンバーは肩をすくめた。


「だったら、《スペトヴァルディ》が与えた獣を食べたっていいじゃないですか。」


「もういい、アンバー。」


だが彼女は止まらない。


「そもそも、何に魂があるかなんて誰に分かるんです?」


ルカはすぐに口を挟んだ。


「子供の頃、《フィルトニア母上》がいつも私たちに何と尋ねていた?」


アンバーは鋭く息を吐く。


「“クラルディア人は何のために生きる?”」


「その答えは?」


「“己を照らすため。そうして世界を明るくするため。”」


アンバーはにやりと笑った。


「その後で百回腕立てさせられましたけど。」


ルカは吹き出した。


「ああ、残念ながらな。」


アンバーは胸を張る。


「“残念ながら”?」


彼女は鼻で笑った。


「私はあれが一番好きでしたけどねぇ。毎回ルー・ルーを子豚みたいにへばらせられたから。」


アンバーは腹の底から笑い声を上げた。


二人はしばらく無言のまま歩き続けた。


湿地帯だけが、低く唸るような音を響かせていた。


「どうやって――」


ルカは続けた。声音には苛立ちが滲み始めている。


「不浄に溺れながら、“己を照らす”ことができる? 個の魂の明晰さを求めるべき人間が、“集団”を崇拝するカルトに誘惑されながら?」


アンバーは横目で彼を見る。


「でも、あの《神ゾルナク》――」


ルカは即座に言い直した。


「……“多腕の獣”とやらは、狂信者どもの病だ。

“人はそのままで良い”などと教える。

“欠陥は受け入れられるべきだ”と。」


彼の顎が固く結ばれる。


「そんな思想は停滞を生む。混沌を。反乱を。」


彼は足を止めた。


「そして、《群島》の平和と繁栄にとって、それ以上に厄介なのは――」


彼の視線が遠くの海へ流れる。


「忌々しい古代海洋ドルイドどもだ。」


「ルー・ルー。」


「……何だ。」


今度のアンバーは、もう冗談めかしてはいなかった。


「シーゴブリンが馬を盗んでます。」


《サー・ジュリアス》が埠頭の下――浜辺の砂地を指差した。


ルカは瞬きをする。


「……何だって!?」


その瞬間、木々の向こうから湿った甲高い悲鳴が響いた。


遠くで木材が砕け散る音。

馬の悲鳴。高く、怯え切った鳴き声。


アンバーは即座に剣を抜き放つ。


ほとんど反射のような動きで、もう一本を投槍のように投げ放った。


刃は一直線に飛び――シーゴブリンの巨大な黒い魚眼へ深々と突き刺さる。


「相変わらず見事だな、若きフォックスグローブ。」


《サー・ジュリアス》が感嘆混じりに拍手した。


「ええ、これでゴブリンどもは高級クラルディア鋼の剣を一本手に入れましたけどね、アンバーストーン。」


ルカは感心半分、不満半分で言う。


アンバーは肩をすくめるだけだった。


ルカは深く息を吸う。


そして王族ではなく、“指揮官”として表情を整えると、先頭に立って駆け出した。


再び悲鳴。


今度はもっと近い。


何かが浅瀬を走り抜ける。


速い。


――速すぎる。


ルカは静かに片手を上げた。


大きくではない。


ほんの僅か。


熱が集まる。


集中。


未だ完全には習得できていない術式へ、意識を絞る。


「《ペンティメント》――」


だが彼は途中で言葉を止めた。


ほんの一瞬。


躊躇いが揺らいだ。


だが、ゴブリンたちは待たなかった。


既に馬へ跨り始めている。


もはや即座に動くしかない。


ルカ王子は一切の躊躇なく叫んだ。


「《ヴェローチェ・コメ・イル・フオーコ》!」


瞬間、炎が爆ぜるようにルカの身体を包み込んだ。


赤熱した火炎が雲のように収束し、彼を完全に engulf する。


そして彼は、そのまま空中へ跳躍した。


ほんの一拍。


その姿が消える。


――ボフッ。


制御された炎の閃光と共に、ルカはシーゴブリンたちの背後へ再出現した。


爆発はない。


混乱もない。


あるのは、精密さだけ。


鋼が一閃する。


彼の馬に跨っていたゴブリンは、悲鳴を上げる暇すらなかった。


首が綺麗に切断され、胴体は湿った音を立てながら浅瀬へ崩れ落ちる。


他の個体が振り返った時には、もう遅い。


ルカはまるで“修正”そのもののように群れの中を駆け抜けた。


一太刀ごとに無駄がない。


一動作ごとに意図がある。


――数秒。


それだけだった。


静寂が湿地へ戻る。


残されたのは、怯えた馬たちの荒い鼻息だけ。


ルカは剣を下ろした。


黄色い血液と臓物が刃先から垂れ、砂地へ滴っていく。


そして彼は即座に指揮官としての顔へ戻った。


「ジュリアス。ランドル。」


二人の歴戦の騎士が即座に姿勢を正す。


「片付けを頼む。死体は焼却しろ。残骸を残すな。……内臓の一つたりとも海へ落とさないように。」


彼の視線が一瞬だけ海面へ向く。


「地元民に、“夕食への招待”だと勘違いされる前にな。」


「承知いたしました、閣下。」


《サー・ランドル》は理解を示すように頷いた。


ルカは続ける。


「アンバー。」


彼女は回収したばかりの剣の血を既に拭い終えていた。


「分かってますよ、ルカ。」


「周辺を偵察しろ。あれが単なる狩猟隊だったのか、それとももっと大きな群れの一部なのか確認したい。」


アンバーは一度だけ頷くと、それ以上何も言わず湿った茂みの中へ消えていった。


「クレア。」


半ノームの衛生兵が前へ進み出る。


「動物たちの手当てを頼む。特に爪傷を優先しろ。シーゴブリンの毒には麻痺性がある――分かっているな。」


「もちろんです、ルカ様。すぐに診ます。」


ルカは彼女たちの横を通り抜け、海岸線へ向かって歩いた。


湿地は徐々に開け、水面へ変わっていく。


暗い。


静かだ。


――まるで、見ているような。


「これより結界を展開する。」


彼は再び手を掲げた。


今度はゆっくりと。


より慎重に。


「海岸沿いに単純な火炎境界術式を敷く。」


声が低く沈む。


「騒ぎに惹かれて、さらに大きな何かが現れた場合に備えてな。」


一拍。


「……彷徨う砂のゴーレムか。あるいは、小型のワーム程度なら。」


背後で、《サー・ジュリアス》が姿勢を正し、胸へ拳を当てた。


「御心のままに、我らが王子。」


ルカは振り返らない。


ただ、水面だけが――ほんの僅かに揺れた。


ルカは目を細める。


「……これで足りればいいが。」


しばらくすると、《ランドル》の“宵影”がその顔に差し始めていた。


「もう三時間ですよ、ルー・ルー。」


アンバーは砂浜へどさりと倒れ込み、唸り声を漏らしながら仰向けになる。


「結界、もう十分じゃないですか?」


だがルカは、水面から視線を逸らさなかった。


「焦りはしばしば悲劇を招く。結界が五十フィートに達するまでは待機だ。」


アンバーはさらに大袈裟に呻いた。


ルカは淡々と続ける。


「以前、ダークが話してくれたことがある。

二体の“蒼翼のワーム”が、彼の船を襲ったそうだ。」


「……ふぅん?」


アンバーはゆっくり顔だけを向けた。


「シーゴブリンの襲撃があってから十二時間後。騒ぎに引き寄せられたらしい。」


ルカは芝居がかった調子で身を乗り出す。


「そこで兄上はドワーフ製の拳銃を抜き――

“バン! バン!”

四つあった眼を全部撃ち抜いた。」


アンバーは吹き出しながら彼を見つめた。


「……ダークが?」


彼女は間を置く。


「本当に“あの”ダークがそんなことしたんですか?」


身を起こし、疑いの眼差しを向ける。


「《黄金海のクラーケン》が?

あいつ、庭蛇一匹まともに狙えませんよ。ましてワームなんて。」


ルカは小さく笑みを浮かべた。


「兄上も一応は王子だ。

我々は皆、“帝国最高の戦士”として育てられている。」


アンバーは呆れたように目を回す。


だがルカは気にせず続けた。


「それに、昔の兄上は勇敢だった。覚えているだろう?

母国から東方領へ向かう航海へ、よく私たちを連れて行ってくれた。」


アンバーは鼻を鳴らす。


「私は知らないですねぇ。

だってその頃は、盗んだお菓子を船酔いで全部吐いてるのに忙しかったんで。」


ルカはその光景を思い出し、目を閉じて笑った。


「実に驚異的なんだ。」

彼は言う。

「あの小さなポケットに、どうしてあれほど菓子を詰め込めるのか。左胸の内ポケットには、赤いリコリスが綺麗に並べられていて、その周囲をチョコナッツが囲んでいる――いつも寸分違わずな。」


――ザバァンッ!!


一行の会話が止まる。


――ザバァンッ!!


今度は、より近く。


――ザバァンッ!!

――ザバァンッ!!


水面が激しく泡立ち始めた。


アンバーがゆっくり立ち上がる。


「……ルー・ルー。」


次の瞬間――


水面が弾け飛んだ。


――グォォォォォオオオオオオオオッ!!


耳を裂くような怪物の咆哮。


巨大な影が一つ浮かび上がる。


続いて二つ。


三つ。


――四体。


巨大な黒鱗のワームたちが海を引き裂きながら姿を現した。


長大な身体がうねり、黒い鱗には塩水と泥がぬらぬらと光る。


その口が開く。


並ぶのは鋸のような牙。


喰い散らかされた肉片と難破船の残骸が歯の間に絡みつき、滴り落ちながらもなお飢えていた。


近くの町から悲鳴が上がる。


人々が逃げ惑う。


子供たちが泣き叫ぶ。


船が混乱の中で転覆した。


アンバーは考えるより先に剣を抜き放つ。


「ルー・ルー!! 何とかして!!」


ルカは一歩前へ出た。


躊躇はない。


迷いもない。


彼の手が掲げられる。


今度は、より高く。


空気が張り詰めた。


炎が集束していく。


散らばらない。


暴れもしない。


ただ――集中している。


彼の視線は海岸線へ固定されていた。


精密に。


計算されたままに。


「……《ペンティメント》!」


海岸の地面が赤く発光し始める。


ほんの一瞬だけ。


術式は、確かに成立していた。


炎の壁が海岸線に沿って轟音と共に走った。


熱と光によって形成された、完璧な境界。


ワームたちは何度もそこへ激突する。


巨大な頭蓋が結界へ叩きつけられるたび、凄まじい衝撃音が響いた。


炎は歪む。


揺らぐ。


――だが、破れない。


怪物たちは後退し、苛立つような唸り声を漏らした。


黒鱗の身体が、燃え盛る境界線のすぐ向こう側でのたうつ。


「閣下!! 本当に成功なされたのですか!!」


混乱の中、《ジュリアス》の声が響く。


驚愕のあまり、彼の訛りが敬語を突き破っていた。


だがルカはすぐには答えない。


掲げた腕はそのまま。


微動だにせず。


「……そのようだ。」


静かな返答。


しかし彼の視線は、一度たりとも海面から離れなかった。


「だが、四体相手に維持できる保証はない。」


その声音は先程より低い。


張り詰めている。


「……奴らは、こんな行動を取らない。」


――ドォンッ!!


再び一体のワームが結界へ激突した。


炎が大きく波打つ。


それでも持ち堪える。


「これほど内陸まで群れで現れること自体が異常だ。」


ルカは続けた。


「体躯が大きすぎる。効率が悪い。

本来なら単独で狩りを行う生物だ。」


アンバーが剣を構えたまま近づく。


「なら、どうして四体も?」


ルカの顎が強張った。


「……別の何かが、奴らを引き寄せているはずだ。」


彼の視線が、わずかにワームたちの向こう側へ移る。


さらに沖。


より深い水域へ。


「シーゴブリン五匹の死骸程度では足りない。」


一拍。


「……でない限り。」


彼は言葉を切った。


アンバーが眉をひそめる。


「“でない限り”?」


ルカの声が沈む。


「……奴ら自身が、“誘因”ではなかったとしたら。」


ワームたちのさらに向こう。


その海面が揺れた。


激しくではない。


大きくでもない。


――だが、“違う”。


最初に異変へ気付いたのは、ワームたちだった。


四体すべてが、ぴたりと動きを止める。


そしてゆっくりと、炎の壁から顔を逸らした。


逃げるのではない。


見ているのだ。


同じ方向を。


より深く。


より遠く。


ルカの表情が変わる。


戦闘開始以来、初めて。


そこに浮かんだのは――不確かさだった。


「……我々は、この事態の中心ではない。」


ルカは静かに言った。


「この結界なら、三体までは確実に抑え込める。」


海岸線に沿って燃え盛る炎が脈動する。


精密に。


制御され。


一切揺るがず。


「だが、四体となると――」


ルカの目が細められる。


「……厳しい。」


アンバーが瞬きをした。


「……で、どうするつもりですか、ルー・ル――」


彼女は途中で咳払いし、姿勢を正す。


「ルカ・ヴィンチトーレ統治公?」


ルカは彼女を見ない。


視線はワームたちへ向けられたまま。


あの旋回。


あの動き。


そして、“より深い海”を見つめ続けている様子へ。


やがて彼は一歩前へ出た。


炎の結界へ向かって。


「一体を“飼い慣らす”。」


穏やかな声だった。


沈黙。


アンバーは彼を見つめる。


「……は?」


ルカはようやく、ほんの少しだけ振り返った。


そこには、あの静かな自信があった。


絶対的な確信。


何かより大きな存在の影。


「四体では問題になる。」


彼は言う。


「だが三体なら――対処可能だ。」


アンバーは再び瞬きをした。


「……それが作戦?」


ルカは再び炎へ向き直る。


「違う。」


彼の掌に淡い光が集まり始める。


「それが“解答”だ。」


「アンバー。」


ルカは振り返らない。


「合図で、最も遠いワームの眼の少し上を射抜け。」


アンバーは距離を測るように目を細めた。


「……岸から七十フィート近くありますよ。

しかも高さ三十フィート級。ここからじゃ矢は刺さらない。」


「刺さる。」


ルカは静かに答える。


「少し“補助”を加えればな。」


アンバーの目が険しくなる。


「……ルー、お前まさか何を――」


「三。」


「ルカ!!」


「二。」


「後で絶対ぶん殴りますからね!!」


「一。撃て。」


「……っ、もう!!」


――シュッ!!


矢が空を裂いた。


高く弧を描きながら、わずかに狙いを外れて飛ぶ。


そして――ほんの一瞬。


何も起こらなかった。


その瞬間。


「《ディジューノ・ディ・フオーコ》。」


熱が一点へと崩れ落ちる。


そしてルカの姿が消えた。


海岸線から三十フィート上空。


炎が爆ぜる。


ルカは空中へ再出現した。


完璧な位置取り。


突き出された手。


彼は飛来する矢を掴み取る。


炎がその身体を包み込む。


荒れ狂うことなく。


暴走することもなく。


――形作られている。


導かれている。


ほんの一瞬。


あり得ないほど短いその刹那だけ。


彼は、もはや人ではない何かに見えた。


燃え盛る輪郭。


急降下する不死鳥。


「――今だ。」


ルカは急降下した。


ワームが振り向く。


遅い。


――ドスッ!!


矢が左眼へ深々と突き刺さる。


怪物が絶叫した。


耳を裂くような、凶暴な悲鳴。


巨大な身体がのけ反り、結界へ叩きつけられる。


炎が激しく歪んだ。


アンバーは目を見開いたまま呟く。


「……この命知らず。」


ルカは浅瀬へ激しく着地した。


長靴の周囲から蒸気が立ち昇る。


負傷したワームはのたうち回っていた。


片眼を潰され。


方向感覚を失い。


――隙を晒している。


ルカは再び手を掲げる。


今度は低く。


より近く。


「さて。」


彼は静かに言った。


「ここからだ。」


風が荒々しく吹き抜ける。


足元ではワームが暴れ続けていた。


「クレア。」


半ノームの衛生兵が振り返る。


「矢を抜く。」


クレアは彼を凝視した。


「……眼から?」


「そうだ。」


沈黙。


「……“自分でやった”と、奴に認識させる必要がある。」


クレアはゆっくり瞬きをした。


「だから――」


ルカは相変わらず落ち着き払った声で続ける。


「正面からやるしかない。」


クレアは彼の腕を掴む力を強めた。


「……食べられますよ。」


「その可能性はある。」


クレアは鋭く息を吐いた。


「まったく安心できません。」


ルカはわずかに前へ踏み出した。


足場を調整する。


足元ではワームが暴れ続けている。


「矢を抜く瞬間、君は瞼の上にいてくれ。」


彼は言った。


「すぐに治癒術を発動。損傷を抑え込む。」


クレアは既に手順を組み立て始めている。


「……分かりました。」


「状態が安定したら――」


ルカは続ける。


「私が焼灼する。傷口を塞ぐ。」


その直後。


ワームが再び咆哮した。


巨体が激しく揺れる。


海岸側からアンバーの怒声が飛んだ。


「こっちにはまだ三体残ってるって分かってますよねぇ!?」


だがルカは振り返りもしない。


「結界で三体は抑えられる!」


アンバーは絶句した。


「……ほんっと嫌いです、そういうとこ。」


ルカは完全に無視した。


そして怪物の顔へ向かって歩き出す。


ゆっくりと。


慎重に。


潰された眼が痙攣する。


無傷のもう片方が、ぴたりとルカを捉えた。


巨大な瞳。


意識。


警戒。


完全に“見ている”。


クレアは動く。


瞼の上へ位置取る。


既に彼女の両手は淡く発光を始めていた。


「……よし。」


呼吸を整えながら彼女が言う。


「準備できました。」


ルカは手を伸ばす。


矢へ。


あと数インチという距離で、その手が静止した。


ワームの顎がわずかに開いた。


熱い吐息。


並ぶ牙。


一瞬の静止。


「……いい子だ。」


ルカは静かに呟いた。


そして――


「今だ。」


ルカは躊躇しなかった。


矢を引き抜く。


ほんの一瞬。


抵抗。


次の瞬間――


――ブチィッ。


矢が抜けた。


それと同時に。


ワームの眼球そのものが、丸ごと引き裂かれる。


湿った重い肉塊が、眼窩からずるりと零れ落ちた。


クレアが息を呑む。


だがルカは動じない。


彼はそれを掴み、そのまま海へ投げ捨てた。


――ザバァンッ!!


ワームが咆哮する。


空気そのものを震わせるような絶叫。


それは単なる痛みではない。


もっと根源的なもの。


剥き出しの、暴力的な“解放”。


「クレア、今だ!!」


「《オプラヴィト・ノヴェー・ラーニー》!」


柔らかな光が彼女の掌から溢れた。


安定した輝き。


それが潰れた眼窩へ押し込まれていく。


出血が鈍る。


やがて止まる。


裂けた肉が内側へ引き寄せられ始めた。


痙攣し。


再形成し。


辛うじて形を保っていく。


その瞬間。


ワームの顎が跳ね上がった。


本能。


飢餓。


苦痛。


巨大な牙が、あと少しでルカを噛み砕く距離まで迫る。


――だが、彼は動かない。


「《フィアンマ》。」


小さな炎。


だが極めて精密。


外へ爆ぜるのではなく――内側へ。


焼き塞ぐ。


閉じる


瞼が鋭い音と共に焼き閉じた。


――ジュゥゥッ。


煙が立ち上る。


熱が傷口を完全に焼灼していく。


静寂。


ワームは動かなかった。


巨大な身体が、ゆっくりと二人の足元へ沈み込む。


呼吸は荒い。


だが、もう暴れてはいない。


抵抗もしない。


クレアは震えるように息を吐いた。


「……正気じゃありません。」


ルカはワームの頭部へ手を置いたままだった。


感触を確かめるように。


測るように。


「……違う。」


彼は静かに言う。


その時、怪物の身体がわずかに動いた。


抵抗ではない。


――認識。


「……ただ、“澄んでいる”だけだ。」


ルカは浅瀬に立っていた。


片手は依然として、ワームの巨大な頭へ添えられている。


呼吸は落ち着いていた。


今では穏やかだ。


「……君の名前は、《ペッシェ・グロッソ》にしよう。」


アンバーが瞬きをする。


「ルカ、それ飼うつもりですか?

デカすぎますって。」


彼女は少し考えてから付け加えた。


「……あー、でも海車でも引かせれば便利かもですね。」


そして乾いた声で続ける。


「水竜のペット獲得、おめでとうございます、あなた様。」


彼女は背後を親指で示した。


「ちなみに残りの私たちは、まだその“兄弟姉妹”と戦う準備してるんですけど。」


「実際には――」


クレアがまだ息を整えながら口を挟む。


「血縁関係である可能性は低いですよ。ワームは通常、一匹ずつ生まれるので。」


アンバーは彼女を見つめた。


「……言いたかったのはそこじゃないんですよ、ダーリン。でもありがとうございます。」


そして即座にルカへ向き直る。


「ルカ。何とかしてください。」


だがルカはすぐには動かなかった。


彼はただ怪物へ触れていた。


その重みを。


静けさを。


「……さて、相棒。」


彼は小さく言った。


「もう行かないといけない。」


わずかな沈黙。


「……大丈夫だ、《ペッシェ・グロッソ》。」


ワームが低く唸る。


敵意ではない。


苦痛でもない。


もっと――穏やかな何か。


そして巨大な頭が、そっとルカを押した。


優しく。


それから身を翻し、静かに水の中へ消えていった。


「見てください!!」


アンバーが叫ぶ。


結界の向こう側。


残る三体のワームたちが身じろぎした。


そして――


一体ずつ。


ゆっくりと向きを変える。


そのまま海面下へ沈み、姿を消した。


「……去っていく。」


ランドルが呟く。


海岸へ静寂が落ちた。


アンバーはゆっくり振り返る。


「ルカ……何したんです?」


ルカはわずかに肩をすくめた。


「《ペッシェ・グロッソ》が群れの長だった。」


アンバーが目を細める。


「……ルー・ルー。

なんでそんなこと分かったんです?」


一拍。


「……大きかったから。」


アンバーは彼を凝視した。


「……本気で言ってます?」


クレアが小さく笑う。


まだ少し息を切らしながら。


「さすが私たちの王子ですね。」


ジュリアスが笑みを浮かべた。


「《黄金海のクラーケン》ほど鋭く、《レオポルド》ほど頑丈だ。」


――それは最高級の賛辞だった。


彼はその二人に仕えていたのだから。


ルカは自分の身体を見下ろした。


「……アンバー。」


彼女は眉を上げる。


「……私、臭うか?」


アンバーは彼をじろりと眺めた。


「全身ドラゴンの眼球汁まみれですよ、あなた。」


「……そうか。」


ランドルがクレアの背を軽く叩いた。


「よくやった。」


その瞬間、ルカが前へ出る。


声が空気を真っ直ぐ切り裂いた。


「全員、水から上がれ。」


今度は誰も迷わない。


全員が即座に動いた。


「《バジリスク便》でダークに知らせた方がいいかもしれませんね。」


アンバーが言う。


「私も賛成です。」


クレアが続けた。


「五匹程度のシーゴブリンを狙うために、これほど大規模な海竜の群れが現れるなんて……明らかに異常です。」


「それに、ワームは普通、《スティッキー・ロック》みたいな小規模漁村の沿岸には近づきません。」


クレアは続けた。


「干潮時に浅瀬へ取り残される危険がありますから。体が大きすぎて泳げなくなるんです。」


「どれももっともな意見だ。」


ルカは頷く。


「だが、それで答えに近づけるわけではない。」


彼は再び海へ視線を向けた。


「我々の大半は、《プリン》へ来てまだ半年も経っていない。

ここは母国とはまるで異なる海域だ。」


そして静かに続ける。


「“魔物肉食文化の調査”は一旦保留とする。」


その声音が決断の色を帯びた。


「今後は、この襲撃事件への対処を優先する。」


「あーあ、ルー・ルー。」


アンバーが笑う。


「せっかくジェイロックフィン・シチュー極め始めてたのに。」


「御心のままに、我らが王子。」


ジュリアスとランドルが声を揃えた。


ルカは長く息を吐く。


ようやく肩から力が抜けていった。


「……さて。」


彼は言う。


「ひとまず地元の宿へ向かおう。

スイカ酒と揚げイグアナが欲しい。」


――夜明け。


《スティッキー・ロック》の海岸を、一人の影が歩いていた。


《海洋ドルイド》の装束。


潮は既に引いている。


湿った砂浜が鈍く光っていた。


「潮流は、必要なものを運んできてくれる。」


男は膝をつく。


まず拾い上げたのは矢。


続いて――ワームの眼球。


「視界は知覚を生み。

知覚は支配へ至る。」


彼はわずかに目を細め、それを観察した。


「……良いぞ、若き王子。」


その声には、かすかな愉悦が混じっていた。


「これで本当に、《プリン》へ歓迎されたな。」


一拍。


「……だが、試練はまだ始まったばかりだ。」


苔むした男は独り言のように囁く。


「《ピウ・ヴェローチェ・デル・フオーコ》。」


次の瞬間。


その姿は掻き消えた。


――クラルディア魔術。


しかも、王家系統の術式。










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