③
「はぁ……はぁ……」
三日前。
ミオと町長の孫が怪我をした翌日の夜の記憶。
大人たちが揉めているのが悲しくて家を飛び出した。
泣きながら走った。
波の音が聞こえる。
カモメの声は聞こえない。
よく遊んでいる港の近くの公園でようやく立ち止まり、その場に蹲った。
町長の孫と揉み合いになったのはそもそも、自分よりも幼い彼に対して、要らない意地を張ったせいだ。
男の子と同じように取っ組み合いでケリを付けようとして、わざと煽るような態度を取ってしまったのも自分。
ミオはこの問題に関して、自分に非があることをちゃんと理解していたし、喧嘩が終わった後はお互いに非を認め合って謝りあっていた。
でも大人たちは、それだけでは許せなかったらしい。
ミオは膝や腕に、少し傷が残るかもしれないと言われた。
本人はそんなこと気にも留めていなかったが、親は『女の子の身体に傷を残した』として、町長の孫を責めた。
全部自分が悪い。
なのに叱られることに臆病なせいで、ミオは自分が悪かったと、素直に大人たちに説明出来なかった。
後悔で頭がいっぱいになっている間に、誰かが背後まで近づいてきていることに全く気がつかなかった。
肩口に走る突然の痛み。
そちらの方を振り向こうとするが、急に頭がくらくらしてきて、そのまま前のめりに倒れこんだことを覚えている。
そこからどのくらい時間が経ったのかは分からない。
ただ、肩を揺すられて目が覚めた。
「ミオちゃん!怪我してるのかい!」
手についた血を見ながら、両親と言い合っていたはずのフリーデル町長がそう言った。
その顔にこちらを責めるような様子はなく、純粋な気持ちで居なくなったミオを捜しに来てくれたのだと分かる。
「っあ……」
「痛むんだね?ごめんね。こんなことになったのは、おじさんのせいだ……」
町長に、あたしの方こそごめんなさい、と言いたかった。
ただ息を吸う度に感じる、林檎の爽やかな甘い香りに、強く意識を引っ張られる。
理性が飛び、
気がついた時には町長が首から血を流していて、ミオの口周りは赤い液体でベトベトになっていた。
「えっ?」
自分でも何が起きたか理解できなかった。
町長が胸を大きく上下させながら、ぜーぜーと音を立てて呼吸している。
とても苦しそうだ。
お医者さんを呼ばないと。
でもそしたら、あたしはどうなるの……?
今でも思う。
最低な行動だった。
自分がどれだけ酷いことをしているのか自覚がある。
それでも恐怖に耐えきれず、自分の犯した罪から逃げ出した。
町長を公園に放置したまま、血だらけになってしまった口を、港に設置されている水道で濯ぐ。
自分が通報しなくても、誰かが倒れている町長に気づいて助けてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を捨てられないまま、少女は自分を捜していた家族の元に帰った。
町長が見つかるまでの少ない日々、ミオは最初こそ普通を装っていたが、時間が経つにつれて不安が増してきた。
食欲が無くなったり、肩を怪我したことで、家族がとても心配してくれたが、かえってミオの罪悪感は刺激されるばかりだ。
自分が置き去りにしたにも関わらず、町長のことが本気で心配になってきた。
ミオは彼を捜しに公園に行った。
しかし、当然のように町長の姿は無く、そこに居た痕跡すら見当たらなかった。
そして昨日、町長の遺体が近くの漁船内で発見された。
噂を聞きつけたミオは真っ先に町長の家に行き、ミイラのように干からびた、あの遺体を目にした。
何故あんな姿になってしまったのか、漁船で見つかった理由も、何も分からない。
そして、家族からも町長の血と同じ匂いをうっすらと感じるようになってきた。
次は、両親を殺してしまうかもしれない。
そうなる前に、何とかして離れなければ。
町長の葬儀の為にゾーネンに訪れたジルヴァ教の司祭。
その襟元に、逮捕権や捜査権を持つ者の証である『銀の目』のピンが付いているのに気がついた。
この人に相談すれば、両親を捕まえてくれる。
その間に家出したら、何とかなるかもしれない。
この期に及んでも、自分が捕まるのは怖かった。
化け物になったことがはっきりしてしまうのも怖かったし、それが理由で殺されてしまうかもしれない。
ミオは罪悪感でいっぱいになりながらも、美しきバルー・ディートバルト司祭に、町長と両親が揉めていたことを告発したのだった。
「……バルーお兄さん、大人として色々と言わなきゃいけないことがあるな」
バルーが頬を膨らませて怒っている。
しかし、怒り慣れていないのか、全く様になっていない。
ミオはナーデルの髪によって、未だに床に縛り付けられたままだ。
身動きは一切取れそうにない。
「町長のお孫さんとケンカした件に関しては、きっと他の人たちからもたくさん怒られたと思うから、お兄さんからは何も言わないけど、フリーデルさんにしてしまったことからは、逃げるべきじゃなかったね」
胸が軋むように痛い。
あの時、自分が何をしたのかもよく分かっていなかったけど、取り返しのつかないことをしてしまった自覚はある。
「叱られるのが怖い気持ちは、お兄さんもすごくよく分かる。今のミオさんならちゃんと分かるよね?」
ミオが軽く頭を下げる。
青年は少しだけ表情を軟化させた。
「きっとミオさんにしか分からない怖さもあったと思う。これからは困ったことがあったり、悪いことをしちゃったなっていう時は、周りの人を信じて話していこうね」
「でも、もう取り返しつかないよ……」
バルーはこれに対し、少しだけ険しい表情を浮かべ、沈黙する。
それに対し、ナーデルが偉そうに鼻を鳴らした。
「フリーデルを見殺しにしたのよ?擁護の必要なんてないわ」
「ナーデル。そんなに冷たいことを言わないで」
何故かバルーの方がミオよりも辛そうな顔をしているように見えて、申し訳なさからか更に胸が苦しくなる。
「実際にそうでしょう?この子が医者を呼んでいれば、死ななかったかもしれないんだから」
「……お人形さんの言う通りだよ。神父様」
ミオは自分が悪いことをした事実と、今度こそ向き合わなくてはならないと思った。
認めるのは恐ろしかったが、もう逃げてはいけない。
「あたし、死刑になるの……?」
「あら?どうして?」
「フリーデル町長を殺しちゃったし、……お父さんとお母さんが……殺したってことにしようとしたから……!」
床に縛り付けられたまま、声を上げて泣き始める少女に、人形が困惑した表情を向ける。
「うるさいわね……。これだから子どもは嫌いなのよ」
ミオは泣きながらも、『ナーデルも子どもじゃないか』と悪態をつきたくなったが、外見と違って実際はそうじゃないかもしれないと思い至り、抑えた。
「お父さんとお母さんを殺さない為の手段として、告発して家出することしか思いつかなかったんだよね?」
ミオは泣きながら、それを肯定した。
「誰かを守りたいって気持ちは、バルーお兄さんも痛いほどわかるよ」
ドキリとするくらい真剣な声で、共感してくれる。
もしかすると、この人も過去に何かあったのかもしれない。
「あのねえ。水分を無駄にしているところ悪いのだけれど、町長を殺したのはおまえではないわよ」
ナーデルの言葉により、沈黙。
「え!?」
ミオの涙が引っ込む。
「まあ長く説明しても理解には及ばないでしょうから、簡単に説明するわね」
ナーデルは不躾にも、縛り付けたミオの鳩尾に座り込みながらため息をついた。
「おまえの肩についた傷は、『吸血種』という人型の怪物に噛まれて出来たものよ」
「きゅーけつ……しゅ?」
「そう。あれらは自分の身体の中にある病原体を、普通のミオみたいな人間に植え付けて、何でも言うことを聞く子分にしてしまうの。親分も子分も『人間の血』を食事としていることが特に問題ね」
ミオはその吸血種とやらに噛まれ、知らない間に子分にされていたらしい。
だから無意識に町長に噛み付いてしまったり、バルーを襲おうとしてしまったのか。
「あたし、吸血種の食事として食べられたってことだよね?」
「恐らくそうね。気を失ったのは血が少なくなったからじゃないかしら」
「じゃあ、なんであたしは食い殺されないで、子分にされたんだろう」
ナーデルとバルーが同時に首を傾げる。
「途中までは食料として見てたけど、気が変わって後天性……、いや、子分にしたんじゃないのかな?」
バルーの発言に対し、ナーデルが静かに頷いた。
「わたしもそう思うわ。噛みついた時には暗くて誰だか分からなかったけれど、途中で知り合いだと気がついた。このまま血を吸いすぎると殺してしまうから、生かす為に子分にした……とかもあり得るわね」
ミオはナーデルの仮説を聞いて、彼らと同じように首を傾げようとしたが、未だに床に縫い付けられていて無理だった。
「それって、あたしに噛みついた吸血種が、あたしのことを知ってるってことになるよね?」
少女人形は御名答とでも言うように人差し指を立てる。
「吸血種は親分も子分も、定期的に血を飲まないとお腹が空いて暴れてしまうの。おまえの血を飲んだだけでは足りなかったのかもね」
「そんな!」
「だからその後公園に戻って来て、おまえに襲われて倒れていたフリーデルの血を飲んで、飢えを凌いだのかもしれないわ」
「よっ!ナーデル天才!」
人形に推理力で負けていそうな司祭を見て、ミオは少し呆れた。
頭がぐらぐらする。
「……うぅ……っ」
「あらっ!ごめんね!」
辺りに充満する林檎の匂いで意識が飛びそうになる。
バルーはその様子を見てか、急にトランクを漁りだした。
中から赤い液体が入った袋をひとつ取り出す。
「これをどうぞ。しばらくは人間の血の匂いを感じにくくなると思う」
ナーデルは少女を無理矢理起こし、上半身だけ自由が利くようにしてくれた。
バルーから渡されたのは血液バッグだった。
中身が飲みやすいようにキャップが付けられている。
ミオは迷いなくそれを外し、喉へと流し込んだ。
嫌悪感は無かった。
「ふぅ」
本当に飢餓感と渇きが癒えていく。
しかし、何故こんな物をジルヴァ教の司祭が所持しているのだろうか。
「二人は……一体何者なの?」
バルーはトランクを閉めながら微笑んだ。
「それはヒミツ」




