⑤
「だ、だめだ…………。中に入らないで……」
バルーは汗だくの額に手を当てながら、何とか子どもたちを部屋の外に出そうとする。
「だめ!この人がエルマに何かしたんだ!絶対出ていかないから!」
勝ち気に大人を睨みつけながら、アデリナがそう叫ぶ。
バルーはその声でひどく頭が痛んだが、彼女の怒りが自分に向いてしまうのも今は仕方ないと受容していた。
「……それなら、分かった。でもエルマさんに何が起きているのか、バルーお兄さんもよく分かっていないから、状況を調べさせてくれないかな?」
「嘘だ!何かするつもりなんでしょ!」
「そうだそうだ!」
子どもたちは亡くなったエルマを守ろうと、バルーにしがみついて動きを止めようとしている。
しかし彼は、ダンピールになって以降身体能力が強化されている為、何の効果もない。
「だったら、そこでバルーお兄さんのことを監視しててくれてもいいよ。……エルマさんに何が起きたのか、みんなも知りたいでしょう?」
「それは、そうだけど……」
「ロミー!」
子どもたちが戸惑いながらも離れる。
怒っている子も、泣いている子もいるが、それが当たり前の反応だろう。
バルーはエルマの遺体の前に膝をついて座り、両手を、右手が上になるように胸に当てて、女神ジルヴァラインの元へ行けるようにと祈った。
これがジルヴァ教の祈りの作法だ。
数秒の祈りの後、バルーは慣れた手つきで、いつも持ち歩いているトランクを開けた。
今はまだ出番ではないと思っているのか、敢えて動かないようにしているナーデルの頬をひと撫でしてから、内ポケットの中にある白い手袋を取って装着する。
再度トランクを閉めて振り返り、エルマの元へと向かう。
彼女はうつ伏せに倒れている。
だが、不思議なことに前から手で絞められたような痕が首に残っており、それはバルーの手よりも小さいが、子どものものよりは大きいサイズの痕だった。
前から首を絞められたのなら、後ろ側に倒れるのが自然な形だろうから、何か重要な意味があるのかもしれない。
また、遺体の口元を見ると、縦横無尽に赤い線が引かれており、口元に銀色の液体が付いているのが見て取れた。
駆け巡る赤い線からは、葡萄の匂いがする。
「まさか」
バルーは手袋越しに銀色の液体に触れる。
燃えるような痛み。
「エルマさんは水銀を飲まされた……?」
水銀は人間が飲んでも毒性があるものだが、首を絞めて殺すなら、わざわざ手間を掛けてまで飲ませる必要のないものだ。
つまりこのような殺され方をしたエルマは、『吸血種』か『後天性吸血種』のどちらかである可能性が高いということ。
顔の上を駆け巡っている赤い線は、遺体からこの部屋の扉の前まで真っ直ぐ繋がっている。
この形跡は、吸血種が血呪いと自分の血を融合させることで起きる現象――、身体の一部に血を纏った状態で、床や遺体に触れたことで発生したものだろう。
バルーは、当初この施設にはリーベン――、吸血種が一人だけいて、血呪いを使って施設内に仲間を増やしていたと考えていた。
しかし、今でもこの施設内に『血呪い』を使える者が存在している。
先天性の吸血種がリーベン以外にも居るということだ。
騒ぎを聞きつけたモーリッツが杖をつきながら、部屋の前まで歩いてきた。
憤慨した様子で、屈んでいるバルーを見下ろしている。
「イザーク。『銀の目』に通報するんだ」
銀の目。教会直属の逮捕権や捜査権を持つ者たち。
バルーも該当するが、この光景を見られれば、バルーの犯行だと思われる可能性も少なからずある。
発見されているダンピールは、世界に一人しか居ない。
本人すら知らない能力で人を殺したと思われる可能性は十分にある。
「この司祭がエルマを殺したと伝えるんだ!」
モーリッツが叫んでいる。
エルマが後天性吸血種だった場合、『銀の目』にバルーが保護対象を殺害したと判断されてしまう可能性がある。
そうなれば、ナーデルを使って処分されてしまうだろう。
静かにエルマの遺体を見下ろす。
突然、どこか遠くから声が聞こえてくるような感覚に苛まれた。
『お兄ちゃん、痛いよう』
『苦しいよお』
『助けてお兄ちゃん……お腹が……』
それは、聞き馴染みのある声。
頭の中でいくつもの子どもの声が聞こえてくる。
「はあッ……はあ……っ」
あの子たちの遺体が、エルマの遺体に折り重なっているように見える。
『バルーお兄ちゃん!』
「バルー。しっかりなさい」
いつの間にかその場に膝をついて頭を抱えていた彼を、トランクから出てきたナーデルが抱きしめていた。
「え!人形……!?」
「喋ってる!」
「失礼ね。うちの愛犬を証拠も無いのに犯人扱いするなんて、とんだおまぬけだわ」
子どもたちは人間のように動き、話している人形に恐れ慄いたのか、じりじりと後ろに下がっていく。
「しばらくわたしとバルーの二人きりにして頂戴」
「そんなのだめに決まってるでしょ!」
「不安なら他の部屋で構わないし、外に監視をつけてもいいわ」
しばしの沈黙。
大きな溜息をついたモーリッツが、仕方ないとばかりに先導して歩き始め、二人を職員室まで案内する。
バルーとナーデルが部屋の中に入ったのを確認してから、アデリナが扉を閉めた。
部屋の外には全員が集まっているようで、二人はどこからも逃げられない状態になった。
「ナーデル……僕が、……僕が……」
「わたしはずっとおまえを見ていたけれど、殺していないのは明白よ」
ナーデルは優しくバルーを抱擁するが、身体が小さすぎて抱きついているだけのようにも見える。
それでも彼の心はだいぶ落ち着いてきた。
「……はぁ、取り乱してごめんね。……幻滅しないで」
恋する男の情けない表情を見て、少女人形は軽く笑った。
「そんなことするはずがないでしょう!おまえはわたしの可愛い犬なんだから」
そう言われたバルーは、少し安堵したような顔を見せる。
ナーデルは一筋流れた涙の跡を拭って、彼の鼻先を少し摘み、からかうような表情を浮かべた。
愛犬が可愛くて仕方がないといった様子で。
「……僕が不安な時、いつも会いに来てくれてありがとう」
「トランクの中に居たわよ。寝たふりをしているのも見たでしょうに」
ナーデルはバルーの手を握り、先程自分が髪の毛で文字を書いた場所を撫でた。
そこにはまだ少しだけ火傷の跡が残っている。
「わたしは見ていたけれど、記録は残っていないわ。バルーが犯人でないと立証する必要があるわね」
「え……?お義父さんが眼鏡を通して見ててくれたんじゃなかったの?」
少女人形はバツが悪そうに頬を掻いた。
「……そのことなのだけれど、急に調べごとがあるとか言って、席を立った後に事件が起きてしまったのよね……」
返答を聞いたバルーは、ショックのあまり両手で顔を覆う。
「僕ったら!どうしてそんな間の悪いタイミングで……!」
「まあまあ、落ち着きなさいな」
『おい、ナーデル。聞こえるか?』
突然聞こえてきたマルクの声。
驚いたナーデルは、軽く飛び上がった。
「ナーデル?大丈夫?どうしたの?」
「お父さまよ!急に戻ってきたわ!……もう、居ない間に大変なことが起きたんだから!」
娘は父に向かって文句を言いながら、バルーと話していたエルマが、少し目を離した隙に殺されてしまったことを伝えた。
『おい嘘だろ……、嫌な予感が的中しちまった……』
「どういう意味よ?」
「え?何のお話をしてるの?」
「後で説明するから少しお待ちなさい!」
バルーはまるで忠犬のように、言われた通り静かになった。
『色々聞きたいこともあるし、俺からも説明しないといけないことがある。それと、ナーデルに対しては説教もしないといけないな』
それを聞いたナーデルは眉を顰めた。
「何?わたし何かしたかしら?」
『まずは順を追う。その被害者からリーベンの話を聞いたはずだな?何と言っていたか教えてくれ』
ナーデルは、リーベンがアデリナに懐ぎ過ぎていたことがきっかけでグンターと口論になっていたことや、「役目を果たさないと」と言っていたことや、施設長に悩みを相談していたらしいという情報をマルクに伝えた。
父はその情報に何やら納得したような声を上げている。
『ナーデル。俺が席を外した理由はそこにも繋がる』
「どういうこと?」
『話は少し変わるが、バルーの視界を見ていて違和感があった。……そこで、バルーのこれまでの天然由来だと思われていた言動に関しても振り返ってみた』
それを聞いたナーデルは、黙りこくった。
マルクが言っていることは、あまり突かれたくない真実に繋がっている。
『……結果として恐ろしい結論に至ったが、それが確かなものなのか、調べる必要があった』
「どうやって、……何を調べたっていうの?」
『席を外している間、ルクス園の職員一覧、入退所した児童たちの記録を調べた。名前も確認が取れている』
少女人形の気持ちは、既に降参していた。
バルーの最大の秘密を、とうとう父に知られてしまった。
『ナーデル。本当にそこに居るのは『子どもだけ』なのか?』
その質問に彼女は答えない。
『俺に知られたら、バルーに何か良くないことが起きると思ったのか?』
「……ええ」
ナーデルは半分泣きそうな声でそう返事をした。
『他の聖職者たちは知っているのか?』
「いいえ。誤魔化しているわ」
マルクのため息が聞こえる。
『……おい。その症状なら、治療することだって出来るかもしれないんだぞ?バルーは……世界中に『自分とナーデル以外に大人がいない』と思い込んで苦しんでいるんじゃないのか?』
マルクは、真っ直ぐに真実を告げた。
バルーには、人類の全てが『子ども』に見えている。
そして何故か、ナーデルと自分のことだけは『大人』と認識している。
これが、ナーデルが隠していたバルーの秘密だった。
青年は、心配そうに愛する女性を見つめている。
少女人形はその事に気づいて背中を向けた。
『この間抜けが……、そんなことであいつが教会から捨てられるわけがないだろう』
ナーデルは、首を横に振る。
「そうじゃないのよ……。わたし……」
その声はまるで、小さな少女そのもののようにか細かった。




