第十四話 北の離宮
ガターン―
扉が閉じる音がして,コリーンはやっと目を開けた。
すりきれた枕の上に,涙のあとがしみていた。「………………」
扉の方を見ると粗末な籠がおいてあった。そこには紙が置いてあった。
『食事は日に二度です。この籠に全て入れて召使に渡します。足りないだろうから,昼には軽食を用意します。貧民が溢れる我が国で,神に背いた囚人にたくさんの食事は必要ないでしょう』
“囚人”か………。コリーンは力なく微笑んだ。
こうなることは分かっていた。分かっていたはずだ。なのに,なぜ私はわざわざ母のところへ行き,喧嘩をうったのだろう。抑えられない怒りに,身をまかせていた証拠だ。
周りを見渡すと,はがれおちたシックイの壁(それはかすかにグリーンの色だった),天井画には天使が飛び交っている。だが,それも長い年月のうちに,ボロボロになっていた。
そこまで狭くはないが,一人なのにこんな広さはいらなかった。バスルームもついていた。
唯一嬉しかったのは,部屋のすみに置いてあったグランドピアノだった。
コリーンは,転がっていた埃まみれの机を立てると,そこに籠をおいた。
籠の中には少量のパサパサのパンに挟まれたサンドウィッチと野菜の酢漬けのビンと,冷たいブイヨンスープの入ったビンがあり(それは恐らく朝食だった)夕食用には小さなサラミが2,3本。それにまた
固くなったチキン,かさついたサラダ,それにチーズだった。
軽食はただの果物と白パンだった。飲み物はワインが2本あった。
籠の奥には,また置手紙がありそれといっしょに本が3冊ほど入っていた。
『たとえ囚人だとしても,貴女は君主のための教育をさせます。サボれると思ったら大間違いだわ。
2日に一度,クランベール男爵夫人を呼び,軽い勉強をさせます。ひまだろうから本を三冊入れておきます。二冊はどちらも歴史書です。一冊は聖書。読む本がなくなったらクランベール夫人にいいなさい。私が選びましょう。反省する気があったら,いつでもいいなさい。ちなみに,反抗するようだったら容赦なく死の監獄に入れますからね』
なんだ,結局私なのだわ。コリーンはがっかりした。次女のエリザヴェータが君主になるのかと思っていたのだ。コリーンは二冊を部屋にぶん投げて,聖書を机に置き,チーズをかじり,ワインを少し口に含んだ。生ぬるいワインが喉を通ってゆく。
そしてすぐにベッドに横になった。腹はすかなかった。すいたとしても,コリーンは食べなかったであろう。もちろん反抗である。別に飢えて死んでもいいと,コリーンは思っていた。
その時,窓からカチャリという音がした。コリーンが起き上がると,そこにはナターリアの三つ下の姉妹エレーナが立っていた。エレーナは幼いが性格は大人っぽく,聡明であったからナターリアの次にコリーンのお気に入りだった。
「びっくりした」コリーンは目をみはった。「泥棒かと思ったわ」
エレーナは悲しそうな顔をした。
「コリーン,なぜ閉じ込められちゃったの。ナターリアが泣き止まないのよ」
ナターリア……。そんなに私を慕っていたのね…。
コリーンは胸がしめつけられる思いだった。エレーナは大きな荷物を抱えていた。コリーンが中身を訊いた。
エレーナは微笑んだ。「私もここにすむの」
「なんですって!!!」コリーンは飛び上がった。すぐ帰るようになんとか説き伏せると,エレーナは落胆したように承知した。だがエレーナは言った。
「コリーンがね,辛いと思うからオルゴールと……貴女がスキだったルソーとヴォルテールの本持ってきたわ。それにここにはピアノがあるみたいだから,ハイドン,そしてグルックの楽譜もってきたの」
コリーンは喜びに胸がはち切れるような気持ちになった。
大喜びでそれらを受け取ると,エレーナの額にキスをした。
「愛しているわ,小さなプリンセス・エレーナ。本当よ。気遣い有難う。ナターリアにも元気って伝えて頂戴」
エレーナは頷き,それから心配そうにおずおずといった。
「あの……コリーン。食事だけは…頂いてね。絶対に病気になっちゃだめよ」
コリーンは愛想笑いで答えた「ええ,もちろん」
「それじゃ」というと,エレーナは走っていった。
コリーンは窓を閉めると,優雅に立ち上がってハイドンの楽譜を広げ,うきうきしながら引き始めた。視界の中の,世界が輝いた。
* * *
首都カッセントリノのフィンステラウ城から遠く離れた,北の都市セントテールにたたずむクァール・アレクシオン城は,かつて無政府状態だったクリステリアに君臨し,他国との戦争に連勝して,国土を膨大なものにして,栄光をもたらしたコリーンの先祖である皇帝アレクシアの名をとってつくられた城である。
北欧であるクリステリアの冬は極寒地獄であり,ことに北の地方は全てが凍り付いてしまう気候であった。クァール・アレクシオン城はこの寒さに対応するように,壁を厚くし窓を小さくするよう作られた。大昔,スートラ8世の母で摂政だった,アグレスト・スー・カルノリア皇太后が引退した後,この城で余生を過ごしたことで有名である。
コリーンは今,ルソーの思想書に読みふけっていた。
その時クランベール男爵夫人が扉を開けて顔を出した。コリーンは不愉快そうな顔をするとすぐにまた本に目を落とした。
クランベール夫人は一枚の手紙を皇女にわたした。
それには『全てに君臨するアルセリーナ・スー・ル・ナルセーシュタノリア』と書かれていた。
コリーンはそれを両手で引き裂くように手紙をあけると,中からはいかにも怒りの込められた字で長々とかかれている紙が出てきた。
『七ヶ月ぶりです。気分はどうかしら。念のために宮廷では貴女の妹アーストル皇女が特別教育を受けています。クランベール夫人から聞きましたが,貴女は日頃からルソー著のフランスを破滅させた本や(ルイ十六世がそう呼んでいる)くだらない思想書を読んでいるそうですね。』
コリーンは一度読むのをやめてから夫人の顔を見上げた。夫人は目をそらしておどおどしていた。
『クリスタリア国の皇女として,祖国を辱めることは許しません。我等はフランスと同盟を結んでいる仲。それを破滅させるような本を読むことは恥ずべき罪です。それに貴女は少しも反省をしないようだから,死の監獄へ移ることも時間の問題でしょう。はやく貴女が祖国のため,母のためにつくしてくれることを望んでいます。』
まだ手紙には何かかいてあったが,コリーンはそれを破き捨てると,またルソーの本を読み出した。クランベール夫人はきっぱりと言った。
「皇女殿下…!今のことも陛下に言いつけてもよろしいのですか?」
コリーンはまるっきりそれには答えず,ただ片手をピアノの鍵盤の上に,そしてもう片方で本を抱えていた。夫人はしびれを切らして本を取り上げた。
「殿下!!いい加減になさい!貴女は次期女帝の権利を得ているのです。その皇女様がこの有様ですわ!陛下もあきれて仕方が………」
コリーンは夫人を打った。そして本をつかんでまた読み始めた。夫人は真っ赤になって部屋をでていった。コリーンは全くそれには気にせず,籠からチーズを取り出して食べた。
ここ数ヶ月,彼女はチーズやワインぐらいにしか手をつけなかった。彼女が毒を恐れているのが一目で分かることだった。コリーンは部屋を出て,(離宮は限られた範囲しか入れなかったが)大きな窓からセントテールの町並みを見つめた。
ふいに,カッセントリノが懐かしくなってコリーンは涙を流した。
レクシアス………。今,どこにいるのかしら…。
すると,彼女の足元で小さなスパニエル犬のジェイムズがじゃれていた。
「こらこら,ジミー。イタズラが過ぎないわね。ドレスを汚さないで」