触れる、僕の知らない君 1st Contact
触れる、僕の知らない君
導入
仕事に疲れ果て、肩の凝りが限界に達した健太は、人生で初めて出張マッサージを予約した。届いたチラシの「初回割引」に惹かれ、深く考えずに手配したが、まさかそのマッサージ師が、自分が心から憧れるトップアイドル、星野奏だとは夢にも思わなかった。
予期せぬ出会い
インターホンが鳴り、玄関を開けると、そこに立っていたのはマスクと眼鏡で顔のほとんどが隠れた小柄な女性だった。彼女は「本日担当させていただきます、リラックス出張マッサージの田中です」と名乗る。健太は疲労困憊のため、特に気にも留めず、部屋へと招き入れた。
マッサージ中の出来事
田中さん(星野奏)は健太の肩を揉み始める。部屋には健太のお気に入りの「スターライト・ドリームズ」のCD、もちろん星野奏がセンターの曲がBGMとして流れていた。ふと田中さんが視線を巡らせると、部屋の隅には**握手券欲しさに同じCDが何十枚も購入されて高く積まれているのが目に入った。**その山を見た田中さんは、マスクの下で複雑な表情を浮かべた。自分をこれほどまでに熱心に応援してくれるファンがいることへの喜びと、同時に、彼にこんなにも多くのお金を使わせてしまっていることへの静かな罪悪感が入り混じっていた。
健太はうつ伏せになりながら、推しへの熱い想いを語り出す。「いや〜、この曲の奏ちゃん、本当に神がかってるんすよ!」自分の歌声が流れる中、これほど熱心に応援してくれるファンがいることに内心驚きながらも、田中さんはプロとして平静を装い、健太の言葉一つ一つに静かに耳を傾けた。
ふと、健太は田中さんの声が星野奏に酷似していることに気づき、「あれ?なんか、センターの子に声が似てるね。マスクをしてるのに、不思議と顔の雰囲気まで似てる気がするな…」と何気なく口にする。田中さんは一瞬言葉に詰まり、「た、たまに言われます」と蚊の鳴くような声で答えるが、健太は疲れているせいか、特に深く追求することなく「へー、そうなんだ」と流してしまうのだった。
翌日の出来事と総選挙
マッサージで心身ともに軽くなった健太は、翌日も田中さんを指名しようと連絡を取るが、「本日、田中は出張しておりまして…」と断られてしまう。その夜、テレビで年に一度の国民的行事、「スターライト・ドリームズ」のアイドル総選挙の生放送を見ていた健太は、最終発表で憧れの星野奏が堂々の1位に輝くのを見て、思わず「よっしゃー!」と歓喜の声を上げた。
番組終了後、興奮冷めやらぬ健太は、前日の心地よさを思い出し、再び出張マッサージの会社に電話を入れる。今度はすぐに予約が取れた。そして1時間後、インターホンが鳴り、玄関を開けると、そこに立っていたのは、やはりマスクと眼鏡をかけた田中さんだった。しかし、今日の彼女はどこかいつもと違う。ステージメイクを落とす間もなく駆けつけてきたため、マスクと眼鏡で隠しきれない肌には、普段のマッサージ師らしからぬ濃い舞台化粧が残っていたのだ。
「あれ?田中さん、なんか今日は化粧が濃いね」と、健太は何気なく尋ねる。田中さんは一瞬息をのんで、焦ったようにマスクの下で口元を引き締め、どもりながら答える。「きょ、きょ、今日は、その、ちょっとおしゃれしたい気分だったの!」世界一のアイドルとしての顔と、普通のアルバイトの顔を必死で切り離そうとしていた。
マッサージが始まり、健太はうつ伏せになる。部屋に流れるCDの音量を少し上げ、「今日の総選挙、見ていたんですか?」と田中さんが尋ねる。健太は弾んだ声で答える。「うん!もちろん!リアルタイムで見てたよ!そりゃもちろん、俺の推しの奏ちゃん!いやー、本当に感動したな!」そして少し照れたように付け加える。「奏ちゃんは、俺みたいないけてない男性とか嫌いかもしれないけど、それでも大好きで、ずっと応援してるんだ。」
健太の言葉を聞いた田中さんは、反射的に、しかし強い口調で言った。「そんなことないと思いますよ!」健太は驚いて、「え、田中さん?なんか怒ってる?」と尋ねる。田中さんはハッとして、すぐに冷静な表情に戻ろうと努めるが、わずかに声が上ずった。「いえ、その…ただ、ご本人はきっと、どんな方でも応援してくれるファンを大切に思っているはずです、と…プロとして、そう思いますので…」健太は、田中さんが妙に感情的になっていることに少し首を傾げたが、プロとしての真剣さゆえだろうと納得し、またマッサージの心地よさに身を委ねるのだった。その時、健太はふと呟く。「それにしても、なんか今の怒った声も、奏ちゃんにさらに似てたな…」田中さんの体が一瞬、ピクリと硬直する。マスクの下で、彼女の表情は引きつりそうになったが、健太はあくまで独り言のように言っただけで、彼女の反応に気づくことなく、夢見心地でマッサージを受けていた。田中さんは、冷や汗をかきながら、今日の仕事を無事に終えることだけを考えていた。
繰り返される偶然とすれ違い
その後も、健太は時折出張マッサージを利用するようになる。不思議なことに、田中さんを指名できるのは、いつも星野奏がテレビ番組やラジオに出演する収録日だった。ライブや歌番組の生放送がある時間帯は、何度電話しても田中さんは「本日、出張しておりまして」と不在なのだ。健太は、その偶然の一致に気づかない。ただ、田中さんのマッサージは格別に気持ち良く、何よりも、推しである星野奏の話をいくらでも聞いてくれることに満足していた。田中さんもまた、健太の熱い「推し語り」を聞くたびに、自分がアイドルとしてどれだけ愛されているかを実感し、密かに喜びを感じていた。そして、健太が自分の正体に気づくことのないよう、プロのマッサージ師「田中」を演じ続ける日々。健太の部屋には、相変わらず星野奏のグッズが増え続け、田中さんが訪れるたびに、彼女自身のポスターやCDが「増えているな」と内心で苦笑いを浮かべていた。
ある週末、健太は「スターライト・ドリームズ」の新曲発売記念握手会に参加するため、会場にいた。星野奏のレーンに並び、自分の番が近づくにつれて心臓が高鳴る。ブースの向こうには、キラキラと輝く笑顔の星野奏が、ファン一人ひとりと丁寧に向き合っていた。健太の番が回ってきた。緊張しながらブースに入ると、星野奏が優しい笑顔で彼を出迎える。「こんにちは!来てくれてありがとう!」健太は、間近で見る推しの美しさに感動し、伝えたいことがたくさんあるのに言葉が詰まる。その声は、健太がよく聞いているCDの声そのもの、そしてあのマッサージ師の声とも酷似しているのだが、健太の頭の中は「推しとの対面」でいっぱいであった。目の前の輝くアイドルのオーラに完全に圧倒され、その一点の曇りもない笑顔に、健太は彼女がマスクと眼鏡をつけたマッサージ師「田中」である可能性など、微塵も思い浮かべることができなかった。彼はただ、「応援してます!」と精一杯の感謝を伝えることしかできなかった。健太と握手を交わす奏の指先は、ひどく熱を持っていた。その熱は、健太への感謝の気持ちと、彼にこれほどの熱量で応援させてしまっていることへの、一抹の切なさのようにも感じられた。
マッサージ中、健太はふと世間話でもと「田中さんは、お近くにお住まいなんですか?」と尋ねた。田中さんは少し間を置いて、「ええと…千葉、ですね。会社からは少し距離がありますけど」と答えた。健太は、テレビから流れる星野奏のドキュメンタリー番組を思い出し、ふと口にする。「へえ!奏ちゃんも千葉出身だったな。なんか、勝手に親近感湧いちゃうんだよね。マッサージ師さんと奏ちゃんが同じ出身地なんて、なんか面白いな!」と無邪気に喜ぶ。また別の日、健太はマッサージ中に田中さんの耳元に光るイヤリングが、星野奏が雑誌のオフショットでよくつけているものと同じだと気づき「奏ちゃんと同じセンスしてる!すごい偶然!」と興奮する。さらに、田中さんの手の感触が、握手会の星野奏の柔らかい手のひらに酷似していることにも気づくが、健太は「やっぱりプロは違うな!こんなに柔らかい手でマッサージしてくれるんだ!」と感心し、親近感を募らせるばかりで、疑念を抱くことはない。その繊細で吸い付くような指の動きは、これまでのどのマッサージ師とも異なり、健太は全身の疲れがとろけるように消えていくのを感じた。数秒の握手とは比べものにならないほど長く、そして深く触れる、あの憧れのアイドルの手が、今、自分の体を直接癒やしている──健太は気づかないまま、極上の贅沢に浸っていた。「いやー、田中さん、本当に**奏ちゃんと色々共通点がありますね!**もしかして、運命かな!?」健太の言葉に、田中さんはただ静かにマッサージを続けるのだった。そのマッサージの指使いは、いつも以上に優しく、健太への労りと、彼が知ることのない自分への、密かな懺悔のようにも感じられた。
運命のすれ違い、そして変わらない日常
数ヶ月後、恒例の「スターライト・ドリームズ」全国ツアーの開催が発表されるが、チケット争奪戦が激しく、健太は一枚も手に入れることができなかった。「もうダメだ…今年は奏ちゃんに会えない…」と肩を落とす健太に、田中さんは関係者からもらったというドームライブの良席チケットを「たまたまですよ!」と言って手渡す。健太は神様だと感激するが、まさかそのチケットが、自分の「推し」本人から手渡されたものだとは、夢にも思わない。
ツアー当日、健太は最高の気分でドームへ向かった。最前列の席に座り、開演を待つ。ステージが暗転し、スポットライトがセンターを照らすと、そこに立つのは、紛れもない星野奏だった。オープニングの曲が始まり、星野奏の歌声が会場に響き渡る。健太は高鳴る胸を押さえながら、その歌声に聞き入る。
パフォーマンスが進む中、星野奏は歌いながら、ふとステージの最前列、まさに健太が座っている場所へと、クールな眼差しを向けた。その圧倒的なオーラと、何万人もの観客を魅了するセンターとしての輝きの中、健太はその視線に射抜かれたように感じた。
「今、俺のこと見た…!奏ちゃん、俺のこと見てくれた…!」健太は、その一瞬の視線を、まるで自分だけに向けられたファンサービスのように受け止め、全身で歓喜を表現した。
健太は再び興奮に震え、涙を流しながらペンライトを力強く振った。ステージ上の星野奏は、完璧な笑顔で歌い続けている。彼女は、最前列の健太の姿を確かに認めた。その瞬間、星野奏はクールな表情を保ちながらも、心の中でそっと感謝の言葉を呟いた。
「ありがとう。私の顔も知らないあなたに、普通の私として接してくれるその時間が…私が**『星野奏』ではない、一人の人間**でいられる大切な時間になっていることを、あなたはきっと知らないでしょうね」
健太は、田中さんの正体に永遠に気づくことなく、目の前のライブの興奮と感動に身を任せていた。星野奏の歌声とダンス、そして会場を包む熱気に完全に没頭し、他のことは一切頭になかったのだ。彼は、ただひたすらに、自分が最も愛するアイドルの輝きを見つめ続けていた。
そして、星野奏もまた、クールなアイドルとして、そしてマッサージ師として、健太の隣で静かに、そして密かに、彼の日常を支え続けるのだった。