恐い蟹 後編
前回までの(とってもいいかげんな)あらすじ
金持ちで、幸福を一身に背負ったような男、雲鱈金太。その一人娘の藍良が、ある日家に帰ってくるなり倒れたのであった。慌てる雲鱈家の人々、そして繰り広げられるドタバタ。上へ下への大騒ぎのそのとき、ついに医者が訪れたのであった。
第2章
「旦那様、お医者様がいらっしゃいました。」
その声に、馬鹿をやっていた金太と外難は、急に真面目に戻った。
「そうか、やっと来たか。すぐにここに連れてきなさい。」
しばらくしてその医者が連れらてきた。
「やあ、やあ、こんにちは。私が医者の、町野 威謝です。」
医者は唐突に自己紹介を始めた。
「えー、誕生日は十一月二十八日、いて座、血液型はB型、身長一七八センチ、体重六十五キロ、当年もって二十九歳、独身、帝国医大卒、なお、ちなみに貯金は定期で…」
「ええい!やめんか!」
金太が怒鳴る。
「自己紹介なんかしてる場合か!今はそんなことしている場合じゃないだろう、今は。」
「しかし、今やらないとしたら、いつやればいいんですか。私の出番はここしかないんですよ。」
「うーむ。しかし…」
「それに自己紹介しなかったら、私が赤ひげだか、ブラックジャックだかわからないじゃないですか。私のアイデンティティはどうするんですか。私のあいでんてぃてぃは。」
「……」
「大丈夫。」
外難がいきなり断言した。
「おい、大丈夫っておまえ、何が大丈夫なんだ。」
「だから、あいでんてぃてぃ、でしょう。大丈夫ですよ。きっとスーパーに行けば売ってますって。でもスーパーなんかよりも八百屋の方がいいかもしれませんね。ところで旬はいつなんです?」
「…外難、お前何か勘違いしていないか。」
「へ?珍しい名前の野菜じゃないんですか。」
「ああ、全然、おもいっきし違う。だいたいそんな野菜でアイデンティティに似たものが何かあるのか。」
「いや、別にそういうわけではないんですが。知らない言葉だとつい、珍しい名前の野菜かと思ってしまって…ロマネスコとか…ナントカスプラウトとか…。どうもすみません。」
「…まあ、その話はこっちに置いといて…」
「どこに置くんです?」
金太は外難を全く無視した。無視された外難は仕方がないので、その話を近くの棚に置いた。
「とにかく、先生、娘を診てやってください。」
「分かりました。」
町野医師は床に就いている藍良の枕元に近付き、彼女の脈を取った。
「熱は測りましたか。」
「ええ。」
金太は体温計を渡す。
「……?」
「あ、それは、華氏の体温計なんです。
「仮死!それは大変だ。うむ。確かに息もしていない。……脈もないぞ。これは危ない。すぐに心臓マッサージをしなければ。」
町野医師は、体温計を床に置くとその上に両手を乗せ、肘を曲げたり伸ばしたりする動作を繰り返した。
「先生、先生、何をやっているんですか。」
「見ての通り心臓マッサージですよ。」
「体温計にそんなことしてどうするんですか。」
「でも、あなたさっき、仮死と言ったじゃないですか。」
「私の言ったのは華氏。」
「え、な~んだ。そうですか。それじゃ。」
町野は変な節を付けて歌いだした。
「♪…きゅううじゅうはち、きゅうじゅうきゅう、ひゃぁぁぁぁく、ひゃくいっち…♪」
「どうしたんですか。」
「だから、歌詞なんでしょう。」
「違います。」
「えー。もしかして。」
町野は大きく口を開けると、その中に体温計を入れようとした。
「菓子でもありません。」
「じゃぁ、バラバラ殺人事件だ。」
「どうしてですか。」
「下肢。」
「…わざとやっていませんか。だからこの体温計は、摂氏、華氏の、華氏だといっているです。」
「あ~、それを言っちゃだめよ。まだネタはいっぱいあったのに。可視に、河岸、他にもまだ、課し、科し、貸し、嫁し、化し、架し…」
「町野さん、あなた、診察に来たんでしょう。真面目にやってくださいよ。」
「え~、真面目にですか。」
「そうです。真面目にです。」
「う~む。」
町野は腕組みをした。
「まじめにねぇ。でも、これギャグなんでしょう。」
「とんでもない。」
金太は慌てて否定した。
「娘が倒れているときに、誰がギャグなんてするものですか。」
町野は疑わしそうな目をした。
金太はその目によって自分の良心が責め立てられているのを感じた。だか金太は負けなかった。見事に立ち直り、良心の呵責を他人に転嫁し、怒りに昇華させたのだった。
その結果、金太は町野を指さしてこう言っていた。
「貴様!その目はなんだ!」
町野は驚愕の表情を浮かべた。
「なぜ分かった!」
そして突然靴下を脱ぎだして、足の裏を金太の顔の前に突き出した。
「なぜ私に魚の目があると分かったのだ。」
「分かるか!そんなもん!」
「あれ、やっぱり分かってなかったの。」
町野は照れ隠しに高笑いをした。だが二人の冷ややかな視線に気付くと、急に寝ている藍良に近付き、再びその脈を取ると、次のように宣言した。
「これより診察を行う。」
この医者が登場してから実に千七百六十一文字目のことである。
ついに診察が開始されたのである。
「おい、すまないがそこの鞄を取ってくれないか。」
町野は藍良の脈を取りながら、外難に声をかけた。
「えっ、鞄ですか。そんなもの持ってきてましたか。」
「持ってきたから、言っているんだろう。」
「でも、登場の時にそんな描写ありましたっけ。」
「ふっ。甘いな。行間を読んでみな。」
「……」
「な、行間に鞄があるだろう。」
「あっ、ありました、ありました。行の狭間に鞄が落ち込んでいました。」
外難は鞄を持ち上げた。
「えらく重いですね。何が入っているんですか。」
「医者の鞄に入っているのは、医療器具に決まっているだろう。」
「それにしても、この重さはただ事じゃないですよ。持ってくるのが大変だったでしょう。」
「そう、物凄く大変だった。自動車で来れば楽だったんだが、使いの人がどうしてもダメだというもんで、仕方がないので歩いてきた…」
町野の台詞は、途中で金太と外難のわーという喚き声にかき消された。
「何ですか。急に大声を出したりして。」
「あのね、この話はまだ自動車ができる以前のものなの。」
「はい、それは使いの人から聞きましたが。」
金太は急に疲れたような顔をした。
「だから、自動車という概念自体が存在しないの・」
「えー、ということは。」
「そう、自動車という言葉を使ったりしてはいけない。」
「分かりました。以後気を付けましょう。とにかく、鞄を渡してください。」
町野は外難から鞄を受け取ると、中から何か取り出し始めた。
「まあ一応、私が持ってきた体温計でも計ってみましょうか。」
「お願いします。」
「うむ。」
町野は藍良の脇に体温計を挟んだ。しばらく待って電子音がした後、体温計を取り上げた。そしてじっと眺めていたが、突然うーむと唸りだした。
「どうかしたのですか。」
金太は心配になって聞いた。
「いや、熱は下がってきている。下がってきてはいるのだが…」
「だが、どうしたんですか。」
「いや、この時代にこんな体温計があるのだろうかと思って…」
町野は二人に自分が持っている体温計を見せる。それはデジタル表記の体温計であった、二人は言葉に詰まった。
「やっぱりないんでしょう。こんなもの。ところでそもそも体温計って存在してもいいんですか。」
二人は顔を見合わせた。そしてしばらく黙っていたが、仕方なさそうに外難がつぶやいた。
「タイオンケイって何ですか。」
「やっぱり。だと思った。そうか、やっぱりな。」
町野はうなずきながら鞄の中をまさぐっていたが、その手をふと止めると二人の方を見やった。
「待てよ、そうすると私の持ってきたものは、みんな使えないということにならないか。」
彼は頭を掻きむしり、呻きだした。
「何てことだ!」
そして、矢のように鞄の中から次々と物を取り出すと、目の前に並べだした。
「診察用の端末も持ってきたのに。CT、MRI、PET、その他の検査機器もある。それだけじゃないぞ、レーザーメスに癌の特効薬に万能細胞もあるのに…」
町野は二人の方をみるとニヤリと笑い、つぶやいた。
「ここでは使えない。」
二人はあからさまに、まるでそこにそれらのものがないかのように無視した。
「道具が使えないならしょうがない。私がここにいても何の役にも立たない。帰らせてもらいます。」
「そんな!道具を使わなくても診断ぐらいできるでしょう。」
「しかし、症状のデーターを医療コンピューターに照会してみなくては。それに私の持っている医療知識は、この世界には無いのでは。」
「うーむ。」
「では、私はこれで。」
そう言うと町野は出した時と同じ物凄いスピードで鞄の中にしまい始めた。
「ちょっと、ちょっと、まさかこのまま帰るわけではないでしょうね。」
「そのつもりですが。」
「そんな。あなたには医者としての誇りがないのですか。あなたがしたことといったら、自己紹介とギャグだけじゃないですか。」
町野はすでに鞄に物を詰め終わっていた。
「そんなことを言われても私にはどうしようもありませんよ。それじゃ。」
「それじゃ、じゃない。」
「それでは。」
「言い換えても同じだ。おい、外難こいつを押さえろ。」
「はい、旦那様。」
外難と金太が、町野にすがりつく。しかし町野はそれを振りほどきつつ玄関に向かった。
「いいかげんにしてくださいよ。」
「いいや、娘を診てもらうまでは離さんぞ。」
「しつこいな、もう。」
金太と外難を引きずりながらも、町野は根性で玄関まで行き外に出た。
「こうなったら仕方がない。」
町野はそう言うと、右手首を口のそばに持ってきた。
「来い!テスタロッサ!」
大声で叫ぶ。
物凄い爆音を立てて真っ赤な自動車が現れた。金太と外難がひるんだ隙に町野はその自動車・テスタロッサに乗り込んだ。赤いテスタロッサは、呆然としている二人を置き去りしたまま、再び爆音を上げてその場を立ち去った。
「ばかやろー!」
金太は車が去っていった方向に向かって怒鳴った。
「てめーなんか、コンピューターの反乱にあって死んじまえぇー!」
第3章
「しかし、どうしたものかな。」
金太は、寝込んでいる娘の藍良の枕元で腕組みをして考え込み始めた。
「往診に来た医者はあの通りだし、どうしたら良いものか…」
「旦那様、奥様が帰ってこられました。」
使用人の声が、金太の思考を破った。
「なに、小詩が戻ったか。」
金太がそう言って振り向いたとたんドアが開き、妻の小詩が立っていた。
「わっ!小詩、お前…」
「藍良!」
小詩は藍良が寝ているベッドのそばに駆け寄った。
「藍良、大丈夫?どうしたの?」
「いや、それよりどうやってドアから入ってきたんだ?」
「あなた!藍良がこんなときに何つまらないことを。」
「でも、ふすまなのに…」
「そんなことはどうでもいいでしょう。」
「どうでもいいかなぁ。それに布団で寝ているのにどうしてベッドに駆け寄れるんだ?」
「あなた!」
小詩は凄い剣幕で詰め寄った。
「あなたは、娘が苦しんでいるときに、そんなくだらないことを。」
「く、くだらないかなぁ…」
「くだらないことです。」
「いや、でも、しかし…」
金太は小詩の怒った顔を見て、それ以上しゃべるのをやめた。
「ところで、医者は呼んだの」
「ああ、呼ぶには呼んだんだが…」
金太の胸に憤りが蘇る。
「あの医者の野郎、診察もしないで帰りやがった!」
「どこの医者なの。」
「町医者の威謝。誕生日は十一月二十八日、いて座、血液型はB型、身長一七八センチ、体重六十五キロ、当年もって二十九歳、独身、帝国医大卒、なお、ちなみに貯金は定期で…」
「なんなのよそれ。どうしてあなたがそこまで知っているの。」
「本人が自己紹介していったんだ。」
「…とにかく、誰かもっとまともな医者を呼ばなくっちゃ。」
「そうだね。早速、使いの者をやろう。おーい。」
「あなた、そんなことしなくたって電話を一本かければ済むことじゃない。」
金太の体が一瞬硬直した。そしてほとんど投げやりの調子で前にも言ったセリフを口にした。
「デンワ?デンワっていったい何のことだい?」
だが小詩はその言葉にはてんで付き合わずに、壁に取り付けてある、話すところと聞くところが別になっている電話機・2号共電式壁掛電話機の受話器を取った。
「おーい!」
もうほとんどやけになりながら、金太は叫んだ。
「なによ。」
「いや、電話機なんてこの部屋になかったはずなのに…」
「いちいちうるさいわね。いいかげんにしてよ。」
小詩は電話の方に向き直った。
「お、お医者さん。出前をお願いしたいんですけど。ええ、医者を一人前。特上をお願い。できるだけ名高いのがいいわ。え、ぴったりのがあるって。良かった。ぜひそれお願いね。えっ、蘭方医?蘭方医もいるの?うーん、どうしようかしら。」
そして振り返ると金太を呼んだ。
「あなたー。」
金太は少しむくれながら小詩を見た。
「あなた。高名な医者と蘭方医がいるんだけど、どっちがいいかしら。」
「好きにしろ」
金太はぶっきらぼうにそう答えた。
「なによ。何怒っているのかしら。」
そして再び電話機に向き直る。
「うーん、どうしようかしら。そうね、いいわ。両方お願いするわ。そう、両方とも。雲鱈の家まで届けてちょうだい。それじゃ、お願い。」
受話器を置いて金太の方を見る。
「あなた、さっきから何を怒っているの。」
「別に怒ってない。」
金太は腹立たしげにそう答えた。
「怒っているじゃない。」
「別に怒ってなどいない。ただ私はだな、この話がまだ電話のできる前のものだということをだな…」
「何を言っているの。電話ならとっくの昔にできてるわよ。」
「お前も分からない奴だな。お前が出てくるまでこの話は電話ができる前の話ということで意思統一できていたのに…」
「そんなこと知ったことですか。」
「何を!設定が崩れようかどうかという時なのにお前って奴は…」
「ふぁふぁふぁふぁふぁふぁふぁふぁふぁふぁふぁふぁ。」
唐突に高笑いが響いた。
「な、なんだ?」
金太が振り返るとそこに腕組みをして高笑いしている外難がいた。
「なんだ、外難か。どうしたんだ。」
「いや、もしかしたら私の存在が忘れられているんじゃないんだろうかと思いましてね。」
「うん、すっかり忘れていた。」
「…ま、いいですけどね。とにかくこの場は私にお任せください。」
外難はするすると小詩に近付いた。
「いやー、奥様、いつ見てもおきれいで。」
「……」
「特に今日は矢絣の袴がお似合いで。」
「どうもありがとう。でも、矢絣の袴ならみんな着ているわよ。」
そう言うと、彼女は窓のほうに歩いて行った。
「し、知らなかった。この部屋には窓があったのか。」
だが金太のその言葉を無視して小詩は窓を開けた。窓の外には矢絣の服を着た老若男女がぞろぞろと歩いていた。
「ね、言った通りでしょう。」
「ああ、でも、なんで矢絣なんだ。」
「あら、この時代の人って、みんな矢絣の袴をはいているんじゃないの。」
「お前、一体いつの時代の話をしているんだ。」
「いつって、もちろん今に決まっているじゃないの。」
「…分かった。言い方を変えよう、今はどんな時代なんだ。」
「変な質問ね。まあいいわ。今は大正デモクラシーの時代よ。」
「大正でもくらしぃ?」
「そうよ。この時代の人ってみんな矢絣の袴はいてるんでしょ。」
「お前な、どこからその情報を仕入れたか知らないけれども、間違っているぞ。」
「えー、そうなの。私、この時代っていったら矢絣の袴しかないと思っていたから。」
「それは、大いなる誤解だ。」
「そうかしら。まあいいじゃない。」
「どこがいいんだよー!」
金太はどことも知れない場所に向かって絶叫する。
「そんなことよりもあなた。藍良のことよ。お医者様まだかしら。」
その時、ふすまをバンと開けて、出前持ちが現れた。
「おまたせ。」
「あら、早かったわね。」
「高名な医者と蘭方医でしたね。」
出前持ちは岡持ちの蓋を開けた。そこから人が二人出てくる。
「高名な医者の神目 伊那石です。」
「蘭方医の鸞賀 駆紗です。」
二人そろって挨拶する。
「我々が来たからにはもう大丈夫。」
「ま、大船に乗った気でいなさい。」
二人はこう言って高笑いをした。
「なんて頼もしい。前に来た奴とは大違いだ。」
「それでは、そろそろ診察に取り掛かりますかな。」
二人は金太の枕元に近付き、脈を取るなどして、診察を開始した。
「藍良大丈夫かしら。」
「大丈夫ですよ。」
外難が保証の言葉を述べた。
「あんなに立派な医者が二人もいるんですから、きっと大丈夫ですよ。」
「そうね。きっとそうだわ。」
三人の見守る中、二人の医者は診察を続けていたが、突如二人ともその手を止めた。
「うーむ。」
「どうかされたんですか。」
「いや奥さん、すいませんがスプーンを持ってきてもらえませんか。」
「私にも、匙をください。」
神目と鸞賀の二人はそれぞれスプーンと匙をたのんだ。
「えっ、ええ、いいですけど。」
小詩は、何に使うのか疑問に思いながらも、スプーンを二本持ってこさせた。
「はい、どうぞ。」
「どうもすみません」
「かたじけない。ついでといっちゃなんだが、窓を開けてもらえんだろうか。」
「別にいいですけれど…」
金太は外難に窓を開けさせた。
「いやいや、申し訳ない。」
「すいませんねぇ」
二人はやけに恐縮しながら、スプーンを持って立ち上がると、それを窓の外へ思いっきり放り投げた。
そして、あっけにとられている雲鱈家の者を尻目に道具を片付けると、岡持ちの中に戻っていった。
「ちょっと、ちょっと。」
金太はそのまま帰ろうとする出前持ちを捕まえる。
「なんですか。」
「なんですか、じゃない。」
金太は出前持ちから岡持ちを奪うと蓋を開けた。
そこには、神目と鸞賀が上下に分かれて器用に座っていた。
「いったいどうしたんですか。」
金太が問う。
「どうって、見たとおりですよ。」
「見たとおりって言われても、あなた方がしたことといったら、スプーンを放り投げたことぐらいじゃないですか。診察はどうなったんです。」
「だから、我々は匙を投げたのだよ。」
「…」
「我々の力では、何が原因かも分からないし、どうやったら治せるかも分からないのだ。」
「……」
「そういう訳だから。じゃ、出前持ちさん、やっておくれ。」
「へい。」
出前持ちはそう答えると、威勢よく出ていった。
後に残された三人はただ呆然としているしかなかった。
どのくらいそうしていただろうか。突然、金太が叫びだした。
「どーしたらいいんだ。医者は匙を投げるし、どうすればいいんだー。」
その時、玄関の方で声がした。
「たのもう。」
「誰かしら。」
小詩がドアの方を見遣った時、ふすまが開いて使用人の一人が顔を出した。
「皆さん、お久しぶりです。雲鱈家使用人の一人、誌陽任です。」
「なんだ、そりゃ?」
「いやぁ、最初に出たっきり出番がなかったもので。もう忘れられているかと思って。」
「…で、用事はなんだ。」
「はい。いま、玄関にお坊様が来ておられるのですが。」
「なに、お坊さんが来ているって。」
「はい。」
「いったい、何しに来たんだろう。」
金太と誌陽の二人はとにかく玄関に向かった。
そこには、袈裟を着た僧侶が立っていた。
「ご主人かな。」
「ええ。私が雲鱈家当主、雲鱈 金太ですが。」
「私は、某坊と申す。近くを通る折、ここより何や怪しげなる瘴気が漂っており、よって立ち寄った次第。何事か変わったことはありはせぬか。」
「変わったこと?変わったことといったら娘が倒れたことくらいだが…」
「うむ。娘さんの様子を見せてはいただけぬか。」
「え、いや、しかし…」
「あなた。」
いつの間にか、小詩がすぐ近くまで来ていた。
「あなた。医者にも見放されたのよ。こうなったらもうワラにでもすがるしかないじゃないの。」
「そうだな。」
金太は、その某坊と名乗る坊主を、藍良が寝ている部屋前で案内する。
「さ、お坊様、こちらです。」
「うっ、うーむ。」
某坊は部屋に入るなり大きく唸ると、藍良に駆け寄った。
「娘さんは蟹ヶ池に行かれたのでは?」
「さあ、私には分かりませんが。」
「うーむ。ほれ、見なされ。」
某坊は藍良の腕を取り、みんなに見えるようにした。藍良の上腕部にはハサミを振り上げた赤い蟹の模様が浮き出ていた。
「こ、これは、いったい…」
「娘さんには蟹の呪いがかけられておる。それも、蟹ヶ池の主の大蟹の呪いが。」
「いったいどうしたら…」
「蟹の呪いを解かずばなるまい。そのためには拙僧の言う通りにしてもらわねばならない。それでもよろしいかな。」
「ええ。」
「まず、蟹ヶ池の岸に社を建てていただきたい。そしてそのそばで盛大な祭りを開くのです。」
「それで、娘は救われるのですか。」
「拙僧が、その社で七日も祈れば、娘さんの呪いも解け、病も治るであろう。」
「分かりました。早速手配いたしましょう。」
終章
社の建設が急ピッチで進められた。蟹ヶ池は山の上の方にあり、その工事には莫大な費用が要った。また、祭りの準備も社の建設と同時に行われており、こちらの出費もばかにならなかった。
金太は、それでも娘のため惜しみなく金を使ったため、雲鱈家の財政は火の車と化していた。
だが、難工事だった社の建設も、ようやく落成の時を迎えた。
「拙僧はこれより行に入る。誰も邪魔するでないぞ。」
某坊はそう言うと、雲鱈家の者や祭りの見物客が見守る中、社の中に入っていった。
「お願いしますよ。」
金太が祈るような気持ちで、その後姿を見送った。そして、ふと振り返ると、なんと、そこには、浴衣姿で、右手にはイカ焼きを、左手には水ヨーヨーを持ち、頭には仮面ライダーのお面を被った藍良がいるではないか。
金太は驚くと同時に走り出し、娘の腕をつかんだ。
「あ、お父さん。」
「お前、大丈夫なのか。」
「ええ、もう大丈夫よ。ほら、こんなに元気。」
藍良は、そこでいきなりスクワットを始めた。
「わ、分かったからもう止めろ。それにしても治って良かった。いやー、一時はどうなることかと思った。」
そうやって、良かった良かったと喜んでいた金太だったが、そのうちに彼の心の中に疑問が沸き上がってきた。
「まてよ、某坊は七日かかると言っていたが、どうなっているんだろう。」
そこで、金太は走って社に行き、その扉を激しく叩いた。
「某坊!某坊!」
扉が開いて某坊が顔を出す。
「なんだ。邪魔をするなと言っておいたであろう。まだまだ、このようなことでは蟹の怒りは収まらんぞ。」
「しかし…」
「蟹の怒りを収めねば、呪いも消えぬ。そなたも分かっておるであろう。」
「だが…」
「呪いが消えねば、病も治らん。なぜに拙僧の邪魔をいたすのだ。」
「…とにかく、あれを見てください。」
金太は某坊を強引に連れ出した。
「あれとは何のことだ。」
「あれです。娘の藍良です。」
「なんと!」
某坊も慌てて周りを見渡す。そこにはまだスクワットをしている藍良の姿があった。
「ほらね。」
「そ、そんな馬鹿な。まだ蟹の呪いは解けてはおらぬというに…」
「どういうことなんですか。」
「うーむ。分からぬ。このようなことはあり得ぬこと…この某坊、今までこのようなことは…」
そして、某坊はよろよろと藍良に近付き、その肩をつかんだ。
「うーむ、分からぬ。」
そして、天を仰ぐと大声で叫んだ。
「こは、いかに。こは、いかに。」
こわいかに(終)