第14話『篠山と土下座』
石畳の床に水滴が落ちる。薄暗い部屋の中、聞こえてくるのはその音だけだ。
肌を刺すような冷たさに、思わず身体が震える。ここに入ってからどれぐらいの時間が経っただろうか。当然のように時計はなく、時間を知らせるものは全て没収されてしまった。数分のように思えるし、あるいは数日なのかもしれない。
窓もなく、ただ鉄格子があるだけの部屋。扉の部分には鍵がかけられ、そう簡単には開かないようになっている。何度も揺らしてみたが、結局鉄格子はビクともしなかった。体力を消費するだけと分かったので、今は大人しくベッドに座りながら無言で天井を眺めている。
静寂だけが聞こえてくる部屋の中、不意にカツーンカツーンと足音が響いた。はっとして鉄格子の向こうに顔を向ける。そこには馴染深い金髪と、馴染みたくないイケメンの顔があった。
篠山は呆れた顔で言った。
「首領、いい加減出てきてくださいよ。こんな所に籠ってないで。殆ど使用されないので、そろそろ廃棄しようかと思っていた区画ですよ」
「嫌だ。身の危険を感じる」
「異端審問会は行います。ただ、それであなたを袋叩きにしようとは思ってませんよ。首領の方が圧倒的に強いですし、そもそも私はまだ半信半疑です」
誰よりも首領のことを知る篠山だ。恋人が出来たと言われても俄かには信じがたいのだろう。かくいう首領自身も信じるのにちょっと時間が必要だった。
「ところで、何ですかその格好は?」
頭からつま先まで、胡散臭そうに篠山が見つめる。
「学生服だ。学生だからな」
「ヘルメットを付けたままですよ」
「首領だからな」
頭に光るは黒々としたヘルメット。そこから下は学校指定の制服だ。
「何でまた急に鎧を脱いだんですか」
「冠婚葬祭には学生服だろ。学生なんだから」
「異端審問会は冠婚葬祭のどれにも当てはまりません」
何と言われようが、首領は鎧を着るつもりなどなかった。
その意思は固いと察したのだろう。呆れた顔で牢屋の扉を開く。
「とにかく、今はここから出てきてください。言葉の暴力はあっても、物理的な暴力を振るおうとする人はいませんから」
渋々、牢屋の中から出ていった。ここは、異端審問会の前に逃亡を図ろうとした人間の入る場所だ。間違っても望んで入るような所ではない。
ゆっくりと歩きながら、篠山の方を見る。
「俺と九条さんと付き合ってたのは事実だぞ」
「首領が一方的にそう思っていただけ、という可能性もあります。たまたま同じ所にいたのを、付き合ってるだけと勘違いしているということも考えられますし」
完全に痛い人扱いである。
それならいっそ、本当に付き合っていると思ってくれた方がまだマシだ。
難しい顔の篠山に連れられ、首領は審問会の控室に入った。
「とりあえず、審問会が始まるまではこの部屋で待機しておいてください。一応忠告しておきますが、外には葛野と不知火がいますので。くれぐれも逃げないようにお願いします」
重い溜息を吐いて、首領は腰を下ろす。今日はとても疲れたというのに、最後の最後にこんなイベントが待っているとは。何より千載一遇のチャンスを逃してしまったのは大きい。
しかし、心のどこかではホッとしている自分もいる。確かにキスを待っているかのようだったが、あんな早くにあんな事になるとは思ってもいなかった。一回目のデートで、早々に乗った観覧車でキス。世間一般のカップルとは、それぐらい進んでいるのだろうか。
三回目のデートに海の見えるレストランでしようと計画していた首領からすると、ドッキリかと思うぐらいのスピード感だった。
なので本当にするべきだったのかどうか、正直今でも悩んでいる。もしかすると、そう見えただけで真意は違うのではないかとすら思えた。
「仮に、仮にですよ」
まだ部屋にいた篠山が、険しい表情で口を開いた。
「仮に首領に恋人がいたとしても、それはハニートラップである可能性が高い。その場合は何らかのペナルティは背負って貰いますけど、少なくとも組織を辞めることはありません」
「ハニトラじゃないっての」
「誘惑に騙されて、組織を辞めるなどという安易な手段はとらないで貰いたい。過ちを犯したとしても、あなた以上にこの組織の首領として相応しい人物はいないのですから」
「だからハニトラじゃないって言ってんだろうが、この野郎」
どうしても九条を罠だと思いたいらしい。無理もない。自分のような男性に恋人が出来たのだ。最初はまず罠を疑う。実際首領も疑っていた。
それに何よりも彼女の父親は委員会の委員長。疑うだけの材料は存分にある。
だが、短い時間を一緒に過ごしてきた中で首領は確信していた。彼女は罠じゃない。彼女はハニートラップじゃないと。あの照れた笑顔が偽りであるはずはないのだ。
「アイオセンには、あなたが必要なんです」
篠山に手を握られた。
「お願いします、首領。仮に本当だとしても全力で別れさせますが、どうか組織を辞めないで貰いたい」
「真顔で最低のこと言ってるけど、自覚あるか?」
「そういう組織ですから。お忘れですか?」
そうだった。そういう組織だった。そしてその組織の首領が自分だった。
改めて自らの組織の理不尽さを思い知らされた。
思い起こせば、篠山との付き合いも長い。アイオセンを立ち上げたのも篠山だ。自分はそこに首領として加わって欲しいと誘われただけで。
篠山がいなかったら、アイオセンなんて組織は存在すらしていなかっただろう。少なくとも首領にそれだけの組織を作る力は無かった。不思議な力が使えるだけの、ただの高校生だったのだから。
「俺以外にも他に首領はいるだろ」
「いませんよ。恋愛を憎むあまり、恋禁術という力を得たあなた以上に相応しい方などいません。それにアイオセンの活躍の影にはずっとあなたがいたじゃないですか。能力を抜きにしても、欠かせない人材であるのは間違いない」
力強く言われ、少しだけ照れた。やってる事は最低だとしても、これだけ褒められると気恥ずかしくなる。
「そういうお前だって、この組織には欠かせないだろ。お前がいなけりゃ、とっくにこの組織は潰れていた。いや、そもそも存在してなかったんだからな」
「首領……」
冷たい顔の篠山の眼に、かすかに涙が浮かんだような気がした。
なのでチャンスだと思って逃げ出した。
「駄目」
扉から出たところで不知火の網に引っ掛かった。魚類のように網の中で跳ねる首領。そのまま引きずられ、部屋の中へと連れ戻されたのだった。
「お帰りなさい。異端審問会まで大人しくしていてくださいね」
溜息を吐く。どうやら脱出は困難どころか不可能に近いらしい。
首領を部屋に軟禁し、後のことを不知火たちに任せてから立ち去る。今日は一体何度、眉間の皺をもみほぐしてきたのか。数えるのも面倒だった。
今の心境を一言で表すなら、どうしてこうなったに尽きる。いや、あるいは予想しておくべきだったのか。世界の広さは篠山もよく知っている。首領を好きになる女性がいたとしても、なんら不思議ではないのだ。
ただ、それが国内にいるとは思ってもみなかった。しかも同年代で同じクラス。あまりにも出来すぎであり、ハニートラップを疑うのも当然だろう。少子化解決委員会からすれば、アイオセンは目の上の爆弾に等しい。解体する為なら、娘も武器にする可能性はある。
相手の思惑は分かっていた。ここで内部分裂を起こし、首領を解任させるつもりだろう。見た目と性格はアレだが、不思議な能力とカリスマ性は篠山も認めている。山田良夜以外の誰が首領になったとしても、こんな組織を維持することは出来ない。
ここで首領を解任すれば、アイオセンは大きく弱体化するだろう。故に幹部の中で首領の解任を求める者は皆無だった。問題は構成員がどこで激昂するのか予想できないということ。
多かれ少なかれ、今の構成員は首領の魅力に惹かれてこの組織に入ってきた。特に若年層ほどその傾向がある。そして若者ほど異端審問会で裁かれた経験も多い。となれば、今回の首領を許さないと怒る人間も多いだろう。
「報告書が届きました」
部下から書類を受け取る。そしてまた眉間の皺をもみほぐした。何度調べても、誰が調べても、九条聖がハニートラップを仕掛けたという証拠は出てこない。そもそも不知火が調べて分からないのなら、他の調査員が調べても分かるはずはないのだ。
「ハニトラであれば話は早かったんですけどねえ」
首領に真実を突きつけ、全部騙されていたんですよと発表する。そうすれば首領は怒りに燃えて組織の活動に熱を入れるだろうし、構成員たちも騙されていたらなら仕方ないと矛を降ろしてくれる。最良の可能性であったが、それも全ては証拠があったらの話だ。
ことのほか、首領が本気になっている。このままでは自ら辞めると言い出すのも時間の問題だ。何としても彼を引き止めなければならない。
保険としてスケアクロウにも動いてもらったが、果たしてどうなることか。酷くなっていく頭痛を堪えていると、別の部下に呼び止められる。
「篠山様、お客様です」
「こんな時に? 今日は誰とも会う予定は無いはずです。また後日にしてくれと言って追い返しなさい」
本部に来られる客は限られている。だからといって、敢えて融通をきかす必要もない。今はとても忙しい時なのだ。
しかし部下は困ったような表情で、なかなか立ち去ろうとしない。
「どうかしたんですか?」
「それがその……本来ならここを知らないはずのお客様でして。それに、その……ちょっと特殊な相手ですから私もどうしたらいいのか」
部下にここまで言わせる人物とは誰なのか。名前を訊きだし、篠山は慌てて会うと意見を翻した。
駆け足で向かった部屋の中には、九条聖が座っていた。
部屋の外には不知火と葛野。組織でもなかなか厄介な二人組だ。これを突破するのは容易ではあるまい。強引に抜け出すという手が使えない以上、首領に出来ることは大人しく待つだけだ。
今さら暴れてどうなるものか。篠山には悪いが、最悪の場合は組織を辞める事すら考えていた。
恋人が出来た以上、いずれはアイオセンと敵対するかもしれない。だったら今のうちに決別するのが筋というものだろう。恋人と恋愛撲滅組織。どっちをとるのかと言われたら前者と答える。
むしろ後者と答える人間の脳みそを疑う。
ただ多少は、後ろ髪をひかれる思いはある。少なくない時間、首領として君臨した組織だ。愛着が全くないと言えば嘘になるだろう。
ただ、それよりも大切なものが出来ただけで。決して組織がいらなくなったわけではない。
邪魔なだけだ。
「問題は九条さんだよなあ。あっちに迷惑が掛かってないといいんだけど」
観覧車から降りて、すぐさま首領は連れて行かれた。その為、九条がどうなったのかは分からない。少なくとも敵の親玉の娘だ。迂闊に手を出すような真似はしてないと思うが。
かといって無事に帰れたという保障もないわけで。せめて、それぐらいは教えて欲しい。
「不知火!」
「呼んだ、首領?」
背中から聞こえた声に慌てて飛び退く。どこにいたんだ、お前。
少なくとも天井にすら姿は無かったはずだが。まぁ、今は不知火の不思議な生態について議論している暇などない。いま知りたいのは何よりも九条の安否についてだ。
「お前もあの遊園地にいたみたいだが。九条さんがどうなったか知ってるか?」
「知ってる」
思わず前のめりになりそうな身体を抑える。ここでがっついたら、不知火が警戒して何も喋らないかもしれない。あくまで優雅に、余裕をもたないといけない。
「今はどうしてる?」
「結婚して二児の母」
「早すぎるだろ、時間の流れ。同窓会かよ」
常識的に考えて有り得ない。
不知火も頷き、無言のまま部屋を出ていこうとした。
何の頷きだ。慌てて彼女を引き止める。
「九条さんの安否が知りたいんだよ。無事なのかどうか、それぐらい教えてくれてもいいだろ。それとも、篠山が絶対に教えるなとでも言ったのか?」
不知火は首を左右に振った。
「じゃあ教えてくれ。九条さんは無事なんだな?」
「土下座」
時間が止まる。不知火が何を言ったのか、飲みこむのに時間が必要だ。
まさか九条が土下座しているわけでもあるまい。誰にしているのか謎だし、する意味も分からない。となると答えは一つだ。
意味を咀嚼している首領を見上げながら、不知火が再び口を開いた。
「土下座」
日本古来のお家芸。頼み事の最上級。土下座をしろと言うのか。
ここで、自分が、不知火に。
無表情で淡々とした奴だという印象はあったが、まさかこんな屈折した性癖を持っていたとは。
意外な一面に動揺しつつも、それぐらいならという気持ちもある。頭を下げて教えてくれるのなら、何回でも何十回でも下げてやろう。
「土下座したら教えてくれるんだな?」
「違う。土下座させてくれたら教える」
時間が止まる。不知火が何を言ったのか、飲みこむのに時間が必要だ。咀嚼している首領を見上げながら、不知火が再び口を開いた。
「土下座させて」
日本古来のお家芸。頼み事の最上級。土下座をさせてくれと言うのか。
ここで、不知火が、自分に。
無表情で淡々とした奴だという印象はあったが、まさかこんな屈折した性癖を持っていたとは。
意外な一面に動揺しつつも、それぐらいならという気持ちもある。
いや、ねえよ。
「……それは楽しいのか?」
「それを確かめる」
情報担当だけあって、好奇心は旺盛なのかもしれない。猫を殺して箱に詰める類の好奇心だが。それで満足するのなら断るつもりはなかった。
「分かった。思う存分やってくれ」
スカートを抑えながら、ゆっくりと膝をつく。感情のこもらない半眼がこちらを見上げ、口が堅く結ばれていた。両手を膝の前につき、おもむろに頭を下げる。どれだけ優雅な仕草であろうと、土下座であることに変わりはないのだが。
目の前に土下座している女の子がいる。そんな本来なら困惑するべき状況に、微かな支配欲を感じる自分も存在した。新たな扉を開く音が聞こえ、咄嗟に目を逸らす。これ以上は危険だ。今までの自分が死んでしまうかもしれない。
不知火が立ち上がるまで、首領は決して彼女ことを見ようとしなかった。
「で、どうだったんだ。満足したか?」
「不快」
「だろうよ。だけど約束は約束だ。九条さんの安否について教えてくれ」
分かった、と不知火は頷く。
「彼女は無事。普通に一人で帰った。誰も何もしていない」
その言葉に、胸のつかえが全てとれた。思わず安堵の溜息を漏らす。
「良かった。それが分かれば充分だ」
「首領ちゃんは本当にその子の事が好きなんだねえ」
僅かに開いた扉の隙間から、ニヤニヤとこちらを眺める葛野の顔が見えた。チラリと覗く透明な瓶には、お酒でも入っているのだろうか。入ってるんだろうなあ。
「当然だ。彼女を守る為なら、俺は何だってやるぞ」
「向こうもそう思ってるかどうかは疑問だけどねえ」
愉しそうな葛野の言葉に引っかかる。気になっていた自分と付き合う理由。九条はそれを教えてくれた。あちらの気持ちも自分と同じはずだが。
それとも、葛野も九条がハニトラ要因だと思っているのだろうか。確実に有り得ないと、今では実感できているのに。まだそんな事を言っているのかと、半ば呆れてしまう。
「彼女は普通の学生だ。不知火、そうだよな?」
「調査の結果、怪しい点は一つも無かった。少なくともハニートラップの為に送り込まれたのなら、何らかの証拠は出てくるはず」
「ほらな」
得意気な顔の首領。対する葛野はどこか困ったかのような表情をしていた。
「そういうんじゃないんだけど、何て言うかな。女の勘? それがヤバいって鐘を鳴らしてるんだよね。おかげで頭がズキズキしてるんだよ」
「ただの二日酔いだろ」
「そうかもしれなーい!」
そのまま目を閉じて眠り始めた。いいのか、こんな見張りで。逃げるぞ。
とは言うものの、扉の前で寝ているのだ。出ようとすれば邪魔になる。結局、大人しく待つしかないのだが。
「女の勘か……」
あまりアテになるとは思えないが。なにせ葛野の勘だし。酔っぱらいの戯言と考えるのが妥当だろう。
彼女は普通の学生だ。それ以上に何かあるというのか。
椅子にもたれかかりながら、首領は天井を見上げた。
篠山に連れられ、会場へ向かったのはそれから十分後の事だった。




