世界が色付く時︰ルーカスside
不快な表現があります。
苦手な方はスルーしてください。
僕の世界は灰色だった。
そして狭くて怖くて冷たいものだと思っていた。
そんな世界に色を付けてくれたのは彼女だった。
*
僕は子供の頃に誘拐された事がある。
僕が赤ん坊の頃からずっと一緒だった乳母のイメルダ。
焦げ茶色の癖の強い髪に黒い瞳でふっくらと丸い体のイメルダは父上や母上が所用で留守がちな時にも僕と一緒にいてくれる、誰よりも信頼していて安心出来る人だった。
「まぁ、ルーカス様!そんなに泥だらけにしてはいけません!」
庭で服を泥だらけにして遊ぶ僕をイメルダは叱るのだが「こうやって私が叱っておけば誰もルーカス様を叱れないでしょ?」とコソッと耳打ちしてくれた。
大好きなイメルダ。
そんな彼女が少しずつおかしくなったのは何時からだっただろうか?
幼いながらにイメルダが何かに困っているのではという事に気付いたのは何時からだっただろうか?
ある時「イメルダ?何か困ってる事でもあるの?」と聞いた僕にイメルダは一瞬だけ恐ろしい顔をしたのを覚えている。
「何にもありませんよ?」
優しく微笑むイメルダに幼い僕はそれ以上何も聞けなかった。
あの時その違和感を両親に伝えていればあんな事件は起こらなかったのかもしれない。
*
その日は両親が何処かに出掛け、僕はイメルダと一緒に庭に出て遊んでいた。
今日は家庭教師が来る予定もなく、久しぶりに一日ゆっくり遊べると僕は上機嫌だったのを覚えてる。
暫く遊び喉が渇いたので侍女にお茶の用意を頼んで庭には僕とイメルダだけになった時、イメルダは僕の腕を掴んで裏庭に無理やり連れ出した。
「イメルダ?痛いよ!」
「......」
裏庭の通用門の前には幌馬車が停まっていて、僕は押し込められるように幌馬付きの荷台に乗せられ、イメルダも一緒に乗り込んだ。
「イメルダ?降りよう!早く!」
──バシンッ。
左頬に衝撃が走り、イメルダに頬を打たれたと分かった。
「ちょっと黙ってな!」
乱暴にそう言うとイメルダは僕の口をスカーフで塞ぎ、両手も後ろ手に何かで縛られた。
「あんたが黙って大人しくしてたら何もしないよ。そう約束したからね」
イメルダが知らない人に見えた。
*
幌馬車が止まり、僕はイメルダに抱かれて荷台から降りた。
何処かの森の中にある小さな小屋の前にはこっちをニヤニヤと嫌な目で見る男が二人立っていた。
「ご苦労さん」
イメルダは僕を男に引き渡した。
「くれぐれも怪我なんかさせんじゃないよ!」
「...うるせぇな」
そう言うと男の一人がイメルダを剣で切り付けた。
イメルダから飛び散った血が僕の顔を濡らし、目を見開いたイメルダの顔が視界に入った。
首を切られたイメルダはパクパクと口を動かし、首から血を噴き上げながらその場に崩れ落ちた。
何かを訴えるように僕の方に手を伸ばしたが、その後ガクンとその手から力が抜けた。
「良い子にしてなきゃお前もああなるからな」
血で染った顔で僕を見た男はニヤリと笑った。
何時殺されるのか分からない恐怖と、目の前で人が死んだ恐怖。
どちらの方がより怖かったのかなんて分からない。
ただただ男達が恐ろしかった。
汚い小屋の中で手足を縛られて転がされた僕は日に何度か与えられる固くて不味いパンを芋虫のような体勢で食べるように強要され、そんな僕を見て男達はゲラゲラと笑う。
「お貴族様の大事な大事なお坊ちゃんがこれだぜ!傑作だな!」
「無様なもんだな!」
お腹なんて空いていないし、食べる度に吐きそうになっていたけど、吐くと頬を打たれたり蹴られたりするので必死に飲み込んだ。
小屋の中は僕が放り込まれている物置のような小さな部屋と男達が過ごしている部屋しかないようだった。
トイレなどある訳もなく、部屋の隅に置かれた鍋の中に用を足すように言われていたが、縛られた手足では失敗する事が多く、失敗する度に頬を打たれた。
「次やったら...分かってるな」
イメルダを殺した剣を見せられ脅される日々。
窓がないのにランプだけが煌々とした薄汚い部屋にいると次第に昼夜の感覚はなくなり、苛立ち始めた男達からは「お前は家族に見捨てられた」「お前の為に金は出したくないんだとよ、お前の家族は」と言われ続け、僕の中から少しずつ色んな希望が消えていった。
そんな日が続いて、僕はもう家に帰る事なんて出来ないのだろうと全てを諦め始めた頃、僕は助け出された。
そしてまた僕の目の前で人が死んだ。
僕自身も殺されかけた。
殺された男の血で目の前が真っ赤に染まった。
鉄錆のような強い臭いが僕の全てを覆い尽くしてしまいそうだった。
その後どうなったのかは覚えていない。
気を失った僕は屋敷に戻されていて、目が覚めたら目を真っ赤に腫らし青ざめた両親の顔があった。
そんな両親を見て僕は「怖い」と感じてしまった。
その後誰を見ても怖くて恐ろしくて、僕は部屋に閉じこもった。
外に出るのも怖く、見るのも怖い。
人が近付く気配が怖い。
何もかもが恐ろしくて、信じたいのに信じられない。
数年経ち前よりは幾分か人が怖くなったものの、相変わらず外が怖くて見る事すら出来ないでいた。
幼馴染であり王子であるアーレンが僕を訪ねてきたのはそんな時だった。
僕が閉じこもっている間にアーレンには婚約者が出来ていて、アーレンの世界は進んでいた。
何もかもが止まっている僕とは違い、アーレンはキラキラした世界にいる。
それが羨ましいのに何処か他人事で、僕とは切り離された別の世界の出来事のように感じていた。
その後も度々僕を訪ねてくるアーレンから婚約者の話をよく聞く事になった。
少し気が強い公爵家のご令嬢。
赤い髪に赤い目の薔薇のような女の子。
ベルが、ベルがと楽しげに話すアーレンを見ているとその女の子に少しだけ興味が湧いたけど、アーレンは「ルーカスの事をベルが好きになったら困る」と言って会わせてくれなかった。
僕みたいなのを好きになる女の子なんているはずがないのにアーレンはおかしな事を言う。
*
「ルーカス...この世界が物語の世界だって言われたら、お前は信じるか?」
ある時アーレンにおかしな質問をされた。
「...物語の世界だとしたら、僕は少しだけ救われるかもしれない。でも、僕の苦しみも痛みも数行で書き記されて終わるのは、少しだけ悲しい、かな?」
「......」
何とも言えない顔をしたアーレンが面白いと思ったが、僕の表情は動かなかった。
僕の表情はあの日から喜怒哀楽の喜と楽を作る事はなくなってしまった。
怒の感情は昔からあまりなかったが、哀の感情は突拍子もなく現れて僕の内を千々に乱す。
嵐のように荒れ狂う感情は自分では抑え込む術がなくその感情に囚われていく。
これでは駄目だという事は頭では分かっているのにどうしても抜け出せない。
そんな時アーレンがどうしてだか婚約者を連れて来てもいいかと言ってきた。
「いいよ」と返事をしたら翌日連れて来たのには驚いた。
アーレンの婚約者を見ても僕の心は動かなかった。
少しキツそうな顔をした女の子は僕達の話を黙って聞いていたのだが、突然立ち上がると窓へと近付いて「失礼しますわね」と言うとカーテンと窓を開け放した。
「お部屋の空気が悪すぎますわ!」
「なっ、なっ、何してるんだ!」
「空気の入れ替えですわ!ルーカス様、この部屋の空気は悪過ぎます、これでは心だけではなく体まで病んでしまいます!」
「......」
「わたくしにはルーカス様のお心の傷は計り知れません。ですが、勿体ないと思いますの。恐ろしい事にばかり心を取られて美しい物、楽しい物も知らずに閉じこもる事がとても勿体ないと思いますの。ほら、外はこんなにも温かく美しいのに」
そう言った彼女は赤く煌めく髪に緑色のドレスを纏っていた。
「薔薇のような女の子だよ」
そう言って笑っていたアーレンの顔が浮かぶ。
本当に大輪の薔薇のような女の子だと思った。
「ルーカス様?恐ろしい事から逃げる事も大切です。ルーカス様のお心を守る為の手段ですもの、当然ですわ。ですが、それ以外の物から目を逸らすのは本当に勿体ないと思いますの。ルーカス様を守る為にこの御屋敷は厳重な程に警備されております。少なくとも現状のこのお屋敷の敷地内はルーカス様を脅かすものはないと言っていいと思いますの。そんな安全な場所におられるのですから、ルーカス様の慰めになるようにと整えられたお庭に目を向けてみてもよろしいのではなくて?もう少し周りに目を向けてみても罰は当たらないのではないかしら?きっと世界はルーカス様が思うより優しいものに溢れていますわ。それを知らずに閉じこもっているだけなのは愚かだとわたくし思いますのよ」
「愚か...」
「ええ、愚かです。怖がってもいいのです。ですが逃げてばかりでは、目を逸らしてばかりではいけません。ルーカス様を本当に心から大切に思っている者達から目を背けるのはその者達に失礼です」
「失礼...」
「これ程までにルーカス様を守る為に皆が心を砕いている。それは皆がルーカス様を愛しているからですわ。その愛をただ享受するだけで何も返さないのは失礼と言っていいと思いますわ」
「僕は...守られている?」
「外に出るのが怖いのは仕方のない事。ですがそのせいで窓すら開けず空気の悪い部屋に閉じこもるのはよろしくありません。日に一度でも構いませんのでこうやってお部屋の窓を開けて外を眺めるのも良いのではありませんか?もしも1人で外を見るのが怖いのならば信のおける者をお呼びになればよろしいのですわ。ルーカス様には信のおける者はこの屋敷に1人もおりませんの?」
「...いる...皆の事は、信じてる」
「その言葉、皆に聞かせて差し上げてください。きっと喜びますわよ」
彼女の言葉は閉ざされていた僕の心にすんなりと入り込み、僕の心をこじ開けた。
得意そうな顔をして笑う彼女の笑顔に目が奪われる。
鮮やかな赤い瞳が僕の胸に火を灯す。
僕の世界に色が戻る。
全ては彼女を基点に色付いていく。
血が通い始めたように僕の中に何かが芽生える。
外の世界はまだ恐ろしいけれど、彼女がいるのならば少しだけ踏み出せそうな気がする。
彼女の隣で笑うアーレンがほんの少しだけ妬ましく感じた。