「結婚して猫を飼おう」と約束したあなたは今日私を殺す
『あの山の頂にある桜の木の下で君に正式にプロポーズしたい』
あなたがそう言ったから、あなたは本当に私を殺すつもりなのだと知った。
*
「今日はあいにくの天気だね」
前を歩くあなたが曇天を見上げてすまなそうに言った。
「ごめん。明日はまた出張が入っていて、どうしても今日じゃないとダメで」
「ううん、いいの。こういう天気でも空気はおいしいし、楽しいもの。さ、どんどん歩きましょう」
「そうだね」
ほっとしたあなたは前を向くと登山を再開した。
今日の天気は曇りのち、雨。しかも平日の午後とくれば、登山道に私達以外の姿が見えないのも道理だ。
まさに私を殺すのにうってつけのシチュエーション。そう思ったら苦笑いがこみあげてきた。そして自然とあなたとの思い出を振り返っていた。
そう――あれはひと月前のことだった。ちょっと違う景色を見たくなって、いつものランニングコースをはずれてみたのは。
偶然入った公園で、私はベンチに座るあなたを見かけた。そして――あなたの隣にはN国のスパイが座っていた。
私は以前そのスパイをとある現場で見かけたことがあった。
私はそれまで思い込んでいた。あなたは普通の会社員だと。変則的な出張の多いエンジニアで、出張先のジムでトレーニングをするというちょっと変わった趣味はあるけれど、ごく普通の人だと。
私とあなたとの出会いも最寄り駅前のジムだった。
*
前を歩くあなたの背中はリュックサックごしでもたくましい。その筋肉の質を維持するためにあなたが費やす時間を私は微笑ましく思っていた。休日、二人で家で過ごしているときでもふらっとジムやランニングに出かけてしまうあなたのことを、私は苦笑しながらもいつも快く送り出してきた。結婚の話も自然と出ていた。
だがそれもすべてまやかしだったのだ。
出張であなたが不在のときに、私は信じあう二人にとっての禁をおかした。あなたの個室に入り、あなたの持ち物を入念に調べたのだ。そして知った。あなたがN国のスパイであることを――。
『殺害実施はX月Y日、夕方を予定する』
『場所はA山の山頂』
『遺体の回収を依頼する』
『目印は桜の大樹』
厳重にパスワードがかけられたあなたのパソコン、N国の諜報部と交わすメールの中にその文章を見つけた翌日、私はあなたから驚愕の告白を受ける。
『……君のことを愛してる。だから覚悟を決めたよ』
出張先から戻ったあなたは私を抱きしめながら耳元でささやいた。
『来週の火曜、A山に登りにいかないか。あの山の頂にある桜の木の下で君に正式にプロポーズしたいんだ。桜の舞い散る中で。君は桜が好きだから……』
*
「疲れた?」
「いいえ」
何度も振り返るあなたに私はそのたびにゆるく首を振る。
「でも今日はなんだか静かだ。いつもより元気がないみたいだね」
「そんなことないわ」
どうして私は今日、この登山をすることを受け入れたのだろう。頂上に着けば、あなたは私を殺そうとするのに。それがわかっていて、どうして――。
「荷物、持とうか」
「大丈夫よ」
安心してほしくて――油断させたくて――笑ってみせると、あなたは少しためらったものの、「もう少しだから」とまた前を向いて歩きだした。
「……ふう」
あなたに気づかれないよう、そっとため息をつく。このリュックサックには護身用の銃とナイフをひそませているから、あなたに持たせるわけにはいかないのだ。それと、水筒。無味無臭の特別な薬を溶かしてある果実水が入った水筒にも気づかれるわけにはいかない。
私にあなたを殺せるだろうか?
その疑問はあなたの告白を受けてからずっと私の頭の中をめぐっている。
私自身は三年前に裏稼業から足を洗っている。けれど今も最低限の鍛錬は欠かさない。いつ誰に寝首をかかれてもおかしくない所業を繰り返してきた自覚はあるからだ。でもまさか初めての危機が愛するあなたによってもたらされるとは……。
「……私に結婚なんて無理だったのね」
「え? なに?」
「ううん。なんでもない」
ごく自然な出会いだったし、あなたはどこかとぼけたところもあって。だからまさかあなたが同業種の人間だとは思いもよらなかった。もちろん、あなたの素性は確認してあった。それでも細部までチェックしようと思わなかったのは、あなたのことを信じたかったからだろう。
「どうした? やっぱり荷物持とうか?」
「ほんとに平気。さ、もう少しで頂上よ」
私はまだ迷っていた。あなたを信じたい。でも信じれば――殺される。
ううん、【私があなたを殺すことになる】。
私が平穏な生活を送り続けるためには、やはりあなたを殺さねばならないのだ。
*
頂上にたどりつくと、確かにそこには一本の桜の大樹がそびえていた。ただ、桜はくしくも散っていた。
「ごめん。これじゃあ理想的なプロポーズにはならないな」
あなたが困ったように笑い、私の胸がつきんと痛んだ。そうだ、私はあなたのそういう笑顔が好きだったのだ。
「ひとまず休みましょう?」
「うん。そうだね」
青々とした葉桜の下にあなたが嬉々としてピクニックシートを敷く。その様子を見ながら、私はそっと唇をかんだ。これはチャンスだ、と。今しかない、と。
「……喉、乾いたでしょ。果実水を作ってきたから飲みましょう?」
少し声が震えてしまったけれどあなたは気づかなかった。ただ、次の瞬間、私は見てしまった。まだ開いたままのあなたのリュックサックの奥、鈍く光る黒い物体を。見慣れた金属製の物体を。
ごくり、と自然と喉が鳴っていた。
蓋をゆるめかけていた水筒をいったん膝の上に載せる。
「プロポーズの件、だけど」
突然私が言い出したものだから、あなたはきょとんとした顔になった。
「今、してもらってもいい?」
「え、今?」
「うん」
「でもそれは。えと、どうしよう」
急なことにおたおたとするあなたは、悲しいくらいにいつものあなただった。それが嬉しくて、私は自然と次の言葉を口に出せた。
「その後だったら私のことを殺してもいいわ」
さあっと、強い風が二人の間を吹き抜けていった。しばらく二人とも無言だった。
「……知っていたのか」
「ええ」
硬くこわばったあなたの表情に、私はとっさに視線をおとした。これ以上、私の知らないあなたを見たくなくて。あなたは私の前ではいつも微笑んでいたから。
「私、登っている間ずっとあなたのことを考えていた。あなたとの想い出を振り返っていた。そしてわかった。私、やっぱりあなたを嫌いになれない。だから……私にはあなたを殺せない」
「……僕も君のことを愛している」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない! 僕も君のことをいつしか本当に愛するようになっていた。でもこれは任務で、国を裏切れば僕も、僕の家族も殺される。だから……ごめん」
「いいのよ」
「死ぬまで君を幸せにすると誓いたかったのに……」
あなたがこらえきれずに涙を流した。
「もう十分幸せにしてもらったわ。恋をしたり、けんかをしたり……将来を夢見たり。ふふ、結婚したら一緒に猫を飼おうなんて話もしてたわよね。そんなの今までの私の生活では考えられなかったから……だからもうそれで十分」
私は水筒を持ち上げてみせた。
「これね、睡眠薬入りなの。あなたに飲んでもらおうと思って作ったんだけど、今、私が飲んでもいい? そして私が眠りについてから殺してくれる?」
「……だったら」
あなたがリュックサックからクッキー缶を取り出した。
「このクッキーを食べてくれ。これには眠るように死ねる薬が含まれているから。痛みも……ないから」
「ありがとう」
私は水筒からよく冷えた果実水を注ぎ、ゆっくりと飲み干した。その様をあなたは射るような瞳で見つめていた。そして私はクッキーを口にした。バターがたっぷりと使われている、私の大好物のクッキーを。
食べ終え、私はレジャーシートの上に寝転んだ。見上げた葉桜に、これが満開の桜だったらと少し残念に思った。
「今までありがとう」
私は笑みを浮かべたまま瞳を閉じた。
「ありがとう。そして……さようなら」
*
春も夕暮れ時にもなれば寒さが強まる。
「これが例の敏腕殺し屋か」
「ええ」
くもぐるような声でも、それがあのN国のスパイとあなただということはわかる。
「新人のくせによく殺れたな。どうやったんだ?」
「企業秘密だ。じゃあ僕はこれで」
あなたが足早に去っていく。ただ、その足取りはどこかおぼつかなかった。
「ふん。女一人殺したくらいであんなに動揺してたら、この業界じゃあ長くはやっていけないな」
スパイのあざけるような声をあげた。
「さあて。それじゃ遺体を運ぶとするか。……ん?」
スパイがそれ以上の驚きを口にするよりも早く――私は仮死状態だった体で強引に起き上がるや、袖口に仕込んでおいたナイフでスパイの首を一息に掻き切った。
*
細雨が降りしきる中、私は甲板にもたれかかっている。海の向こうには三年暮らした街並みがぼやけて見える。
本当はこのS国であなたといつまでも暮らしたかった。けれど、もうその願いはかなわない。
あなたのリュックサックには予想通りクッキー缶が入っていた。漆黒の筐体が物珍しい、駅前のお菓子屋さんのクッキー缶が。
だからわかった。あなたがクッキーを使って毒で私を殺そうとしているのだと。
そして知った。あなたはやっぱり優しい人だと。私が愛した人だと。痛みも苦しみもない殺し方を選んでくれた、それがすごくすごく嬉しかった。
あなたが習得している殺しの方法は調べてあり、あなたが使いそうな毒も把握していたから、果実水には睡眠薬のほかに解毒剤も仕込んであった。
ただ、あなたが他の方法をとった場合――たとえば銃とかナイフとか――私もまたあなたを確実に殺していたかもしれない。
ああもう、感傷的になるのも過去を引きずるのも終わりにしよう。
出国したらもう一度整形して、身分を詐称しなくては。それから住まいを探して、新たな人間関係を構築しなくては。それらの手間を思い出すとゆううつになる。ああでも、次は他人を近づけ過ぎないようにしよう。そして、二度と恋はしない。絶対に。
真っ暗な海の上を客船はゆっくりと進んでいく。生きることを選んだ私を乗せて。この先にある未来に期待するものは何一つとしてないのに。
*
あなたが亡くなったことを知ったのはその十年後、J国のさびれたアパートメントに隠れ住んでいる時だった。
L国の総理大臣を拉致しようとして相手方のボディーガードに射殺されたのだという。
あなたが現役を続けてこれたということは、私の殺人に失敗したことは結局ばれなかったということでもある。
もう裏稼業から足は洗っているとはいえ、生きるために必要な情報を遮断するわけにはいかなくて――それゆえ私を狙いそうな国や会社、人物についての動きは常に把握し続けていた。そこには当然あなたも含まれていた。
入手したあなたの近影はモノクロでもあなたそのものの優しさにあふれていた。
「……あ」
ぽたり、と涙が手の甲に落ち、私は自分が泣いていることに気づいた。
あなたの訃報を知った瞬間、私は喜ぶべきだった。私をだまし、殺そうとしたのだから。それに私が実は生きていると知ったら真っ先に私を狙いに来る人物はあなただ。
「……ああ」
なのに――気づけばあとからあとから涙がこぼれた。
*
その一年後。私は変わらずJ国で隠匿した生活を送っていた。整形した顔もそうだが、筋肉は落ち、髪は乱れ、以前の私とは別人のように陰気な中年女に成り下がっていた。
だがある日、食料を買いに外出しようとしたら、なんと一匹の黒猫がドアの前に座っていた。明らかに野良猫といった風情の、目やにや鼻水を出し、がりがりにやせた黒猫が。
猫は意外なほどのすばやさでドアの隙間からするりと家の中に入ってしまった。さすがにつまみ出すのはかわいそうで、私は黒猫に餌と水を与え、体を洗ってやった。野良のわりには黒猫は意外なほどおとなしかった。そして夜は私のベッドで丸まって寝た。あなた以外の人とベッドを共にするのはこの黒猫が初めてだった。
その夜、私は一風変わった夢を見た。
私は若く、美しかった。そしてS国のA山の頂に立っていた。あの桜の大樹は満開だった。そして淡いピンクの花びらが舞う中心であなたがほほ笑んでいた。
『僕と結婚してください』
そう言ったあなたが取り出したものは指輪だった。
『僕は死んでも君を幸せにしたいんだ』
『なにそれ』
唐突かつおかしな台詞に笑ってしまった。
『前は「死ぬまで私を幸せにしたい」って言ってたじゃない』
『生きている間、僕は君を幸せにできなかったから……』
あなたが悲し気に目を伏せた。
『でも君を幸せにしたいと思っていたのは本当だ。君を愛していたのも本当だ。だから君がこちら側にいなかったことを知って、僕がどれほど嬉しかったか』
『……こちら側?』
あなたは私の質問には答えなかった。
『僕をゆるしてくれるなら……いいや、僕をゆるさなくてもいいから。お願いだ。これからは僕をずっと君のそばにいさせて。今度こそ。僕が死ぬまで』
*
不思議な夢の効果か、それともすぐそばで眠る黒猫が理由か。目覚めから私はどこかふわふわとした心持ちになっていた。その浮遊感を抱いたまま、私は朝一で黒猫を病院に連れていった。
「推定一歳、オスですね。野良猫のようですが、今後はあなたが飼う予定ですか?」
あらかたの診察を終えた後、医師に訊ねられた。これに私は自然とうなずいていた。
「そうですか。よかった。ところで名前は決まっていますか?」
「名前は――」
迷ったのは一瞬だった。
「ティムです」
*
その後もまめに通院し、黒猫はすっかり元気になった。去勢させ、最終的にはマイクロチップも入れ、これで私は名実ともに黒猫の飼い主となったのである。
「ねえ。あなたはティムなの?」
ある日、窓際で日向ぼっこをする黒猫に訊ねてみた。けれど黒猫は何も言わなかった。大きなあくびをし、瞳を閉じ、やがて気づけば眠っていた。
少し開いた窓の向こうでは桜の花びらがひらひらと舞っている。
黒猫と、桜と。両方をなんとはなしに眺めていたら私の瞼も重くなり、黒猫の隣で背中を丸めて眠りについた。
了