流木もまた鳥の寄る辺なれば
その勝負において、勝敗を決する要素は二つ。
標的の細かな特徴も見逃さない集中力と、経験値だ。
じっとその標的を見据える少年、ケートは後者はともかく、前者は既に一端のものを備えつつあった。
その集中力たるや、夕刻の商店通り、人通りの特に多いその時間帯の雑踏も全く意識に入らないほどだ。
十秒ほど標的を睨み、意を決し口を開く。
「……真ん中のそれと、それは左から二番目、あとそれは一番右のを頼む」
ケートと相対する人物は腕を組み、視線で問いかける。
本当にそれでいいのか、と。
見据えられたその目に、ケートの心に一瞬の迷いが浮かぶ。
が、それを振り払ってこくりと頷いた。
相手はしばし難しい顔をしていたが、やがてにやりと笑った。
「……当たりだよ。あんたも中々やるようになったじゃないか」
鼻を鳴らしてケートが指さした標的、脂の乗った魚を取り、包んでいく。
やりとりを見物していた客も、感心したような声を上げる。
ケートも大きく息をつきながら、女店主に笑みを返した。
「そりゃ、旦那にも散々頭を叩かれて、最近やっと色々任せてもらえるようになったからな。そろそろ当てられないと」
「ふん、見習いのヒヨッコが偉そうな口をきくようになったもんだ」
軽口をたたき合いながら、魚の入った包みを受け取り、銅貨を手渡す。
「今日は店は休みだったはずだけど、例の別口の仕事かい」
ケートが肩に提げている、魚の包みを仕舞ったズタ袋をちらりと見ながら女店主が聞く。
中に入っているのが全て食材であることを察したのだろう。
とてもではないが、ケート一人で食べ切れる量ではない。
「ああ。今から行ってくるよ」
女店主が察した通り、昼間働いている食堂とは別の、いわば副業に当たる仕事。
これから、人の家に食事を作りに行くのだ。
ズタ袋の中身の食材は、全てその仕事で使う分だ。
作る相手は質よりも量のほうを好むが、どうせなら良い物を使って作ってあげたい、というケートの拘りが、先ほどの彼の目利きにおける集中の源だった。
「それじゃ、がんばんなよ」
「どういう意味だよ、それ」
にやにやと笑みを浮かべながら手を振る女店主に礼と別れを告げ、雑踏の中に入り込む。
ぎっしりと中身の詰まったズタ袋が周囲に当たらないように、あるいはくすねられないように固く抱えながら人の波の中を縫うように歩いて行く。
前にケートが暮らしていた場所よりも、幾分か治安の悪い場所である。
あまりに周囲を警戒しすぎて、逆に怪しまられない程度には、気を配る必要があった。
歩を進めるうちに、周囲の人の足取りが、少しずつゆっくりになっているのに気がついた。
それと反比例するように、がやがやとした喧噪は大きくなっていく。
そして、人の流れはほぼ完全に止まってしまった。
人だかりの先からは穏やかではなさそうな声が聞こえてくる。
怪訝に思い、爪先で立って奥を伺うと、獣のような、というよりは獣そのものの風貌の男が二人、互いの胸ぐらを掴みながら罵り合っていた。
牙をちらつかせ、口汚く互いを威嚇し合っている。
どうやら、獣人種の亜人同士の喧嘩のようだった。
彼らを中心にして、人だかりが円を作っている。
そのほとんどは、興味半分に近寄ってはみたが、巻き込まれるのは御免だと言うように、ある程度以上は近づこうとしない。
ケートもその多分に漏れない。
目的地はこの先、だけど面倒ごとはなるべくなら避けたかった。
遠回りになってしまうが、仕方ない。
ため息をつき、きびすを返そうとしたそのとき、見覚えのある物がちらりと視界に入り、思わず振り向いた。
青白く細長いものが二本、人混みの中からにゅるりと伸び上がり、鎌首をもたげると男達に向かっていったのだ。
それぞれの足に絡みつくと強引に引き剥がし、男達は先ほどの威勢とはうって変わって情けない悲鳴を上げながら、あっという間に逆さ吊りにされてしまった。
頭足類を思わせる、無数の吸盤のついた二本の触腕。
間違いなく、彼女だ。
この都で暮らしてそれなりになるケートだが、心当たりは一人しか思い当たらない。
これから行う『別口の仕事』の、その雇い主の少女だ。
ケートの確信を裏付けるかのように、人混みが分かれたそこから、平坦な声とともに姿を現した。
中背のケートよりも頭一つ分は小さな背、触腕と同じ青白い肌に、背中には有機的な形状の甲殻を背負い、そこから触腕が伸びている。
「何があったか知らないけど、もめ事なら人のいないところでやって」
それだけ言って、触腕の力を抜く。
重力に従って男達は落下し、べしゃりと石畳に叩き付けられた。
男達のうち、一人は怒りの声とともに即座に立ち上がり、彼女に向かって握り拳を作るが、ゆらりと触腕が持ち上げられると、その動きを止めて固まった。
それなり以上の体つきの男二人を軽々とつるし上げる触腕に、膂力では到底敵わないことを悟ったのだろう、
這いつくばったままのもう一人は、自然と彼女に見下ろされる形になり、何か言いたげに口を動かしていたが、やがて舌打ちをついて立ち上がり、ぶつぶつとぼやきながら人混みを分け、立ち去っていった。
残された一人も、短く悪態をついてそれに習った。
男達の背中が別々の方向に遠ざかっていくと、人だかりも次第にその密度を薄めていく。
彼女もまた、騒ぎの場所から背を向ける。
はっと我に返ったケートは、大きく手を振り、彼女に呼びかけた。
「エキア!」
ケートの声に彼女は振り返り、ケートと目が合うと、顔をほころばせた。
エキアは先ほどとは正反対の、どこか弾んだ声でケートの声に応えた。
「こんにちは、ケート。やっぱりここにいた」
ケートの隣に駆け寄ってくる。
長く伸びていた触腕は、周囲の邪魔にならない程度の長さにまで縮んでいて、彼女の体の動きに合わせて小さく揺れている。
「君がこの辺りに来るのは珍しいな」
ほぼ毎日この商店通りに足を運んでいるケートだが、エキアの特徴的な姿は今まで見かけたことがなかった。
「うん。今日はお仕事が早く終わったから、ケートはまだお買い物かなって思って来てみたの」
言いながら、エキアはケートの隣を並んで歩く。
「それだったら、とんだ災難だったな」
わざわざ足を運んだというのに、ゴロツキ同士の喧嘩を見る羽目になるのは気分の良い物ではないだろう。
ケートの言葉に、しかしエキアは首を振る。
「ううん、大丈夫。おかげでケートにも会えたしね」
エキアの言葉は素直なもので、それだからかケートはなんとなく面はゆい気持ちになる。
「ケートは、まだお買い物の途中?」
何気ないエキアの問い。
しかし、声はどこか遠慮がちだ。
同時に、ズタ袋から軽い振動が伝わってくる。
横目でちらりとエキアの触腕の付け根の当たりを見れば、自然に揺れるのとは別に時折小さく動いていて、それに合われてズタ袋からも動きが伝わってきた。
エキア自身の視線も、ちらちらとズタ袋へと向けられていた。
今にも腹から音が鳴りそうなエキアの様子に、ケートは小さく苦笑する。
「いや、もうだいたい済ませたよ。今からでも行けるけど」
いつも彼女の家に行く時間よりは大分早いが、まあいいだろう。
少しはにかみながら、エキアも頷いた。
「うん。それじゃあ、お願いしていい?」
ケートが前に住んでいたところでは、水に困ったことは一度もないが、ここでは綺麗な水というのはそれなりに高級品で、水売りなどという商売が成立しているほどだ。
綺麗な水が好きに使える環境は、それこそお城や、貴族を始めとする富裕層が住んでいる貴族街くらいだろう。
エキアの家はその貴族街にある一軒家で、水道が引かれている。
井戸の水くみが毎日の日課であるケートは、それにうらやましさを感じなくもないが、今住んでいる部屋と比べると、住むための費用も冗談のように高いのだろう。
かつての暮らしを、少し懐かしく思いながら食材を刻むケートの後ろでは、テーブルについたエキアが 料理の完成を待ちながら、書物と向き合っている。
この都から遠く離れた辺境に住んでいたエキアは、一般的な教養にいささか疎く、友人や仕事の仲間のすすめでこうして勉強しているのだという。
しかし、勉強ばかりだといささか退屈になってくるというのは、彼女も同じらしい。
背後に感じた気配にナイフを置き、手を小さく振り下ろした。
ぺちりと音がして、気配が引っ込んでいく。
エキアが席を立った物音や様子はない。
触腕だけを伸ばしていたのだろう。
「いいじゃない、ちょっとくらい」
唇を尖らせるエキアに、ケートは小さくため息をつく。
「そんなこと言って、前は盗み食いしたせいで肉が少ないって文句を言ってたじゃないか」
華奢な見た目に反してかなりの健啖家であるエキアの言うちょっとは、ケートの感覚とは大きく離れている。
以前には、僅かに目を離した隙に鍋の半分近くを平らげていたことすらある。
「味見ならあとでさせてあげるから」
再びナイフを手に取り、振り向くこともなく言ったケートに、後ろからは、むー、といううなり声が聞こえてくる。
「腹を減らしてたほうが、きっと美味しいよ」
小さな、わかった、という声。
やがて完成したスープを小皿に取り分け、脇に置かれている小さな机に置く。
するとそれを敏感に察知したのか、するりと伸びてきた触腕が器用に小皿を持ち、エキアのもとへと運んでいく。
「どう?」
少し振り返って尋ねると、エキアは何度か首を捻り、答えた。
「うーん、少し辛味が足りないかも」
エキアの答えにケートは少し嬉しくなり、鍋に香辛料を混ぜていく。
自然と、笑みも浮かんでくる。
彼女の家で作り始めた頃は、好みの料理や味の違いこそわかるものの、味そのものに無頓着で味見をし てもらっても、これでいい、としか言わなかったので、こうやって細かな注文をしてくるほうが、作りがいがあるというものだった。
そして、出来上がった料理を食卓に並べていく。
エキアが座っている席と、その向かいの席に。
最後の一品を置くと、エキアの向かいの席につく。
ケートが座ったのを見るや、エキアは食前の祈りもそこそこに、ぱくぱくと食べ始める。
雇い主と雇われ者が食卓を同じにする、というのは都の有力者が集まるこの区画ではとても珍しい、というかほとんどないのだと思う。
辺境育ちで、その地で強い影響力こそあるものの貴族ではなく、食事は常に誰かと食べる習慣があるエキアだからこそ、こうやってケートも一緒に夕食が食べられるのだろう。
難しい顔をして書物と向き合っていた時とはまるで違う、実に幸せそうな顔で食事を進めるエキアを眺めながら、ケートも取り分けられたスープにパンをつける。
エキアの分はケートの取り分の数倍もの量があるにも関わらず、既にその半分ほどがなくなっている。
皿と机で見えないが、装束越しでも彼女の腹がぽこりと膨れているのがわかるはずだ。
料理屋では出さない、油で揚げた魚の骨も、強力な顎でバリバリとかみ砕いていく。
中の骨髄がお気に入りらしい。
本来ならば捨てるような部位も平然と食べるのは、彼女の種族のなせる技なのだろうか。
具材の欠片も残さずに綺麗に平らげたエキアが、思い出したようにケートに声をかけた。
「前から言ってたけど、明日から何日か家を空けるから」
ケートもスプーンを止めて頷いた。
壁のカレンダーには、ケートが食事を作る日には印があり、その印が明日から途切れている。
「ああ、仕事だっけ」
「うん、ちょっと遠出が必要みたい。7日くらいで帰ってこれると思うけど」
エキアがこの都でしている仕事は、いわゆる戦う仕事だ。
あまり公にできないものらしく、詳しくは彼女も話さないが、かなり危険な仕事、というのはなんとなく察していた。
夕方のゴロツキも、彼女からすればどうということはない相手だったのだろう。
「帰ってきたら、また連絡するから」
「わかった。その時には、君が好きなものでも作るよ。あの『骨も鱗もない魚』でいい?」
その名前を聞いてエキアは笑顔で頷いた。
「うん、お願い」
エキアは肉や魚を主に食べるが、食べたときに言葉を失うほど美味しかったというのが、骨も鱗もない魚、つまりパイ包み焼きだという。
「楽しみにしてるね。……それはそうと、仕事の方は大丈夫なの?」
当然だが、その期間はエキアからの仕事はない。
料理屋の給料だけでやっていけるのか、という意味だろう。
ケート自身は金に困ってこの仕事をしているわけではないのだが。
「ああ、それなら大丈夫だよ。料理屋だけじゃ生活ができないってわけじゃないし……エキアが仕事の間、いい稼ぎのある仕事も入ったしね」
笑みを浮かべるケートにエキアはきょとんと首をかしげる。
「ほら、前に君が話してた友達っていう子がいただろ。朱金騎士団の聖女様」
「ナフネリ?あの子がどうしたの?」
「しばらく昼食を届けてほしいって頼まれたんだよ。平民出身だから騎士団の食事はあんまり口に合わないんだってさ」
恐らくはエキアを通じてケートのことを知ったのだろう。
思い当たる節があるのか、エキアも頷いた。
「店に来て頼まれたときは驚いたよ。旦那も目が点になってたしね」
「あの、いつも難しそうな顔してる人が?よほど驚いたのね」
その光景が頭に浮かんだのか、くすくすとエキアも笑う。
「その後釘を刺されたけどね。まだまだ未熟者だってのを忘れるなよって」
当然というか、騎士様のところにうちの名前で変なものを出されるわけにはいかないと、旦那の監修付きの料理を届けることとなっている。
「それじゃあ私も、ケートがどれだけ上達したか、期待してるね」
「そんなに急にはうまくはならないと思うけど……まぁ、期待に応えられるよう頑張るよ」
にこりと笑って頷く。
エキアに遅れてケートも自分の食事を終え、食器を片付けていると、エキアから声をかけられた。
「あ、言い忘れてた。ケート、この日ってお休みは取れそう?」
エキアがカレンダーのとある日付を指さす。
三週間後だった。
「今から旦那に頼んだらなんとか休ませてはくれると思うけど……どうしたの?」
するとエキアは意味ありげに笑う。
「メシェのことは、何度か話したでしょ?私の仕事仲間の」
「ああ、確か貴族の……」
エキアとは仲が良いらしく、ケートもその人物のことは彼女からよく聞いていた。
これまでに聞いた話をまとめると、貴族の娘、それも都から南にある広大な領地を治める大貴族のお姫様らしい。
今はこの貴族街の屋敷のどれかに住んでいるそうだが。
「メシェがね、その日に親しい人を集めて小さめのパーティを開くらしくて。私も呼ばれてるんだけど、ケートも一緒に来る?」
「へぇ俺も……は!?」
思わず食器を落としそうになり、持ち直そうとしてバランスが崩れたところを、伸びてきた触腕に支えられる。
もう一本の触腕がケートの持っていた食器を取ってテーブルに戻した。
「もう、気をつけてね」
「あ、ありがとう。……じゃなくて!」
平民扱いの自分が?
そんな貴族様のパーティに?
混乱するケートに、エキアは予想通りというようないたずらっぽい笑みを浮かべた。
「メシェにね、友達も呼んでもいいかって言ってみたら、一人二人くらいなら大丈夫だって言われたから」
理解が追いつかず、何かをこね回すように腕を動かしてしまう。
「でもそういうのって招待状とかが」
「それなら、ケートの分も書いてくれるって。また渡すね。それとも当日に渡すから一緒に行く?」
「そ、そもそもその人、俺が平民だって知ってるの?」
「わからないけど、エキアさんのご友人なら歓待しますよ、って言われたよ」
質問攻めにしてしまうケートだったが、エキアはそれにすらすらと答えていく。
その後も何か言おうとするケートだったが、大丈夫、とエキアがそれを遮った。
「ケートの心配事はよくわからないけど、大丈夫よ。メシェ、すごくいい人だから。貴族じゃない人にもいつも優しいし」
「……それは、そうなんだろうなぁ……」
深い息とともに、そんな言葉が出てくる。
今までにエキアから聞いた話から伺う限りでは、とてもおおらかでいい人なのは間違いないのだろう。
とはいえ、気後れする部分はやはり大きい。
自分なんかが行ってもいいものなのだろうか、と。
「それで、どうするの?ダメなら断っておくけど」
「ううん、ちょっと待って」
しかし、正直なところ、行ってみたい気持ちはもちろんある。
貴族の食事なんて、滅多に味わえるものではないだろう。
味の勉強にもなるかもしれない。
それに。
先ほどのエキアの言葉を思い出す。
うん、やっぱり。
深呼吸をひとつして、答えた。
「……うん、行くよ」
微笑んで頷く。
エキアも嬉しそうに手のひらを合わせた。
「わかった。それじゃメシェには言っておくね」
食器を片付け、ごみの始末を終えると、ケートの仕事は終わりになる。
玄関を出て空を見上げると、月はもう頭上へと上っていた。
貴族街では石畳に特殊な鉱物が使われているものがあり、日中浴びた光を夜間放出し、夜道を明るくする仕組みになっている。
ケートの持つランタンの光と、隣を歩くエキアの体の各部にある発光器官がぼんやりとした光が放ち、石畳と合わせて夜道を幻想的に照らしている。
最近物盗りが現れるらしく、心配したエキアに区画の境まで送ってもらうことになったのだ。
「悪いな。ここまでしてもらって」
「いいの。ケートは私と違って腕っ節は弱いんだから」
「女の子に真っ正面からそう言われるのは傷つくんだけど……」
しかし、エキアの言うとおりでもあるので反論できない。
「ケートが前に住んでたところでは、物盗りとかはいなかったの?」
「そりゃもちろんいたけど、ここよりはずっと少なかったよ。夜道ももっと明るかったし」
「ふうん、誰でも水がたくさん使えて、夜も治安が悪くないなんて、すごく平和な世界だったのね。冬も夏も過ごしやすいんでしょ?」
「逆に俺はこっちに来て驚きの連続だったけどね。獣人もそうだし、エキアみたいな子はそれこそ本の中の存在だったから」
かつての、自分が元いた世界のことを思い出しながらケートは話す。
ケートにとってここは、文字通りの違う世界である。
気がついたらこの世界に来ていて、争いごとに巻き込まれそうになったところをエキアが属している組織に保護されたのだ。
そして、家庭料理程度とは言え心得があることから、今の仕事を斡旋してもらい、住居の手配もしてくれた。
その組織の代表者曰く、ケートみたいな例はまれにあるのだという。
職の紹介などがあっさりと進んだのも、前例あってのことらしい。
エキアに料理を作っているのもその縁によるものだ。
「さすがに、もう慣れた?」
「そりゃね。もうこっちに来てそれなりになるし。まだまだ旦那には頭を叩かれてるけどね」
自分の頭をさするケートに、エキアはくすりと笑う。
こちらの世界に別の世界から人が飛ばされてくる、という現象の原因はよくわかっていないらしい。
原因が不明である以上予防策も解決策も編み出せていないのです、とはエキアの組織の代表の言葉だ。
なるようにしかならない以上、いつまでも慣れない、などという甘えたことは言っていられないのだ。
「君のほうこそ、さっき勉強してるときは眉間に皺が寄ってたけど」
「私は仕方ないの。仕事柄ケートよりも覚えることはたくさんあるんだから」
ぷいとそっぽを向くエキア。
それを見てケートは口元を抑えて小さく吹き出してしまう。
結局のところ、やってきたのが別の世界か遠く離れた辺境かというだけで、この都のことにまだ不慣れというのはどちらもそんなに変わらないらしかった。
エキアの家は貴族街と平民街の境にある関所の近くにあり、そう時間はかからない。
関所が見えてくると、それじゃ、とエキアは立ち止まった。
「また、帰ってきたら連絡するから」
「ああ、少しでも腕を上げて待ってるよ」
手を振り合い、エキアが背を向けるのを見届けると、エキアも関所に足を向けた。
関所の兵士に通行証を見せて門をくぐると、閑静な貴族街とは真逆の平民街の喧噪が飛び込んでくる。
とはいえ、その喧噪もどこかまばらなものだ。
思った以上に帰りが遅くなってしまったようである。
帰路につきながら、エキアとの話を思い返す。
貴族のパーティ。
楽しみだという気持ちはもちろんある、しかし。
いつも着ている服をつまむ。
貴族街に出向いているため身だしなみには気をつけているつもりだが、やはり一度汚れを落とした方がいいかもしれない。
いっそのこと、新しい服を買ってしまってもいいかもしれない。
あんまり上等なのを買っても、そのパーティの日だけ着ることになってしまうかもしれないけど。
「まぁ、いいか」
それなりの出費にはなってしまうけれど。
明日の、騎士団への届け物の帰りにでも仕立屋に寄ろうかと考えていると、ふと、前の世界のことを思い出す。
行きつけの服飾店の内装が頭に浮かんでくる。
帰り道でエキアにはああ言ったが、やはり、時折は振り返ることもある。
昔の便利な暮らし、友人や家族。
そういうものが、ぶり返す時が来る。
寂しいとは思わない、わけではないけど。
エキアの組織の代表は、こうも言っていた。
ケートのような者の中には、特異な能力が使えるようになる者や、いわゆる魔法の才がある者もいると。
そうした者たちの中には、この国での暮らしに馴染めなかったり、甘言に惑わされたりして、反体制勢力にその力を利用されてしまう者もいるのだと。
「価値観も常識も文化も、何もかも違う世界での暮らしです。戸惑いや不安、不満があるのは当然のことです。貴方の場合はそうした力は認められませんでしたが、やはりそうした感情は抱くでしょうし、積もり積もっておよそ真っ当とは呼べない生き方をしてしまうかもしれません。ですから、不満を抱きながらもその日その日を楽しく過ごせる方法をご教授致しましょう。友人を作ることです。今日の朝何食べたとか、雨で滑って転んだとか、すれ違った女性の尻が大きかったとか、そういう下らない話ができる友人を」
代表の男が言ったその方法は、本当に当たり前のことだった。
ケートはもう実践できていると思う。
常連客の中にも気楽に話せる者も増えたし、乳を売りに来る少年とも仲はいい。
それに、何より。
「友達って、言ってくれたからな」
ぽつりと呟く。
どういう経緯かは分からないが、遠い辺境からこの都に訪れて、戦う仕事をしているエキアは、ケートはとてもすごいと思っている。
すごい人が、友達と言ってくれたから。
その友達が喜んでくれるならば、高い服を仕立てる見栄くらいは張ってみよう。
貯蓄の中身を計算しながら、自分と同じ様に帰路を急ぐ人々の雑踏の中へと入り込んでいった。
フラグ全開ですが特に何事もなく