好きな人とのルームシェア、一ヶ月お試し期間
好きな人の家が燃えた。
それを聞いた瞬間の私の大慌てっぷりときたら……えっと、うまい言葉が見つからないけど、とにかく慌てたのだ。
だって家が燃えるって一大事じゃないか。怪我はなかったのかとかちゃんと保険に入ってたのかとかこれからの生活は大丈夫なのかとか!
「昨日はとりあえずネカフェ泊まったけどさぁ……はー、家探さなきゃ……めんどー……」
けれども本人の反応がこれくらいなものだから、なんとなく大したことがなかったような気がしてくる。
不幸中の幸いか外出中だったので怪我はなく、お金も手持ち以外は全て銀行に預けていたらしいので、失ったのは家だけ。大学生のワンルーム一人暮らしともなれば、物がそれほどないのもよかった。
いや、『だけ』と言えるレベルの話ではないし、よくもないんだけど。
しかし冷静になってしまった今、頭の中では邪な考えがぷかぷか浮いて彷徨っていた。
彼――鳴川の家がなくなった。
私の家は、当然ある。大学から歩いて十五分ほどのところに。
そして私が一人暮らしをしているマンションは2DKであり(前の住人がちょっとアレなことになったらしくて、お安く借りられた)、正直なところ、一室持て余しているのだった。
そしてそして、私はこの一年ほど、鳴川に片思いをしている。
「…………あのさ、鳴川」
「んー? なあに」
四限の授業後、講義室の机に突っ伏していた鳴川が、顔を上げる。話すときにはちゃんと目を見てくれるところも、好きなところの一つだった。
「うち来ない?」
「弓野んち?」
「うん。私のうち、2DKで一室余ってるから。もともとそんな高くないとこだけど、ルームシェアしたら家賃半分にできて楽だし。二人住居もOKの部屋だから、たぶん大家さんに言えば平気だと思う」
さらりとなんてことのないように言えたことに、内心密かにばんざいをする。
よし、やった。これで私の下心はバレないぞ。
しかし鳴川は、ぽかんと固まった。
「……弓野と、ルームシェア?」
「うん、どうかな」
「は? なんで? ……なんで男をルームシェアに誘う!?」
「部屋余ってるし、家賃半分になるのがおいしいから……」
「さっきと同じ答えをありがと!!」
やけになったように叫んで、鳴川はドッキリでも疑うように周囲に視線を走らせた。他の人たちは授業が終わって早々に出て行ったので、この講義室にいるのは私たちだけだ。
誰もいないことを改めて確認した鳴川は、こほんと咳払いをした。
「あー、弓野さん? 俺が男なのわかってる? 男女がルームシェアって、それもう同棲じゃん」
「友達なら同居になるんじゃない?」
「マジで言ってんの?」
呆れ声で、ぐぐっと眉間に皺を寄せる。
「ウィンウィンでしょ?」
「それは……そうかもしんないけど。別のところにめちゃくちゃ、めっっちゃ問題があるのは気になんないの?」
「でも鳴川、私に興味ないじゃん」
「………………うん、そーね」
「ほらぁ」
だからこれはチャンスなのだ。一緒に過ごす時間が増えれば、いいところを見せられる機会も増える。それは逆に、駄目なところを見られる危険も増えるということだが、ハイリスクハイリターンは別に悪いことでもない。
……すべては鳴川の家が燃えたせいだから、『チャンス』だなんて思っちゃいけないんだろうけど。
「いやー、でもさぁ……でも……駄目だろ…………?」
「じゃあ一ヶ月! 一ヶ月お試しで!!」
「そういう感覚でやるもんでもないんだわ!」
「完全なウィンウィンなのに何が嫌なの?」
「弓野の危機感のなさが嫌ですー」
危機感が必要になるなら、むしろ嬉しいんだけど。でもこんな完璧に、お前に興味ありません、って人に対して危機感持っても仕方ないと思う。
「なんもしないでしょ?」
「…………するかも」
「えっ、興味ないくせに?」
「興味のあるなしは関係ないんだよ、こーゆうのは! す、好き、じゃなくても興味なくても、男は色々できちゃうもんなの!」
この流れはまずい。鳴川の正論を打ち崩す方法がわからない。
えっと、えと、つまり、あれだよね。私の身の安全が保障されればいいってことだよね。
「じゃあ一ヶ月お試しでやって、その間私になんにもしなかったら、私にできることならなんでもしてあげるから!」
「……なんでも?」
「できることならね。五十億円ちょうだいとかは無理だよ」
「言わんよそんなこと……」
疲れたようにうなだれた鳴川は、表情が窺えないその状態で、早口なたとえ話を始めた。
「たとえば、いやこれはマジでたとえばなんだけどさ、俺的にできるかできないかめちゃくちゃ、一番微妙なラインだなーって思うから訊くんだけど、つ……付き合って、とかもいけちゃう? やっぱダメ? たとえばなんだけど」
「そのくらいなら全然いけるラインじゃない……?」
たとえ話なのが残念なくらい、私にメリットがありすぎる魅力的なお願い事だ。まあ鳴川はそんなこと言わないだろうけど。
「これが全然いけるラインなの、やばくない? 今までよく生きてこれたな、弓野……」
「そんなに!?」
「そんなにだよ! 気をつけろバーカ!」
「バカって言うほうがバカなんだよ!」
「今時そんな返し小学生でもしねーよ!」
えっ、そうなの。いつのまに定番じゃなくなったの。
私が愕然としているうちに、鳴川は重苦しくて長い長い息を吐いた。
「…………………………する」
「うん?」
「ルームシェア、する」
「ほんとに!?」
目がまんまるになったのが自分でもわかる。嬉しくて頬が熱い、口元がゆるゆるになる。
朝一番に、寝る前に――つまり毎日の最初と最後に、鳴川と会える。すごい。そんな幸せなことってあるだろうか。嬉しい。
でもただ嬉しがってるだけじゃ駄目だ。好きになってもらう、というのが難しいにしても、せめて意識してもらうところまではいきたい。
どうしよう、手っ取り早く下着姿でうろついたりすればいい? はしたない? 普通に料理とかでアピールしたほうがいい? ……いや、この世の中にはラッキースケベっていう言葉もあるんだし、どうにか自然な演出で――
「でもお前、ほんっと、マジで気をつけろ。俺は鋼の理性を持って行くつもりだけど、弓野の危機感がゼロだったら意味ないからな」
「ウ、ウン」
よし、正攻法で行こう。ラッキースケベ作戦はたぶん怒られる。あと普通にめちゃくちゃ恥ずかしいもんね。今さっきの私は正気じゃなかった。
* * *
鳴川とは、大学に入ってから出会った。うちの大学だと一年次は英語と情報処理の授業だけクラスがあって、それが同じだったのだ。
英語のクラスでは特に接点はなかったけど、情報処理では隣の席だった。パソコンが苦手な私はExcelの簡単な関数だとかパワポ作りですら大変手間取って、見かねた鳴川が助けてくれて、それから話すようになって……。
きっかけはそれだけ。
たぶん、割とありふれた話だろう。でも私にはそれで十分すぎたのだ。人に恋をするのに、壮大な理由なんていらなかった。
気兼ねなく話せる友人にはなれた、とは思っている。
だけど私は、恋人にもなりたかった。
だからこのルームシェアをきっかけに、いいところを見せてアピールするぞ! と意気込んでいたのに――
「おはよ。お言葉に甘えて、冷蔵庫の中勝手に使わせてもらったからな」
「……朝ごはんがある」
ルームシェアを開始してから初めての朝。朝起きたら、完璧な朝食ができあがっていた。しかも私の起きる時間に合わせたのだろう、どれもまだほかほかと湯気を立てている。
……何時に起きるのかとか朝食は和洋どっち派かとか嫌いな食べ物とか訊かれたの、これか! 話の流れで鳴川のそういうことも訊きやすくて助かる、とか思ってる場合じゃなかった。
黄金色の、形のいいだし巻き卵。
レタスとミニトマトのサラダ。
大根と油揚げのお味噌汁。
なすのおひたし。
ほかほかつやつや、真っ白ご飯。
……私より立派な朝ごはん作ってない!? 私いっつも、目玉焼きとウインナーとご飯とレトルト味噌汁とかなんだけど……!?
あっ、しかもサラダのドレッシング、なんかいつも使ってる市販のと違う! 手作り!? 手作りなの!?
「そりゃあ間借りさせてもらってんだから、こんくらい作るよ。野菜高いのに品揃えいいからびっくりした」
「え、えらいでしょ……」
「うん、偉い。ってことで、ほら、顔洗ってきな。ヨダレついてる」
「うそ!?」
完璧な朝ごはんに対する動揺を振り払って、慌てて洗面所にダッシュする。昨日念入りにケアしたのがよかったのか、寝癖はなし。でもヨダレはほんとについてた。さっそくマイナスポイントじゃん……。
顔を洗って、しょぼくれながらダイニングに戻る。冷めたらいけないので早足で。
席について、ぱちんと手を合わせる。
「い、いただき、ます!」
「ふは、なにそんな緊張してんの」
「あ、あっ、鳴川! おはよう鳴川! 言い忘れてた!」
「うん、おはよ、弓野」
おかしそうに笑う鳴川とは対照的に、私は口をひん曲げた。だってだって、こんなの想定外すぎるでしょ。
もしかしてこの一ヶ月、私が鳴川のことさらに好きになっておしまい? そんなぁ……。
なんとなくもう一回いただきます、とつぶやいてから、お味噌汁に口をつける。
……美味しい。非の打ちどころもなく美味しい。ほっとする味。まさにこれが朝食、って感じの味。毎朝この味噌汁作ってくれないかな。
さて、だし巻き卵は? ……これもまた美味しい。ふんわり、口の中で旨さがほどける。はー? なんなんだ鳴川。料理得意とか聞いてないぞ鳴川。
新しい一面を知れて嬉しい、という気持ちよりも、悔しさが勝っている。
なんですでに好きになってる私が胃袋を掴まれなければならないのか!! おかしい! 逆じゃん! 逆をさせろ!!
「……美味しくなかった?」
しかめっ面をしてしまっていたのか、鳴川がおそるおそる尋ねてきたのではっとする。
料理に罪はない。というか鳴川にも罪はない。罪があるのは下心全開でルームシェアに持ち込んだ私だけなので、こんな顔をしてちゃ駄目だ。
「ごめん、びっくりしてただけ! 美味しいよ。お嫁さんに来てほしいくらいだなぁ」
「そ、……こはせめて、お婿さんって言えよ」
「え、いや、それは……さすがに……」
「……あ、そう」
お婿さんじゃ冗談っぽく言えないから無理。まだ私には難易度が高すぎる。
なぜか元気がないように見える鳴川を眺めながら(こういうときに「大丈夫?」と訊くと、大抵「大丈夫だよ……」としか言われないから、最近はあえて訊かないようにしている)、ぱくぱく朝ごはんを食べる。
この先の同居生活が不安になるくらい全部美味しい……。私が料理面でいいところを見せられる日は来るのか?
「弓野、今日一限からだよな。俺は二限からだし、洗い物とかは俺がやっとくから、」
「えっ、さすがに私がやるよ! 今日はいつもより早起きしたから余裕だし」
お前に朝ごはん作ろうと思って張り切ってたから時間余るくらいなんだよ!
「でも弓野のほうが時間ないのは確かじゃん。いいから家主は座ってスマホでもいじってろ」
「じゃ、じゃあ洗い物一緒にしよ!」
「二人でやるのは狭いだろ」
洗い物一緒にするとか、新婚さんみたいでいいのに……できないんだ……。
その後も鳴川は頑固で、結局洗い物もしてもらうことになってしまった。
昨日のうちに掃除していい範囲とかも訊かれたし、たぶんこれ、帰ってきたら掃除まで終わってるやつだ。洗濯は個々でするからいいとしても、私の見せ場、いつ来るの……。
「鳴川、今日バイトは?」
「ない。というかさすがに家燃えたばっかでバタバタしてるし、しばらく休みもらってる。弓野は?」
「私は八時まで……」
「じゃあ夕飯も作っとくな。なんか食べたいもんある?」
ダメ人間にされそう……どうしてこうなるの……何を間違えたの……。鳴川はもともと尽くしたがりなところあったけど、それにしたっておかしくない?
内心でべそをかきながら、「鳴川の得意料理」とちょっと意地悪なリクエストをした。焦ってて可愛かった。なんなら家が燃えたと話してくれたとき以上に焦っていた。
人と結構ズレてる、そういうところも好きである。なんか心配になるけど。
――そんなこんなで出された、その日の夕食は肉じゃがでした。
あざとくない? ずるいじゃん。美味しいし。ずるい。
そして、お風呂上がりについいつもの癖で裸でダイニングに出たら、ばったり出くわしてしまって「危機感!!!!!」とぐるんと背を向けて叫ばれた。夜なので小声で。器用なことをする。
さすがに私も恥ずかしすぎて反省した。
ごめんなさい、わざとじゃないんだ……やったら怒られそうだからむしろやらないつもりで……私は……。まさかこんなお約束みたいなことをやらかすとは思わず……昨日の夜はちゃんとできてたから油断した……。
服を着てそそくさと戻ってきたら、鬼のような顔をした鳴川がいたので、自主的に正座した。
「次やったら出てく」
「ごっ、ごめん。ごめんね! でももうちょっと猶予が欲しい! せめて五回!」
「何回俺に裸見せる気だよ!!」
「え、猶予が五回だから……あと四回までオッケー……?」
「猶予与えるとか一言も言ってねーから!」
「えーっ! は、裸見せられるの嫌だった?」
鳴川の勢いはそこで止まった。
「い……嫌とは…………いや、嫌だった、めちゃくちゃ嫌だった! もう二度と見たくない!!」
「そんなに!? え、えっ、もしかしてお腹出てた!? ムダ毛目立ってたりして気持ち悪かった!?」
「だっから、お前! ……っ思い出させんな! 恥を知れ!」
「それはなんか違くない!?」
ちなみにすべて小声である。夜なので。私たちは結構偉い子なので。
「とにかく! わかったな!?」
「わかった!!」
わかった、と言っておかなければ、今すぐにでも荷物をまとめて出ていってしまいそうだった。来たばかりなのにそんな忙しないことをさせるのは申し訳ないし、何よりそんなに呆れられたくない。……もう手遅れっぽいけど!
それにやっぱり、裸見られるって……じわじわ恥ずかしくなってきた……。本当に恥を知ろう、私。いや、恥を知っているからこそこんなに恥ずかしいのか? なんもわかんなくなってきた。
* * *
それからは裸を見られることもなく、ある程度平和に一ヶ月が過ぎた。ある程度。
……いや、その、裸は見られてないけど……ほんとに鳴川にはご迷惑をおかけして申し訳なく思ってます……。
鳴川がいかに紳士かを実感する一ヶ月だった。鳴川、すごい。さすが鳴川だ。
朝食も夕食もなんやかや丸め込まれてこの一ヶ月ほぼ作ってないし、洗い物の仕事も奪い取られたし、掃除もしてくれるし。
平和っていうか、これじゃ。これじゃあ私――ヒモみたいじゃない!?
「いやヒモなのはどっちかっていうと俺じゃね? 家事やる代わりに家にいさせてもらってるっつーか……」
「え、そうなのかな……」
「そうだって」
そうなのかもしれない。……でも私、鳴川のこと養えてないよなぁ。家賃半分もらうことになってるし。もうちょっとバイト増やして、鳴川の家賃負担減らしたいな。というかいっそ、もらわなくてもいいかもしれない。
「そんで、弓野。今日で一ヶ月が経ったわけだけど」
テーブルを挟んで私と反対側の椅子に座った鳴川が、改まった態度で話を切り出す。
「あっ、うん。そうだね。やっぱり鳴川はなんにもしなかったね! ……あだっ」
無言でゲンコツされた。ちょっと痛い。
なんで、と上目で見れば、鳴川は鼻を鳴らした。
「俺の苦労なーんも知らないでほけほけしてるから」
「え、ご、ごめん」
「謝って済む問題じゃないんだって」
深いため息に、さあっと背筋に冷たいものが走る。……挽回しようもなく呆れられてしまっ、た?
ハイリスクハイリターンなのはもともと承知の上だった。
だけどいざこうなると――こんな作戦考えなければよかった、と情けないことを考えてしまう。
謝って済む問題ではないと言われれば、今私が口にできる言葉はなかった。口を引き結んで、鳴川の判決を待つ。
「殴ったのはこっちもごめん。でもやっぱお前、どおおやっても危機感ないし、これ以上は一緒に住めないわ。新しい家も見つけたし、ルームシェア解消な」
「……そんな」
ここまで来れば半ば予測できていたことではあったけど、愕然とした声が出てしまった。
さっきのため息を聞くまでは、これからもルームシェアを続けられるものだと期待してしまっていたのだ。……だってこの一ヶ月、鳴川は私に何もしなかったんだから。
鳴川が危惧していたことは取りに足りないことなのだと、鳴川自身が証明してくれたはずだった。
……これも危機感ないって怒られるのかな。こういうところがだめなのかな。
悲壮な顔をする私に、鳴川は苦笑した。
「嫌だ?」
「い、嫌だ!」
反射的に答えれば、次の質問が飛んでくる。
「俺の飯が美味いから? 家事ほぼしなくて楽だから?」
「そんなわけないじゃん! むしろ全部したいのを鳴川が取ったんじゃん!」
「そーだな。お前にいいカッコ見せたかったし、そもそもそういうことすんの好きだからなぁ」
なら、いてくれていいじゃないか。好きなことなのに、なんで。……やっぱり、私がだらしなかったからだろうか。
ヨダレつきの顔で挨拶しちゃったから?
バイトで疲れてソファで寝落ちして、運んでくれようとした鳴川に寝ぼけて抱きついちゃったから?
鳴川の洗濯物に間違えて自分の洗濯物下着込みで混ぜちゃったから?
他にも思い当たる節はいろいろあるものだから、鳴川がこんな結論を出すのも当然ではある。
当然ではある、けど。
……このルームシェアで、ちゃんとアピールするつもりだったのに。
女の子として見てもらえるようになるつもりだったのに。
全然、だめだったなぁ、私。
泣きそうになってしまうのを、必死にこらえる。私が泣いたら、もしかしたら鳴川は私のことを哀れんで前言を撤回するかもしれない。
そんな、鳴川の優しさを搾取するような真似したくなかった。
「……ごめん、やな言い方したな」
「う、ううん、大丈夫」
自嘲するような表情を見て、胸が苦しくなった。
――この顔は、私のせいだ。
「……でもそういうのじゃないならさ、弓野はなんで俺が出てくの嫌なの」
「……一緒にいるのが楽しいからだよ」
「付き合ってもないのにこの距離感で、楽しめてるってわけ?」
「だめ、なの?」
だって、好きな人と毎日こんなにいっぱい一緒にいられて楽しくないわけがない。
確かに、付き合ってもいない異性とルームシェアなんて、普通は楽しくないだろう。
でも、鳴川だから。好きな人だから。
だからなんだって、ちょっとドキドキするけど、楽しいのだ。
鳴川の笑みがさらに苦くなる。
「やっぱ危機感ないよ、弓野」
「……鳴川だからだもん」
「それが『ない』って言ってんだよ。この一ヶ月で、俺がどんだけお前に手ぇ出したかったか全然わかってねーだろ」
――は。
絶対に泣くものか、と思っていたから最小限の表情の変化だけで済んだけど、そうじゃなかったらぎりぎりの限界まで目を丸くしてしまうところだった。
言われたことを理解するより先に、顔に熱が上る。
「だっ……出したかったの!?」
「ほらな」
いや、ほらなって、ほらなって、何!? なん、え、なに、手を出したかったの? 私に? どれだけ? え、いっぱい? 何回も?
鳴川は再び、さっきよりも深いため息をつく。
「俺さ、ほんとは一ヶ月なんもしなかった代わりに付き合って、って言おうとしてたわけ」
「な、なるかわ?」
そんな衝撃的なことをさらっと言わないでほし――っていうかあのときのたとえ話、これ!? たとえ話じゃなかったの!? 鳴川そんな器用なことできたの!? いやむしろ不器用なのか!?
「でもやっぱ、それってずるいじゃん。弓野なら絶対約束守ってくれるだろうし」
「待って」
「ずるいうえに、そんなんで付き合えたとこで嬉しくねぇし」
「まってまってまって」
「だから、他のことにしないとなって思ってた。何にしようかずっと迷ってたけど……あのさ。付き合って、が許されるなら――」
「一回だけでいいから、俺のこと好きって言ってほしい」
「――待ってって言ってるじゃん!」
私の顔、火を噴いていないだろうか。熱でやられて、頭の中がぐるんぐるんする。
だって、そんな、そんなの、全然、知らない。
私のことなんて興味なかったはずで、私のことなんて好きじゃなかったはずで、好きだったのは私だけだったはずで、なのに、なのに。
こんなこと急に言われたら、嬉しくてどうにかなってしまう。
「わ。……わ、わわ、私、ちゃんと、危機感あるよ」
うつむいて、膝の上でぎゅうっと拳を握る。声が大げさなくらいに震えていた。
「いや、どこにあ」
「ごめん、最後まで聞いて!」
最後まで、とは言ったものの、言えることなんて一つしかない。
渇いた喉を少しでも潤すために唾を飲み込んで、私はそうっと口を開いた。
「……何されてもいい人じゃなかったら、ルームシェアなんて誘ってない」
こんな恥ずかしい告白をすることになるとは思わなかった。
でも紛れもない自業自得だから、必死に言葉を繋げる。
「鳴川のこと、好きだよ。お願いされたからじゃなくて、ほんとにちゃんと好き。だから誘ったの。意識してもらうチャンスだと思って」
口にすると、改めて頭の悪い作戦だったと自分で思う。
……でも、そもそも立てる意味がない作戦だったとしたら。
ただただ、私が醜態を晒しただけになる。ちょっと……いや、だいぶしにたい。
長い沈黙が落ちた。
鳴川は今、どんな顔をしているんだろう。見ればすぐに確かめられるのに、できなかった。
「ってことは…………」
茫然とした声が、耳を打つ。
「――あれもこれも全部据え膳だった!?」
「それは違うかも!??」
「エッ、あ、ごめん……!?」
「いや違わないかも……!? どっち!?」
「俺に訊かれても知らんよ!!」
第一声でそんなふうに来るとは思っていなかったので混乱してしまった。
据え膳、を用意したつもりはなかったけど、手を出されてもいいと思っていたということは据え膳だったのかもしれない。わざとではないとはいえ裸まで見せてるんだし……。
「……いや、ごめん、脳直すぎたわ今の……ごめん……最低だった、忘れて……」
「わ、わかった……?」
つい顔を上げてしまったら、今にも頭を抱えてうめき出しそうな鳴川が目に入る。私だったらこの表情のときにそういうことをする、という意味で。
静かに息をした鳴川は、私のことを真っ直ぐに見た。
「俺も、弓野が好きだ」
ひぇ。
もう予想できていた言葉ではあったけど、じ、実際に聞くと。やばい。
「……だから、危機感ないのが嫌だった。誰にでもこうなんだろうなって思ったら、めっちゃムカついた」
「鳴川にだけだよ!」
「うっ……ウン……わかったから……。えと、だから、だから……えっと…………何言いたかったんだっけ……」
顔を赤くしてもにょもにょと何事か言う鳴川は可愛かった。鳴川が動揺してくれると、こっちにはちょっと余裕ができる。あくまでちょっとだけど。
「弓野が俺のこと好きなんて全然知らなかったから、弓野のこと好きな俺が同居なんてしてちゃ駄目だと思って……。でも両思いでも、やっぱり俺は出てくよ。付き合って初日から……あれっ、付き合う? 付き合うってことでいいのか?」
「い、いいんじゃない……? 付き合うんじゃない?」
「じゃあそれで、その、付き合って初日から同棲スタートとか、俺的にはないと思うんだよね」
「それは……確かに……」
今まで一ヶ月ルームシェアしておいて、という話だけど……交際初日で同棲開始とか、だいぶまずい気がする。恋人というものは、もうちょっと段階を踏んでいくべきだ。
私と意見が合ったのが嬉しかったのか、鳴川は「やっぱそうだよな!?」と顔を輝かせた。
「ってことで、次の土曜には出てくな」
「引越し作業手伝う?」
「そんな量ないし大丈夫」
確かに、鳴川の部屋には必要最低限の物しか置いていない。きっと何があっても一ヶ月で出ていくつもりだったんだろうな、と思うと少し寂しくなってしまった。
「ってことは……あと三日かぁ」
「俺と両思いなの判明したからって、危機感忘れないようにな。マジで。気をつけて。さっきはあんな最低なこと言っちゃったけど、ちゃんと弓野のこと大事にしたいから」
「大丈夫! この一ヶ月で、ちゃんとお風呂上がりに服着る癖ついたから」
「そこだけじゃねぇんだよな~~」
空笑いをした鳴川は、「まあ俺が頑張ればいいだけだけど……」と疲れたように呟いた。
「ところで弓野さん、弓野さん」
「なんでしょう鳴川くん」
「弓野的に、恋人ってどれくらいの速度で進んでくもん?」
「速度…………」
難しいことをお訊きになる。つまり手を繋ぐとかキスをするとか、そういうことを付き合って何ヶ月でするかっていう話だよね。
……どのくらいが普通なんだ? わかんないな。
「全部鳴川がしたいときにしてくれればいいんじゃない?」
「ンエ゛ッ」
喉が潰れたような声を出した鳴川は、ちょっと咳き込んだ。
「ごめん、さすがに全任せはないか……」
「い、いや……げほっ、そこじゃなくて……危機感どんだけ死滅してんの…………。いや弓野がいいんなら俺はいつでもいいんだけどでもたぶん弓野いろいろあんまわかってないだろうしちょっと割とまずい気がするっていうかやっぱ弓野はアホ……情緒五歳児……」
「なんで急に悪口言うの!?」
流れるように悪口を言われてびっくりしてしまった。情緒五歳児って何。私は二十歳だぞ。成人してるんですけど。
心外すぎる言葉にむっとしていると、鳴川はおもむろに私の頬に手を伸ばしてきた。
そして、椅子から腰を浮かせて。
――近づいてくる顔を、私は、息をするのも忘れて、ただ見ていた。
「……俺がしたかったらする、ってことだとこんなふうになんだけど。弓野、それでほんとに大丈夫?」
「…………」
「うん、大丈夫じゃないな」
「………………」
「……弓野?」
「……………………」
「ごめん、俺が悪かったです。そろそろ復活して……」
――くちびるを、たべられた、きがする。
いや、食べられてない。私の口はちゃんとついてるし、というかさっきのは単純に私の口と鳴川の口が接触しただけであって食べるとかそんな感じの雰囲気とかもなんにもなくて、ほんとに、ふにって、ちょっと触っただけで、だからそんな気がしちゃう私がおかしくて、はず、恥ずかしい、私がおかしい、おかしい!
「マジでごめん弓野、もうしないから許して……」
「……しない、の?」
なんにもわからないくらい頭が真っ白だったのに、それにだけ反応してしまった。
よくわからないけど、もうしないっていうのは、だめなんじゃないだろうか。だめっていうか、嫌、なような。
いまだ近くにあった鳴川の顔が、何かを堪えるようにぎゅうっと歪められる。だけどそれがいきなりすっと真顔になって、さっきよりもゆっくりゆっくり、近づいてきた。
たぶん、私が逃げられるように。
だけど私の体は動かなくて、まぶたくらいしか動かなくて、だから、目をつぶってしまった。
――すぐに息ができなくなったから、いっぱい息を吸っておけばよかった、と後悔した。
弓野有彩
大学二年生。危機感が死滅している。しかし基本、危機感が必要になるようなところまで他人を近づけないのでそれほど問題にはならない。
こんなだが見た目は色気のあるクールビューティーなので、ギャップという名の詐欺がひどい。
恋愛経験は皆無。初めての恋に浮かれていたが、今後は初めてのことの連続すぎて目の回る日々が待ち受けている。
鳴川昂
大学二年生だが、浪人しているので歳は弓野の一つ上。家が燃えるよりも好きな女の子にルームシェア誘われるほうが大事件だし、好きな女の子に得意料理をねだられるほうが焦る。
一見クールビューティーなのに中身幼女な弓野に、こいつほっとけねぇ……! と世話焼き魂をくすぐられてしまったかわいそうなひと。いつのまにか恋に落とされてて頭を抱えた。こんなはずじゃなかった。
この度鋼の理性が一瞬崩れたが、キスだけで耐え切ったし、今後も頑張ってめちゃくちゃスローペースで色々と進めていく。
「付き合って初日から同棲スタートとか、俺(が思う弓野)的にはないと思うんだよね」が真相。