母
母
母は、離婚のことは一切口にしなかった。
そのことは福にとっても、三つ違いの妹の多恵にとっても有難かった。今更真面目に打ち明けられても、どんな顔をしたらいいかわからない。
母は、化粧品屋を止めて喫茶店を始めることにした、と言った。
ある日、一階の店舗を改装するのに、福と多恵を呼んだ。
「二人とも、店はどんなデザインがいいと思う?」
「そうだねぇ、こんな感じかな?」福はスケッチブックに絵を描いた。店の右側に、上部が半円形になった入り口のドアと、同じ形の小さな窓が二つあった、その下にはレンガでできた花壇がある。
「わぁ、それ素敵、私は好き!」と多恵が言った。
「そうねぇ、私もそれがいいわ」
「じゃ、店の名前は?」また母が訊いた。
「デザインはお兄ちゃんだから、名前は私が決める!」
「いいわよ、いい名前をつけてね」
「う〜んと、人がいっぱい集まるように“フレンズ”」
「フレンズか、それいいね、決まりだわ」嬉しそうに母は言った。
母にも、計画はあったはずだ、だが二人に店のデザインと名前を決めさせることが、母にとって精一杯の償いのつもりだったのかもしれない。
母は、一ヶ月後のオープンに向けて動き始めた。
オープンは春休み初日、福は中学二年生になる。
開店
オープン初日、店は大盛況だった。ランチも出すので、近所の店員さん達が来てくれたのだ。
ランチタイムは福も多恵も手伝った。
小学校からの同級生、山根さんもお母さんと一緒に来てくれた。
母の作るチャーハンとナポリタンはみんな美味しいと言ってくれた。
コーヒーは講座に通って学んだのだが、まだ経験が足りないようだ。
「よし、初日はまずまずだね」母は満足げに微笑んだ。
閉店の準備をしていると小柄なおじいさんが入ってきた。
「すみません、もう直ぐ閉店なんですよ、三十分くらいなら大丈夫なんですが・・・」
「それで結構じゃよ、コーヒーを頼む」
おじいさんはカウンターの左端に腰掛けた。
母は、サイフォンでコーヒーを点ておじいさんの前に置いた。
おじいさんは香りを楽しむ風をしたが、コーヒーには手をつけない。
「儂は猫舌なんじゃよ」おじいさんは笑った。
「この近くにお住まいですか?」母は聞いた。
「川沿いに妙心館という道場があるのをご存知か?」
「はい、ではあなたが無門先生?」
「そうじゃ」
「まあ、福から聞いております、大変お世話になっておりますそうで」
「いやいや、大した世話はしておらんが、先日正式に儂の弟子にした、ついては母御の承諾を受けに参ったのじゃよ」
「そうですか・・・、ご承知とは思いますが私、先日離婚いたしました」
「聞いております」
「親の都合で子供達には寂しい思いをさせてしまいました」
「それは仕方がない、あなたも大変じゃろう」
「それで、子供達にはできるだけ好きなことをさせてやろうと思います」
「うむ」平助は頷いた。
「福が決めたことなら私に異存はありません」
「福くんは多情多感な精神を持て余しておる。儂に出来ることはないが、武術が彼を救ってくれるじゃろう」
「よろしくお願いいたします」母は深々と頭を下げた。
「そろそろ冷めた頃だな」平助は旨そうにコーヒーを啜った。