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福 物語 〜中学生編  作者: 真桑瓜
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無門平助

無門平助


平助は昼近くになって、ようやく目を覚ました。

近頃は歳のせいか二度寝をしてしまう。

平助の住居は道場の奥、南側にあった。

もともとは道場だけだった建物に六畳ほどの部屋を建て増ししたものだ。

もう少し早く出かけたかったのだが・・・

槇草には大切な用事があるので稽古を頼む、と言っておいた。が、実のところ大勢の若者の掛け声や、床を踏み鳴らす音がうるさいというのが本音だ。

遅まきながら出かけようとした時、道場の方で音がした。

槇草かと思ったがそれにしては時間が早い。平助はそっと道場に通じる扉を開けた。


福は早めに道場に着いた。とにかく稽古で全てを忘れたかった。

風呂場からバケツと雑巾を持ってきて、道場の床を拭き始めた。

考えたくないのに、両親の事が頭を離れない。

なぜ離婚したんだろう?

気を取り直して掃除を再開した時、道場の扉が開いた。


「ん、君は誰だ?」平助が福に訊いた。

福の手が止まったまま動かない。誰だろう?ああ、ひょっとして槇草さんが師匠と呼んでいるのはこの人かな?

「あ、はい、この前ここに入門した矢留福と言います。あの、おじいさんは?」

平助に孫は無い。おじいさんと呼ばれる事は滅多にあるものではない。

「おじいさんか、良い響きじゃのぅ。儂は無門平助という者じゃ」

「失礼しました、館長!」福は姿勢を正して礼をした。

「おじいさんでいいぞ」言いながら平助はじっと福を見詰めた。「それにしても、世の中の不幸を一身に背負っておるような顔じゃ」

「えっ!そんな暗い顔していますか?」

「暗い暗い。まあ良い、若い時は誰にでもあることじゃて」そう言って、平助は話を変えた。

「ところで、槇草の稽古はどうじゃ」

「はい、きついこともありますが説明が丁寧でとてもわかりやすいです」

「ふむ、槇草が師範代になって入門希望者が増えたからのぅ・・・」

平助は福のそばに胡座あぐらをかいた。

「一ついいことを教えてやろう」

「はい・・・」

「稽古では爽やかな汗を流しちゃならんよ」

「えっ、でも稽古はいっぱい汗をかいて体を鍛えるものではないのですか?」

「違うな、稽古で流すのは、冷や汗と脂汗だ。それに躰は鉄ではない、鍛えることなどできんよ」

「・・・」

「儂は今から出かける、槇草に、夜まで帰らんと伝えておいてくれ」そう言い残して平助は道場を出て行った。


掃除が終わる頃、槇草が玄関から入ってきた。

福が挨拶をすると、槇草が目を丸くして驚いた。「もう掃除が終わったのか?」

「はい、今日は早めに来れたものですから。それから、さっき無門先生に会いました」

「遂に師匠に会ったか!」

「今日は夜まで帰らないと言っておられました。そう槇草さんに伝えてくれって」

「そうか、いつもの事だな・・・それで、何か話したか?」

「はい、稽古では爽やかな汗を流すなと・・・それから人の躰は鉄ではないと」

「はは、師匠らしい言い草だ」

「どういう意味でしょう?」

「うん、そうだな。武術は繊細な感覚をいつも研ぎ澄ませていなくてはならない。息の上がるような稽古では大雑把な感覚しか身につかないという事だろう」

「躰が鉄ではないというのは?」

「巻藁を叩いて拳を固くすることを戒めていんじゃないかな。鉄は叩けば鋼になるけど、人体は怪我をするのがオチだ。せいぜい拳にタコができるくらいだろう」

「でも、外には巻藁が立っています」

「あれは、中心を突く稽古をするためにあるんだよ。タコを作るためではない」

「・・・」

「師匠は天邪鬼なんだ。この前なんか俺が柔軟体操をしていると『柔らかい躰よりも、柔らかい躰の使い方を学べ』と言われた。それがぴったりと腑に落ちるから不思議なんだよなぁ」

福もなんだかわかるような気がした。


その日、福の稽古は散々だった。焦れば焦るほど、心と躰がチグハグになって行く。


「福、蕎麦を食いに行かんか?」稽古が終わって、槇草は福をそば屋に誘った。

福は、はぁ、と言って槇草に着いて行った。


「近頃元気がないみたいだが何かあったのか?」

「さっき無門先生にもそう言われました。世の不幸を一身に背負った顔をしているって」

「そうか、俺でよかったら話を聞くが?」

福は、躊躇ためらいながらも両親の離婚の経緯を説明したが、感情が先走ってうまく言葉にならなかった。やっとの思いで話し終えた時、福は深いため息を吐いた。

「そうか、そんな事があったのか。こんな時なんと言ったらいいのか俺にはわからんが、下手な慰めは無意味だろう」

「まだ自分の気持ちをコントロールできません。でも徳島で出会った多田さんという人が本をたくさん読めと言っていました」

「うん、それはいいな」

「それで今、宮本武蔵の全六巻に挑戦しています」

「そうか、俺も高校に入るまで本など読んだことがなかった。だが国語の先生が本の楽しさを教えてくれた」

「僕も今まで本なんか読まなかった」

「宮本武蔵は真っ先に読んだ。読み終わった時は感動したよ。本の内容よりも読み終えたという達成感でね」

「昨日やっと一巻目を読み終えたところですが、いつの間にか引き込まれるように読んでいました」

「そうだよな、俺が言うのもなんだけど、吉川英治の文章は格調が高い」

そこで槇草は一呼吸置いた。

「ところで本物の武蔵が、“五輪書”というものを残しているが知ってるかい?」

「はい、名前だけは」

「兵法の極意書のようなものだが、その中に跳ね足飛び足は絶対にいけないということが書いてあった。ところが今の剣道は、跳ね足飛び足のオンパレードだ」

「僕も剣道をやっているのでわかります」

「それに踵を強く踏むとも書いてあるが、剣道はつま先を強く踏むな」

「そうですね」

「この違いはなんだろうとずっと思ってきたが、師匠に出会ってなんとなく分かってきたよ」

「僕も剣道の先生に『剣術と剣道は躰の使い方が逆だ』と言われました」

「道場の奴らにこのことを話しても、ピンとこないようなんだ」槇草は寂しそうに言った。

「僕は武術の達人になりたい!」

「俺もだ、しかし他人には言うな、笑われるのがオチだ。この事は二人だけの秘密にしておこう」

「はい、槇草さんに話して、なんだか気持ちがスッキリしました!」

「それは良かった」

福は暫く考えていたが、思い切って打ち明けた。

「僕はこの問題とまともに向き合いたい。僕も無門先生に教えてもらいたいです!」

「そうか、それじゃ師匠に聞いてみるか。俺からも頼んでみる」

「はい、お願いします!」

福の表情が、久しぶりに明るくなった。


後日、槇草は福を連れて妙心館に向かった。手には、“剣菱”の一升瓶をぶら下げている。

槇草は玄関から大声で平助を呼んだ。

「師匠、御在宅ですか?」

すると、奥から返事が帰って来た。

「おお、槇草か。今手が離せん、勝手に入って来い!」

槇草は、平助の居室の引き戸を開けて驚いた。

「師匠、何をしているのですか!」

「見ればわかるだろう、ハエを捕っているのじゃ」

平助は箸を持って座敷の真ん中に陣取っていた。

「箸で飛んでいるハエを捕まえようというのですか?」槇草は呆れた顔で平助に問うた。

「そうだ」

「正気ですか?」

「正気も正気、大正気じゃ。武蔵に出来て、儂にできん事はあるまい。悪いか」

「別に悪くはありませんが・・・それよりも今日はお願いがあって参りました」

平助は槇草の持つ一升瓶を横目で睨んだ。

「ほう、剣菱か。よほど大事な願いと見たぞ」

「おい、福、入ってこい」槇草は廊下で待つ福に声をかけた。

「はい、失礼します・・・」福はおずおずと座敷に入ってきた。

「おっ、この前の不幸少年か?まさか弟子入りの願いではあるまいな」

「そのまさかです」真面目な顔で槇草が答えた。

「ほう、師匠に弟子入りとは殊勝な心がけだ」

「師匠、親父ギャグを言っている場合ではありません、福は真剣なのです!」

「無門先生お願いします、僕を弟子にしてください!」福は畳に額をこすりつけて頼んだ。

「いいよ」

「へっ?」福は気の抜けた返事をした。

「だから、いいと言ったんだ」平助は憮然とした顔で言った。

「師匠、そんなにあっさりと言われたんじゃ有り難味がありません」

「有り難味が何になる、そんなものは何の腹の足しにもならんじゃないか。それよりもその酒でちぎりの杯じゃ。湯呑みを持って参れ」

「師匠、福はまだ中学生です」槇草が首を横に振った。

「構わん、儂らの頃はもっと早ように飲んでおったぞ」

「ダメです!」槇草がきっぱりと言った。

「槇草は頭が硬いのう、そんなことでは達人にはなれんぞ・・・」ぶつぶつと、いかにも残念そうに平助がつぶやいた。

福は、少しだけ不安になった。







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