家出
家出
福は、阿波川島で電車を降りた。小さな無人の駅である。
長距離トラックの若いドライバーに『徳島に行きたい』と言った。
「俺は名古屋まで行くんだ。岡山まで乗せてってやるから後はフェリーで四国へ渡るんだな」
ドライバーは何も聞かずに乗せてくれた。
関門橋を渡る時、「家出か?俺もよくやったよ。でも気が済んだらさっさと帰るんだぞ。親に心配させ過ぎると逆効果だからな」と言われた。
それからどうやってここまで来たのか覚えていない。
最近、父と母の言い争いが絶えなかった。父のギャンブルと、母の商売が上手くいっていないことが原因だ。
雑誌で見た“善入寺島”に行ってみようと思った。吉野川の中流にある大きな中洲だ。
郵便局で貯金を全部下ろした。行けるところまで行ってみよう。
リュックに毛布と食料を詰め込む。
駅を降りて川に向かって歩く。一キロほど歩いたところに国道があった。
その向こう側が吉野川だ。長い鉄橋を渡る。思ったより大きな島だ、田んぼや畑がある。しばらく歩くと河原へ出た。中くらいの丸い石がゴロゴロしていた。
河原に座って流れを眺めた。川の水が濁っている、瀬の音が大きい、昨日降った雨の所為か?
昨夜の光景が蘇った。
夜中に台所で母の怒鳴り声がした。びっくりして部屋を飛び出すと、母が出刃包丁を胸の前に構えて立っている。その前に父がいた。
福は必死で母を止めた。妹が後ろで泣いている。父は黙って台所を出て行った。
もう家に居たくない。それでここまで来てしまった。
膝に顔をうずめて目を閉じる。いつの間にか寝てしまった。
目を開けると、少し上流に人がいるのが見えた。来た時には気がつかなかった。犬もいるようだ。
その人影が近づいて来る。夕闇が迫っていた。
「君はここで野宿をするつもりか?」おじさんが福に訊ねた。
「わかりません」と呟いた。
「そうか、夜は冷える、焚き火をするからこっちへ来ないか?」
福は黙っておじさんについて行った。大きな雑種犬が後を追う。
おじさんは手際よく火を起こした。火の周りに竹串に刺した魚を立てる。
火が着くと、周りの暗さが際立った。
「焼けたぞ、喰うか?」
「いいんですか?」朝から何も食べていなかった。
「さっき獲ったばかりだ。うまいぞ」おじさんは犬にもやった。犬は鼻先で魚を転がす。冷めるまで待つつもりなのだろう。
おじさんは焼酎を飲みながらうまそうに食べた。
福はあっという間に魚を平らげた。塩を振っただけの魚が無上にうまかった。
「あそこにテントがある。寝袋があるから使っていいぞ、俺はもう少し飲んでから寝る」
福はどうしようもないくらい疲れていた。寝袋に入ると暖かさが心地よい。あっという間に寝てしまった。
翌朝、まだ暗いうちに目が覚めた。テントの中におじさんはいない。
外に出てみると川に朝靄がかかっている。
しばらくして、おじさんが犬と一緒に帰ってきた。
「今日は水が澄んでいる、水温も高いから川遊びにはもってこいだ」手にカゴのようなものを抱えている。
「それはなんですか?」
「蟹籠だ、昨日のうちに仕掛けておいた。味噌汁に入れて食おう」中で蟹がガサガサいっている。
飯盒で飯を炊いた、味噌汁と一緒に口に入れる。
「おいしい!」
「そうか、生きている証拠だ」
朝飯の後、おじさんは折りたたみの椅子を河原に置いて本を読み始めた。
秋の風が吹き始めている。少し肌寒かったが焚き火の側は温かい。
「君の名前はなんという?」本から目を離さずにおじさんが聞いた。
「矢留 福です」
「矢留君か」
「福でいいです、みんなそう呼んでいます」
「わかった福。俺は多田だ、そいつはゲン」犬に目を移した。
ゲンはスフィンクスのような格好で福を見ていた。意志の強そうな目だ。
「福、そこのカヌーのコックピットに釣竿が入っている、自由に使っていいから晩飯のおかずを釣ってきてくれないか?」
「餌はどうしますか?」
福は、家の近くの池で鮒を釣った経験しかない。」
「その辺の川石をひっくり返すと川虫がいる。それを餌にするといい」
「はい」
「それから、ついでに流木を集めてくれ、夕方まででいい」
福は空き缶を持って餌集めに出た、ゲンがついてくる。
「僕を見張っているのかい?」ゲンが首を傾げた。
昼ごろまでに、魚が数匹釣れた。今夜はこれで十分だろう。
『そっちはウグイ、そっちはナマズだ』と、多田さんが教えてくれた。
「ゲン、お前にもやるからな」ゲンは一声吼えた。
昼飯は福が持ってきた食料(パンとラーメンと缶詰だが)を二人と一匹で食べた。
それから砂の上に毛布を敷いて昼寝をした。
午後は流木拾いに汗を流した。乾いた大きな流木なら結構いい燃料になるそうだ。
晩飯は、福の釣ってきたウグイの腹わたを出して網で焼いた。ナマズは白焼きにした。福はまだ、うなぎを食べたことはないが、多田さんがうなぎよりうまいと言った。
多田さんが、焚き火のそばで酒を飲みながら、世界の川の話をしてくれた。
川の話をエッセイにして生計を立てているのだと言った。
「福、本を読め、なんでもいい。本はいろんなことを教えてくれるぞ」
河原で見る星は、いつもより何倍も輝いて見えた。
「明日は出発だ。この川を下って河口まで行く」福は夢の中でこの声を聞いた。
翌朝、昨日の残りで朝食をとって出発した。
カヌーは二人乗りのファルトボートだ。前のコックピットにゲンと一緒に乗った。多田さんはライフジャケットを貸してくれた。荷物は船尾に括り付けてある。
しばらく穏やかな流れが続く。多田さんがパドルを置いてハーモニカを吹きはじめた。音が水面を渡ってどこまでも流れて行く。
ハーモニカの音が止んだ、多田さんがパドルを持つ。心なしか瀬の音が大きくなったようだ。
「もう直ぐ三級の瀬に突っ込む、万が一沈したら足を上げて流されるんだ。足を下にすると岩にぶつけるからな」
多田さんは白波を避けて、力一杯パドルを振るった。少しでも気をぬくと一瞬で沈してしまうだろう。
船が大きく上下する、ゲンが「大丈夫か?」という顔で福を見た。
あっという間に瀬を抜けた。福はなんだか笑いたくなった。きっと知らずに笑っていたはずだ。
ゲンが一声吼えた。
暫く行くと、コンクリートで出来た堰が現れた。多田さんはカヌーを岸につけた。
「ここからトラバースする」
「トラバース?」
「カヌーを担いで堰を超えるんだ」
荷物を降ろし、多田さんとカヌーを担ぐ。足元が苔でツルツル滑る。
やっとの思いでカヌーを岸辺に下ろす。荷物を運ぶのに、更に三往復した。
川幅が広くなった、河口は近い。
「この先にもう一つ堰がある、そこがゴールだ」
その堰はさっきの堰と違って美しかった、天然の青みがかった石でできている。
「第十堰だ。江戸時代にできた。人の力は偉大だな」
カヌーを岸に引き上げてから多田さんは言った。「ここでお別れだ、俺は明日からユーコンに行く、ゲンも一緒だ」
「ユーコン?」
「アラスカだ」
「僕は・・・」
「どうする?」
「家に帰る」
「そうか・・・ところで福、ここはどこだ?」
「えっ?徳島・・・です」
「お前も俺も阿呆だ、なら踊らにゃ損・・・だろ?」
福が帰った日、父が出て行った。
福の無事を確かめた父は、「お母さんを頼む」とだけ言い残して車で出て行った。
母は、福を抱きしめて大声で泣いた。少し落ち着いてから警察に電話をしていた。
悲しくはなかった、否、安堵していた。
今日から両親の言い争う声を聞かなくて済む。
僕は不幸なのだろうか?と考えた。
世間的には、両親の離婚した子供は不幸なのだろう。
でも、福は違うと思った。何がどう違うのかはわからない。
妹はどう思っているのだろう?。
自分の幸不幸を人に委ねるのはやめよう。
自分の幸福は自分で作ろう、そう思った。
「同じ阿呆なら踊らにゃソンソン・・・」多田さんの言葉が蘇る。