福 中学生 福 妙心館に入門す
福 中学生
昭和四十四年四月
中学に入学した福は、横山との約束通り剣道部に入った。
もちろん、横山、小柳という公民館剣道教室の仲間も一緒だ。
ただ、剣道部の二年にはあの昇竜館の石井がいた。
市の体育館で行われた合同寒稽古の時、石井の面打ちで脳震盪を起こしてから、福とは深い因縁が出来た。
但しそれで入部を諦める気はなかった。機会があれば今度こそ決着をつけてやる。
入部の日、石井は強張った顔で福を睨んだが、三年の先輩達の前だからか、なにも言わなかった。
入部後暫くして行われた新人戦で、福達公民館組は団体戦のメンバーに選ばれ、三位になった。
意気上がる公民館組。
稽古は生徒の自主性が尊重され、楽しかった。
顧問の先生があまり熱心でなかった事が、良かったようだ。
それから暫くは、何事もない毎日が続いたのだが・・・
福 妙心館に入門す
福は憂鬱だった。
なぜかというと、近頃父と母の間が剣呑なのだ。ちょっとした事ですぐに言い合いを始める。
ある晴れた日曜日、家にいたくなかった福は、ふらりと街に出た。
街と言っても、幾つかの商店街が並ぶだけの、小さな街だ。
そこに、あまり綺麗ではない川がある。生活用水が流れ込んで川を汚していた。
その川を下流に歩いていると、木造の見窄らしい建物があった。
『あれ、こんな所に、こんなものあったっけ?』
窓があったので何気なく覗いてみると、白い稽古着をつけた人達が蠢いている。
『道場だ!』
最初は、柔道かと思った。
しかし、組み合う事は無いし床も板張りだ。
空手だった。
福は、空手に何の知識もない。
ただ、小学生の頃好きで見ていたテレビドラマ、『姿三四郎』(すがたさんしろう)に出てくる空手使いを知っているだけだ。
檜垣流空手の兄弟は、ドラマの中では全くの悪役だった。
しかし、当時の空手に関する一般の認識は、この域を出ない。
痩身、長髪、奇声を発して飛び上がり、一撃で瓦を叩き割り、相手を倒す。
恐ろしいイメージを作り上げられていた。
福は、怖かったけれども目が離せなかった。
本物の空手を、福は初めて目にしたのだ。
「坊主、何か用か?」いきなり窓から顔が覗いた。
福は、びっくりして後ずさった「い、いえ別に用事ではありません・・・」
声をかけてきたのは、精悍な顔付きをした、若い男だった。
「よかったら、上がって観ていけよ」笑いながら男は言った。
福は迷った、このまま走って逃げようか?でも見てみたい気もする。
結局、腹を決めて見学することにして、窓の下を通って玄関に回った。
左側に見える小さな空き地には、ぶっとい卒塔婆みたいな棒が三本突き出ていて、それに一斗缶が被せてあった。後で分かった事だが、これは空手家が拳を鍛える巻藁というものだった。一斗缶は雨よけだ。
玄関の前に立つと、古びた一枚板の大きな表札に消えかけた文字で『妙心館』と書いてあった。
下駄箱に靴を並べて、入り口の手前で帽子を脱いで頭を下げ、剣道の道場に入るときと同じように挨拶をした。
武道の経験があるのかい?と先ほどの男が聞いてきたので、剣道をやっています、と答えた。
「俺は槇草、この道場で師範代をやっている。ゆっくり見て行け」
福は道場の隅に正座した。
「今から自由組手を始める!」
槇草の指示で、白帯の青年が二人出てきた。
「はじめっ!」
互いに礼をして右手を前にして構えた。足幅は剣道の倍ほど広く膝を曲げて腰を落としている。
当然の事ながら間合いは剣道よりずっと近い。防具も着けないので怖いだろうな、と思う。
拳・足の攻防が始まった。リズムは剣道に近い。ただ、両手、両足が使えるので目まぐるしい。
本気で打ってはいないようだが、拳が躰に当たり、足の脛どうしが当たって鈍い音を立てている。痛そうだ。
「やめっ、それまで!」槇草は、二人を下げた。
「次っ、辻と酒井」
茶帯が二人出てきた。
「はじめっ!」
さっきの白帯と同じような攻防戦だが、明らかに迫力が違った。
酒井の前蹴りが極まり、辻が左脇腹を抑えて片膝をついた。
「それまでっ!」槇草が二人を分けた。
ようやく辻が立ち上がって二人が礼をした。
「酒井は、残れ」槇草が言った「俺とやろう」
槇草は黒帯、酒井は茶帯、いったいどれだけの差があるのか。福は思わず身を乗り出して観ていた。
槇草はグルグルと右拳にタオルを巻いた。
「俺は、この拳しか使わない、お前は自由にやれ」
酒井はムッとしたようだった「いいんですか?そんなにハンディを貰っちゃって」
「いいよ、これくらいでないと面白くない」槇草は道場の中央に立った。
酒井は腰の低い右構え。槇草は左構え。腰を落とさず足幅は肩幅くらいだ。
酒井は芋虫が這うような足運びで、じりじりと間合いを詰める、
槇草は動かない、目を細めて酒井を見ていた。
先に仕掛けたのは酒井だった。継足で間合いを詰め、槇草の脛を狙って蹴りを繰り出した。
槇草はわずかに足を引いてこれを躱し、躰を沈めてスッと前に出た。
その時はすでに、槇草のタオルを巻いた拳が酒井の顎の一寸前で止まっていた。
「まだまだ!」酒井が叫んだ。
今度は、酒井が左構え、槇草が右構えに変わっていた。
酒井は、送り足で大胆に間合いを詰める。
槇草は、やはり動かない。
酒井の鋭い蹴りが槇草の腹に向かって飛んだ。さっき辻を倒した蹴りだ。
「やられた!」福は思わず目を瞑った。
だが、槇草の腹にめり込んだはずの酒井の右足は、大きく上空に跳ね上がった。
気がつくと、酒井は仰向けにひっくり返り、槇草の右拳は上から酒井の顔面に打ち下ろされた後だった。
もちろん、寸前で止まっている。
福には何が起こったのか分からなかった。
その日福は、父に空手を習いたいと言った。
父は母さんに聞け、と言った。
母は最初、そんな野蛮な事はやめなさい、と言ったが、福がどうしてもやりたいと頼んだら、不承不承許してくれた。
次の稽古の日、福は槇草の前で頭を下げていた。
「そうか、空手をやってみたいか?」そう槇草は聞いた。
「はい、この前の師範代の動きが不思議だったので・・、どうしても知りたいのです、その動きの秘密を」
「秘密か・・・」槇草はちょっと首を傾げたが、福の問いには答えず、「俺を呼ぶときは槇草でいいよ。ここの館長は無門平助。師匠はちょっと変わり者の爺さんだが、正真正銘の名人だぞ」
福はまだ会ったことはないが、槇草は道場主のことを師匠と呼んで尊敬しているらしい。
「師匠は気まぐれだから滅多に稽古に顔を出さん。そのうち会えるから、それまでは俺たちと一緒に稽古を積むんだな」
「おい、辻、古い空手衣があったろう?出してやってくれ」
辻は、黄色く煮しめたような色の空手衣を持ってきた。
「お前さんに合いそうなのはこれしかない、当分辛抱するんだな」辻は笑いながら言った。
「まだ、名前を聞いてなかったな」槇草は、言った。
「矢留福です」
「そうか、福でよかろう。辻、福に基本を教えてやってくれ」
福はその日から妙心館の一員になった。
福は毎日、部活が終わってから妙心館に通った。
基本の突き蹴りがそろそろ様になってきた頃、槇草が福を呼んだ。
「福、この毛布の上に立ってみろ」槇草は道場の真ん中に毛布を敷いた。
「こうですか」福は毛布の真ん中に立った。
「もっと端のほうがいい、毛布の縁に立て」そう言って槇草は毛布の端をつかんだ。
「そのまま目をつぶれ、俺が毛布を強く引いたら一気に膝の力を抜け」
福は神経を足の裏に集中した。しかし、毛布が引かれたと思った時には床でしたたかに膝を打っていた。
「床を蹴る動作が消えないうちは上手く行かない。いつかお前の言っていた『秘密』を解く鍵がこの躰の使い方にある筈だ」
槇草はもう一度毛布の上に立つように福に指示した。今度は多少前のめりになったが膝は打たずに済んだ。
「そうだ、それでいい。時々誰かに手伝ってもらって、この動きを検証するんだ。ただ、やりすぎるなよ、間違った動きが身についたら厄介だからな」