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混沌のリサイタル

作者: 畔上 紺

残業帰りに閉店間際のスーパーで買い物を済ませた私は、のんべんだらりとした足取りで家路を歩いていた。


陽はとっくに沈み、住宅街に設置されてる街灯には光を欲する蛾が蛍光灯に衝突を繰り返している。


ああ、忌々しいことこの上ない。


私は街灯に近付かなくて済むように、なるべく道の真ん中を歩くことにした。

暗闇の中から時折飛んでくる虫の来訪をなんとか掻い潜りながらも、ようやく住んでいるアパートの入り口に辿り着いた。


ふと見ると、すぐ近くに見慣れない子供が居ることに気付く。


色は白いが、神父が着用しているキャソックのような服を着た6歳ぐらいの女の子が、街灯の下で1人佇んでいる。

そして顔をニヤニヤさせながら私のことを見つめてくる。


なんとなく気になって眺めていたが、その子は首を左右にゆっくりと振った後、くつくつと笑い声を抑えながら私にゆっくりと近付いて来た。


最初はただ単に通り過ぎようとしているだけだと思ったが、女の子と目が合った瞬間に目標が私だと確信した。


なんと言えばいいのか、私と目が合うと女の子はまるで宝物でも見つけたかのように嬉しそうに口角を吊り上げたのだが、なんだか歩き方があまりに不自然で子供らしさが無く、目付きも異様な感じがした。


なにか分からないけど、絶対にあの子に近付かれてはいけない、近付かれたら終わりだと、そんな予感がした。


急いでアパートに駆け込んで階段を上がろうとした、だけど何故かいつものように階段を上ることが出来なかった。


まるで足に大きな鉛を括り付けられたみたいに、重くて足が上がらない。


持っている豆腐とネギが入ってるビニール袋も中に並々と水を注いだように重量感を放ち、握りしめた手に食い込んだ。


そして私の感じた確信はこの場で確定となった。

あの子に捕まったら終わりだ。

これは間違えようのない事実だった。


恐ろしさで余計に足がもつれて思うように動かず、私は焦燥感に駆られた。

汗を吸ったスカートが太ももに纏わりつき、煩わしい。

息も絶え絶えになりながらも、必死で階段を上がった。


しかし、階段の踊り場まで辿り着いた所で背後から反響した笑い声が耳に入り、思わず振り返った。


女の子が階段のすぐ側に居た。

くつくつと抑えきれない笑いを喉から溢しながら、異様な笑みを湛えて階段に足をかける。


嬉しそうに髪を揺らしてゆっくりと階段を上っていく女の子を眺めながら、私は覚悟を決めた。


足は思うように動かない。

女の子は目の前まで来ている。

このままでは逃げてもすぐに追い付かれるだろう。

ならば、この場で反撃してやる。


やられる前に、やってやる。


恐怖は強い怒りとなり、焦りは闘争心となって私を奮い立たせた。


今思うと極限状態まで精神が張り詰めたせいで起きた自己防衛反応だったのかも知れない。

でもその時の私はその事実に気付く余裕なんてなかった。


足の重さなんて忘れたかのように、私は勢いよく階段を駆け下りて女の子にビンタを喰らわせた。


そのはずだった。


私の右手が頬に当たる直前に、女の子が透けて見えたかと思えばそのまま煙のように消えてしまった。


ぽかんとする私を置いてけぼりにして、女の子の笑い声だけが建物に響く。


気付けば私は先程上った踊り場に立っていた。


状況が飲み込めず辺りを見廻すが、なんだか様子がおかしい。


景色はうっすらと緑がかっていて、ほんの少しぼんやりとしている。


照明は麦藁色のような光を放っているが、なんだか眩しくて目が霞そうだ。


オマケにあまりに静かなものだから、耳の奥からキーンっとした耳鳴りが響くようになってきた。


風はなく、周りには羽虫の気配すらない。


湿度が高いのか、肌がベタベタとして不快極まりない。


発生源は分からないが、酸化した油と腐葉土が合わさったような臭いがする。


何処となく現実感のない光景を目の当たりにして、私は直感的に一つの結論に辿り着いた。


ここは私の住んでるアパートではないと。


ここは私の住まいとよく似た知らない場所だと。


ここは私の世界じゃない!


私は膝から崩れ落ち、顔面に付いている様々な穴から体液を床に撒き散らしながら年甲斐もなく金切声を上げて咽び泣いた。


「これ異界モノやん!絶対そうやん!なんで分かってたのに回避出来なかったの?!ナンデナンッ?!ナンデナンッ?!?!馬鹿なのォ?!!ていうか私怖い系ダメなのになんでこんな目に遭ってんの!?イヤだぁ!!怖いいいぃッ!!!イ”ヤ”ア”ア”ア”ッ!!!!!!!」


皆が周知でない通り、私は虫と怖い話が大の苦手である。


インターネット等に掲載されている怖い話は目を開けて見ることが出来ないのは勿論のこと、なんなら児童向けの推理小説でも失禁してしまうぐらいには恐怖耐性が無い。

特に異界に囚われて当てもなく彷徨うといったシチュエーションが大の苦手で、そんな題材の怖い創作に触れたが最後三日三晩は寝れず、恐怖で失神と脱糞を繰り返すような有様だ。

そんな私にとって今の状況は大量のカメムシが飛び交う地雷源に放り出されたも同然の出来事だった。


とてもじゃないが、正気では居られない。


半狂乱になり頭を振り乱しながらひとしきり泣き喚いた後、緩慢な動作で立ち上がった私は近くの壁に向かって拳を力一杯叩きつけた。


続けて1、2、3、4と、4拍子のリズムで叩く。

叩きながら空いている手でシャツを胸の辺りまで捲り、ネギを腹に打ち付け8ビートを刻みながら歌謡曲を歌った。


もしかしたら錯乱しているように見えるかもしれないが実はその通りで、この時の私の思考は漏電一歩手前の状態であり、要約すると「どうせ捕まってしまったし帰れるかどうかも分からないならこの世界にうんと嫌がらせをしてやる」という冷静さを欠いた決断をした故の行動だった。


空虚な世界に歌声とボディパーカッションの音がが響く。

最初は緊張で掠れた声しか出なかったが、1時間程歌い続けているうちに体が温まり、声がよく通るようになった。


調子が良くなって来たのでパフォーマンスの一貫として頭を上下に振りながらネギを手の平でクルクルと回す。

手の中で踊るひしゃげたネギから時折ピリッとした辛みが漂い、鼻をくすぐった。


嫌がらせのために始めた即興ドラムが錯乱して張り詰めていた精神を解し、自分を鼓舞するために

歌った歌謡曲が肉体の不調を軽減させた。


気の向くまま思うがままに、孤独にリサイタルを続ける。


現実味の無い状況に形容し難い高揚感を覚えながら、私は特売で購入した木綿豆腐をおもむろに踊り場から階段の下へ放り投げた。


弾け四散する豆腐の悲鳴を合図にサビの音階を半音程上げて歌を歌い、元軽音部とは信じてもらえないような律動でさらに16ビートを刻んだ。


この世界は恐ろしく静寂であり、限りなく異質で、まさしく混沌としていた。

だがこの場に舞い降りた私はこの狂った世界に押し潰されない程に、唯一無二の煌めきを放っていた。

それは紛れもない事実で、疑い様のない真理だった。

むしろ私の演奏が世界の異質さを塗りつぶしていくような気さえした。


無我夢中で26曲目の秋田大黒舞を歌っている途中、理由は分からないが突如低い地鳴りと共に地面がゆらゆらと動き出した。


揺れる地面に吐き気を覚えながら、私は特に意味もなくキレる。


「揺らしてんじゃねーよばかやろう!酔って吐いちゃうだろうがっ!!」


キレたついでに近くの壁に唾のシャワーを浴びせた。

右手に少し掛かってしまったがそんなことは気にしない。

だって今この瞬間、全身全霊を掛けてこの世界のためだけに嫌がらせをしているのだから。


こんな事ばかりしているから私には友達が居ないんだと頭の片隅で考えてる間にも、地鳴りと揺れはさらに強さを増していく。

負けじとばかりに私はシャウトして、今度はシャンソンを歌った。


唸り声を上げる異界と吐き気に限界が迫る。


周辺の壁はヒビを描き、非常口を突き止めた内容物は喉を圧迫し始めていた。

もはや私が揺れているのか、この世界が歌っているのか判別が付かないほどだ。

天井から降り注ぐモルタルの欠片を体に浴びながら、私は二度目の覚悟を決めた。


「そんなに揺らしたいの!?じゃあ取引しよっか?!!私が吐いたら揺らすのを止めて、吐かなかったら揺らし続けるのはどうかな!なんならうんこだってしてやるからなッ!!!さっき私のことずっと見てただろッ?!これがお望みなんだろッ!!!オ”ラ”ァ”ッ!見ろよよく見ろよ!!お望みのくそくそくそくそ糞だ”ァ”!!!」


虚空に向かって暴言を吐きながらスカートとパンツを下ろした所で視界がブラックアウトした。


けど私は止まらない、止まれない。

例えリズム感が絶望的でも、便意があろうとなかろうと関係ない。

何者でも私を止める事なんて出来はしない。

だけどそんな私の意思に反して、疲弊しきった体はとても正直だった。


私は胃の中身を暗闇にぶちまけた。

当たり前だが2時間以上休まず熱唱を続け、挙句揺れる地面の上で腹太鼓を演奏すれば具合の1つも悪くなるのは当然のことである。

内容物が止め度もなく溢れるせいで息が出来なくて、苦しさのあまり涙で視界が滲む。

しばらく呼吸が出来ないまま、私は強制的なデトックスに耐え忍ぶ。


永遠に続くような排出作業を終えて胃の中身が空っぽになった頃には、私は立っているだけで精一杯の状態になっていた。

ほんの少しだけ冷静になった頭でなんとかスカートとパンツを着用し、力無く今日のブランチだった物の上に突っ伏した。


薄れゆく意識の中で、涙声でごめんなさいと謝罪を繰り返す女の子の声が遠くで聞こえたような気がした。







見慣れた天井が視界に映る。

硬い床の感触に呻きながら、私は鈍重な動作で上体を起こした。

どうやら玄関先で眠っていたらしい。


目が覚めた私は首を捻る。

スーパーで大好物の絹豆腐を購入しようとしたが品切れだったので泣く泣く木綿豆腐を代わりに購入したまでの記憶はあるのだが、いつ帰宅したのかどうにも思い出せない。

それに、規則正しく就寝することだけが取り柄の私が何故玄関の前で眠っていたのかもなんだか解せない。

頭をガシガシと掻きながら、情報を集めるために視界に入ったビニール袋を空けて確認をする。

中身は酷い有り様で、大好物のネギが何故かひしゃげており、そうでもない木綿豆腐は容器ごと跡形もなく崩れている。

困惑したのも束の間、異臭が鼻を貫いて反射的に咽せかえった。

見ると着の身にベッタリと吐瀉物らしきものがこびり付いているではないか。

異常な事態を紐解くため、私は今日1日の出来事を振り返った。


今日は朝から納品した商品にクレームが入り、そのミスを補うために否が応でも遅くまで職場に留まざるを得なかった。

不条理な残業のストレスから来る胃の不調をスポーツドリンクで誤魔化しながらなんとか納品を終わらせて、その後疲れ切った体を引き摺りながらスーパーへ買い物に行ったのだ。

記憶が曖昧とはいえ、わざわざそんな絶不調の状態で普段飲まない酒を購入してまで飲酒をした可能性は低いだろう。


もしやなにかしらの事件に巻き込まれたのではないかと不安になり、体を調べると腹部の周辺が赤く腫れていることに気付いた。

幸いにも他は特に何かされた形跡は無い。

焦って財布の中身も確認したが、中身はいつも通りの可はなく不可である状態だ。


数分程熟考したが結論が出なかったので、とりあえず私は体に付いている汚物を洗浄するために浴室へ移動した。

塩素を浴槽に入れ、まだ粘り気が残る服を雑に放り込み、蛇口を捻る。


シャワーを浴びながら、私は先程観ていた夢の内容を思い出していた。


断片的な記憶の糸を紡いで、武道館で有名バンドとシャンソンを歌っている自分の姿を思い出しながら鼻歌を歌う。

何故大舞台でネギと腹の贅肉を使ったボディパーカッションを披露していたのかは不明だが、夢なんて所詮記憶の欠陥を取り除くための副産物に過ぎないのだから深く考える必要はないだろう。

それよりも無惨に潰れた夕飯と腹部の炎症の謎を解明しなければいけない。

私は頭を上下に振りながら、シャワーコームを手の平でクルクルと回して定番の秋田大黒舞を歌う。

口遊むと目眩と共に吐き気を覚えたので、繊細な胃を虐めた諸悪の根源の職場に心の中で悪態を吐いた。


風呂を済ませ髪を梳し、なにも思い出せないまま就寝時間が訪れた。


眠気で霞がかる頭を動かして、私はまたも夢の回想をする。


シャワーのように右手に弾ける汗の感触。

腹に打ちつけるネギの心地よい音と香り。

そして熱狂して揺れる観客達。

確かに感じた高揚感と煌めきを思い出しながら、私は口元を綻ばせた。

また同じ夢が観れますように、とそっとお祈りをして布団に潜り込んだ。


意識を手放し静かに寝息をたて始めた頃、ひらりと一枚の紙切れが枕元に滑り落ちた。


その紙には、[本当にごめんなさい、迷惑なのでもう来ないで下さい]

と、震える字で走書きがしたためられていた。



おしまい

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