熱帯夜
暑苦しい夜、ひとりで眠ろうと努力していたら、不意になつかしいにおいがした。
目の前に、校庭がみえた。むかし通っていた中学校の、殺風景な校庭だ。白っぽい砂、雑草の穂先に溜まる熱、塗装の剥がれたサッカーゴールの錆、駆け抜けていく運動部員の荒い息、そんなものたちがいっぺんに頭の中に浮かんで、そこに自分が立っているような実感さえあったのに、ほんの数秒で消えてしまう風景。落ち着いて窓を開けると、近所で何かを焼いたような残り香に気が付いた。
ああ、ものを焦がすにおいは学校の印象によく似ている。
ぼくはその焦げ臭い空気を吸い込んで、もういちど学校の幻を自分の脳裏によみがえらせようとしたけれど、さっきの一瞬ほどに鮮明な景色はどうやっても戻ってこない。いちどトリックに気付いてしまった手品にはもう二度と騙されないのと同じように。
人口減少で中学校は合併され、ぼくの知っている校舎も校庭もすでに取り壊されて存在しない。校庭の大樹の下に埋められていたはずのタイムカプセルごと、ショベルカーに掘り返されて更地になってしまっているはずだ。思い出はもうどこにもない。記憶の中の不完全な記憶も、すこしずつ崩れていって、ぼくが死んだら消えてしまう。それだけの肉体。
生きるというのは儚くて恐ろしいな。
素敵な青春の思い出のひとつも持たず、後悔も何もなく今を生きていたつもりだというのに。ぼくはたった数秒の郷愁ごときで、自分が毎日少しずつ老いていることを急に実感したのかもしれない。
熱帯夜だというのに寒い気がした。タオルケットを手探りで掴んで、子供のころみたいに頭からかぶって目を閉じた。