四 これまでも、そしてこれからも
「君の顔が見えない。」
民生はそう言って、目を泳がせた。詩音は民生が視力を失ってから、毎朝、また、外来患者を見る前にここに来ていた。彼は詩音の声を聞くと、彼女の姿を探して目をしきりに動かしている。
「私はここにいるわ。」
詩音は、民生の手をそっと握った。
「呼吸が苦しい。フウフウ……。胸の周りが硬い。フウフウ……。締め付けられている……。」
患部は反対側の肺にも転移していた。酸素の量は八。
「私はここにいるわ、一緒にいるわ。」
詩音は民生の気を鎮めるように、トントンと肩をゆっくりと叩き続けた。
しばらく前から、オブジーボの点滴をするようになった。しかし、二回目を過ぎてもまだなんらかの良い兆しは見えなかった。民生の呼吸は明らかに小さくなっている。苦しく先が見えず、死の恐怖を目の前にしても、民生は淡々としていた。詩音は涙を流したが、盲目の民生に見られる心配がないのが、幸いだった。
その日の午後、外来患者に一息ついたところに、インターコムを通じて連絡が入った。
「民生さんのお父さんが、詩音さんを呼べって言ってきています。如何しましょうか。」
担当看護師からの連絡だった。
「私が行きます。」
処置室を抜けて病棟へ向かおうとしたところへ、呼吸器内科部長が心配そうに詩音に声をかけた。
「あの親父さんか?。」
「はい。」
詩音は例によって口数が少なかった。
「あとで私も行ってあげるよ。」
「いいえ。大丈夫です。私の義父ですから。」
エレベーターを登りきったところに、今日になって民生を移した個室がある。南東に向けられた窓は東京湾まで見通せる部屋だった。
「やっときたか。」
「遅くなりました。外来の方が多くて…。」
「言い訳は要らないよ……。」
公生は何かを聞きたいようすだったが、詩音は黙っていた。
「何か言うことはないのかね。」
「……。」
民生が身じろぎをした。目をつぶってはいるが、このやり取りに目が覚めたのかもしれない。公生は民生の身じろぎに驚き、詩音を廊下へ押し出して背中で個室の戸を閉めた。
「民生をこんな状態にして、……。何か言うことはないのかよ。」
「……。」
「治せもしないで、よくこの大学病院の医者が務まるね。」
詩音は反論しない。いつも口数の少ないところへ、追い詰められると黙り込んでしまう癖は治っていない。
「なんでどんどん薬を使わないのかね。」
「なんでドレナージができないのかね。」
「ドレナージが下手なのに、なんで呼吸器内科医をしているのかね。」
「都合が悪くなるとだんまりかい?。」
「ドレナージは下手、治療法を見つけられない。呼吸を楽にしてあげられない。無い無い尽くしだな。」
詩音に対してまくし立てる公生の後ろから、部長が二人に声をかけた。
「民生くんのお父様。詩音さんはよくやってくれていますよ。」
「何にも治療をしていないじゃないか。血痰も彼女のせいだぞ。」
「あなたも開業医だと伺っていますよ。ドレナージがどれほど難しいかご存知のはずです。」
「知っているよ。この大学病院じゃあ、ろくな治療ができないんだろ。」
「この種の病気は世界的にもまだ治療法が確立されていないのです。」
「知っているよ。だから、結果が全てだよ。」
「あなたは何を知っているんてすか。」
「アメリカには、胸膜剥離術を得意とする医者がいるらしいじゃないか。なんでここではできないんだよ。」
「その術式を出来る医者はここにはいません。世界的に少ないのです。それに、今の彼はこの術式ができる山口、兵庫まで行くに耐えるほどの体力がないのです。」
「ここの医者はヤブばかりだな。」
部長は明らかに怒りに震えていた。目の前の公生という父親は、開業医ならではの自信を有しているのか、容赦のない厳しい言葉を吐き続けている、しかも、この国では最高とされた大学のそれも医学部の部長を前にしてさえも、厳しい言葉を吐き続ける。部長は毎日このような言葉を受けて続けている詩音を思った。だが、公生はそのような感情を見透かして逆なでするように、さらに言葉を容赦なく言い放った。
「こんなところにしか居ない嫁は、ダメな嫁だね。やっぱり結婚させるべきじゃなかったね。」
詩音はずっと黙っていた。罵倒し続けられるのは、高校時代以来だった。罵倒し倒した義父の公生はやっと詩音から離れ、病室へと戻った。
詩音も続いて病室へ入ろうとすると、公生は振り向いた。
「ほう、入ってくる資格があるのかね。」
詩音はうつむきながら、民生の寝台に近づいた。
カタリ。
民生は目覚めていた。苦しそうな顔をしたまま、公生の服を弱々しく掴み、声を上げた。
「お、や、じ、ハアハア、なぜ、ふう、なぜ詩音を責める?……。」
「民生、聞いていたのか。……。お前は自分が不幸だって言うことがわからないのか。こんな女と結婚したから、こんなになっちまって。」
民生は遮るように腕を大きく振った。
「彼女は……僕の命、……僕は……彼女の命……。僕は……妻の彼女に……すべでを……預けている。」
「でも……。」
「親父は結局……わかってない。」
「わかってるって。」
民生は公生から離れるように横を向いてしまった。公生は民生の態度が意味するところを悟ったのか、強引に民生の肩を掴んだ。
「わかってるって!。俺が一番わかっているんだ。」
公生は息子に訴えるように声を震わせた。
「いや...此の期に…及んでも……わかっちゃいない…じゃないか…昔から、親父は何にもわかっちゃいない……そう、昔から」
その言葉は、小さい喘ぎの言葉だった。しかし、聞いた公生は衝撃を受けたように虚ろに壁に寄りかかった。民生はそんな父親を憐れむように目を泳がせた。公生はその民生の憐みを理解せず、まだ公生の言葉を受け入れるかもしれないと誤解した。
今の民生には何も見えなかった。そして、民生の目は最愛の妻を探した。
「詩音、君はいないのか?。君の顔に…触れたい。」
民生は何かを求めるように、喘ぎながら起き上がった。
「君の顔を……。」
「民生さん。私はここに。」
詩音は横に公生が居ることを忘れたように、民生の手を取っていた。再び怒りを燃やした公生が、その二人をさえぎろうとした時、民生は見えないながらも公生を突き飛ばしていた。
「民生、お前……。」
公生は絶句しながら戸惑っていた。民生は肩で息をしながら、詩音の手を握りしめ、倒れた公生を今度は睨むように顔を向けた。
「何も見えない。……。でも、これまでも…詩音だけは…僕のそばにいて…くれた。そしてこれからも……。親父、頼むから、ぼくから奪わないでくれ…。」
「大丈夫よ。私はここに、あなたのそばにいるわ。今までも、そしてこれからも。」
詩音はそう言って民生の手を握りしめた。
「今はもう夜なのか。目が見えるのかな。星がいっぱい見える。」
詩音はその言葉に応えるように民生の唇に自分の唇を沿わせた。
「そうよ。今はもう夜よ。あなたは私と星の夜にいるのよ。」
「ありがとう。」
そう言って、民生は静かになった。そのすぐ後、突然、民生は頭を抑えた。
「痛い。頭が。」
そう言って民生は気を失った。
民生は目覚めなかった。CT画像によれば、脳溢血が始まっていた。詩音ばかりでなく、他のメンバーも、もう民生の意識が戻らないことを知っていた。二回目の画像では、更に出血部位が広がっていた。
「もうすぐ、呼吸が乱れる。そして心臓も。」
公生はぽつりと言った。その通りだった。
葬儀式はその三日後だった。詩音は喪主を務めたが、突然吐き気に見舞われた。
妊娠三ヶ月目だった。
現代の先端医学でも、悪性胸膜中皮腫はほとんど助けることができないといっても良い。生検の手間と日数、診断の困難さ、進行の速さ。なによりも治療法のなさに、私達は立ち尽くす。分子標的薬は非常に効果的な薬だが、この癌には効くものがない。免疫療法は1グラム程度の癌でないと多勢に無勢である。いずれも現代医学が克服出来ていない問題だ。
他方、今後この病気は増加していくことが見込まれている。労働者ばかりではない。社会の様々な側面で働く人間は全てこの危険にさらされている。
願わくば、検査法、治療法が速やかに開発されんことを。