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三 家族

 ごとごとと酸素の音がする。5リットル。命を刻む音。言葉の代わりの音。何かを訴えているように聞こえる。


 ステージは三。民生が入院して既に一ヶ月が経っていた。既に数回胸水を抜いているが、次第に胸膜患部の腫れがドレナージを困難にし始めていた。アリムタと呼ばれるペメトレキセドにシスプラチンを加えた抗がん剤を続けているものの、この標準治療法でも腫瘍の増殖は抑えられていなかった。


 二ヶ月が過ぎ、何回めかの回診だった。民生は、話すことが少なくなっていた。それでも、詩音の顔を見ていつも微笑んでくれる。呼吸は苦しいはずだった。酸素吸入を始めてはいるが、既に流量は六を超えていた。

「もう胸水を抜くことはできないのですか。」

 民生の父、公生は呼吸内科部長にそう言った。

「現段階では、肥大化した胸膜が胸水部分へのアプローチを難しくしています。」

 呼吸内科部長の同席の下、詩音が公生に示した像影CTでは、胸膜全体が腫れていることは明らかだった。それを裏付けるように、呼吸の際の軋みもまたひどくなっていた。

 民生は目をつぶっている。公生はすぐ助けられないのかというように、詩音を睨んだ。


 次の日、呼吸内科部長を交えた治療法の検討会で、詩音は自分の夫を救いたい一心で無理筋の相談をしていた。

「この際、アバスチンを活用してみたいと思うのですが。」

 部長は、詩音が何をしたいのかを分かっていた。躊躇いながら部長は答えた。

「アバスチンは胸水に効果があるね。ただし、分子標的薬だから効果的だと言われているけど、胸膜の癌には効かないよね。」

「しかし、クランケが胸水に苦しんでいます。ドレナージが無理なら、これを試してもいいのではないでしょうか。」

「詩音ちゃん。よく勉強しているね。」

 横から、先輩達が心配顔で口を挟んできた。

「小細胞肺がんではないから、本当は処方できないと思うけど。」

「アバスチンは血圧を上げることになる。また、以前から活性化トロンボプラスチン時間もプロトロンビン時間も長くなっている。これは、がん細胞から血中に流れた組織因子によってミクロな血栓が大量に作られ、血小板が消費されつつあることを示している。これでは、出血したらそのまま止まらなくなるかもしれないよ。」

 いくつかの懸念が示されていた。しかし、詩音は目の前の障害をなんとか取り去りたかった。しかし、呼吸内科部長はまだ黙っていた。


 彼の考えがやっと示された。

「ドレナージはもう無理なのだね。」

「背中からのアプローチは限界です。」

「では前の方からアプローチしてみるのも一手ではないかな。それがダメなら、アバスチンを使おう。」


 次の日、詩音が民生の左胸を再度背中の方から挑んでいた。しかし、針は届かず、逆に肺組織を傷つけていた。

「もう無理だわ。」

 詩音は自分に言い聞かせるようにそう独り言ちた。詩音は自分の手の技に限界を見ていた。

 民生はその日の夕方、血痰を出した。それは、詩音が民生の肺胞を傷つけたことを意味していた。詩音は病室へ駆けつけた。

 ドアを開くと、公生が詩音を睨んでいた。

「民生が血を吐いたぞ。」

「すみませんでした。」

「すみませんじゃあわからないよ。何が起きてるんだよ。」

「ドレナージの針が肺までいってしまったのです。肺胞を一部傷つけてしまいました。」

「まったく何やっているんだよ。早く胸水をぬいてやってくれよ。」

「もうこれ以上は無理です。」

「貴女は下手だね。それとも医者になるべきではなかったのかな。じゃあ他の先生にやってもらいたいね。」

 公生はそう言い捨てて病室の外へ出て行ってしまった。


「血痰が出た?。それはドレナージを失敗したからじゃないの。前の方から針を書 刺せばいいじゃないか。」

 詩音の先輩はそう指摘して詩音を促していた。

「自信を持てよ。」

 詩音は前からも試したが、芳しくなかった。

 流石に民生は気づいていた。

「もうだめだな。」

「そうね。でも次の手を考えているわ。」

 そういう詩音の目を覗き込みながら、民生は詩音の感情を読み取っていた。

「うん。そうだね。」


 抗がん剤の第2ターン目が始まった。アバスチンはこのターンから併用された。それでも、胸水は改善しなかった。既に酸素は七に上げられていた。それでも、血中酸素は九〇を切ることが多くなつた。


「血中の酸素が八十五だよ。」

「普段こんなに血圧は高くないのに。」


 また普段の血圧が一〇〇〜六〇程度だったのが、一三〇〜九十六にまで上昇していた。

 次の日の朝、血圧が普通より高く、出血が止まりにくいことが端的に現れた。眼底出血。民生は両目が見えなくなっていた。明らかに癌からくる症状だった。

「このままでは危ないな。」

 呼吸内科部長は、そう指摘した。血管からの出血。それは、血液が止まりにくくなっていることを示していた。アバスチンをもう使うわけにはいかなかった。


「オブジーボを使おう。」

 呼吸内科部長はそう結論付けた。それは、もう他の治療法はないこと意味していた。

 詩音は悪性胸膜中皮腫の治療法を探し続けていた。ペメトレキセドにシスプラチンを加えた治療法はもちろん、オブジーボの処方、呼吸器外科の分野の胸膜切除剥皮術と胸膜外肺全摘術。しかし、オブジーボのような免疫療法は、癌が1グラム程度でなければ多勢に無勢、効きめがあるとは言えない。

 ステージ三の民生に施すことができる治療法は、知識を得るほど見えなくなった。


 求めることは、情報。

 何をしてやれば満足か?

 何を誰に質問すればいいのか?

 義父は全てを察しろと言う。

 分からないわ。

 何をきっかけにして理解すれば良いの?。


 そんならいい。

 あんたは頼りにならない。

 あてにしない。

 夫が元気な時から続く義父の

 非論理的な悪口雑言。

 それだけは変わらない、

 それだけ元気ということか。

 いや、何かから早く逃げ出したいのだろう。

 しかし逃げようと言う故に、追うものはさらに速い。


 酸素は、85

 血圧が高い

 呼吸は60


 民生の父は、今日も自分の職場を放り出して付き添いに来ていた。主治医の詩音を捕まえては答えのない質問をぶつけている。

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