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二 生検

 もう三月末だというのに、この部落では、雪が残る。雪解けの水は冷たく、時折降る雨も雪混じり。ほとんどの観光客は外国人。彼らも民生たちと同様に防寒具を着たまま、民家群の間を巡り歩いている。外国人はバスでこの地を訪れている。彼らがいなくなると店は閉まり、ほんの時折軽トラックで農具を運ぶ地元民のみ。閉じられた静寂な時空に埋もれる。


 白川郷の展望台への坂道。少し上がったところで立ち止まった民生は、天を仰いだ。

「疲れかなあ。休みが取れないからなあ。」

「一度呼吸器内科にきてよ。観てあげるから。」

「どこを観てくれるの。」

「胸に決まっているでしょ?。」

「そうだね。僕の肉体美を……。」

「何言っているの!。ガリガリのくせに。」

「詩音大先生も、ガリガリじゃないか。一部を除いて…。」

「一部ってどこよ。やらしい。」


 冗談を言い合いながら、駐車場へと戻る。予定では白川郷を後にして出来たばかりの高速道を高山市へ。そこに次の宿がある。

 高山は白川郷よりだいぶ下ったところだが、それでもまだ早春の水の流れに浸っていた。雪の残る民家の屋根、酒蔵、旧市街地、焼きだんご。川を越える度に背の高い民生の背中を押し、ゆっくりと歩き巡った。昼から一通り歩いて巡ると、もう夕刻。そろそろ飛騨牛を堪能しようと、高山駅へ向かった。その高山駅から南へ線路沿いに行くと、農協直営の飛騨牛レストランがある。


 一日中歩き回ったせいか、民生は少し苦しそうに歩いた。民生はあまり早く歩けなくなっていた。

「左胸の下が呼吸のたびに軋むんだ。」

「喘息かしら。」

「まるで胸の周りをベルトで締め付けているような……。」

「なにかしら?。」

「ブラみたいに締め付けているんだよ。」

「付けたことあるわけ?。」

「いや、ないよ。聞かれたから君がわかる比喩を使ったんだよ。」

 民生は豊かな詩音の胸を見ながら、おどけてみせた。

「やらしい。」

 思えば、詩音はこの時点で彼の特殊な肺がんの症状に気づくべきだった。


 高山から雪の残る平湯峠、安房峠を越えて松本へ抜け、二人は東京へ帰ってきた。もう直ぐ、インフルエンザのピークも終わる。


 次の週に、詩音は民生を呼吸器内科へ呼び出した。

「CTとレントゲンで見ると、左肺が真っ白よ。尋常じゃないわ。呼吸が苦しかったんじゃないの?。胸水を抜かないといけないわ。とりあえず入院して。」

「まだやり残した仕事がある。僕でないとできない細かい仕事が残っているんだ。明日からでいいか。」

「それなら、とりあえず、胸水と左肺の下の厚くなっている組織を取らせて……。オペ室は空いているかしら?。」

 この大学病院では、月曜日にオペをすることがほとんどない。そのまま補助の看護師を確保してオペ室を予約した。

 処置室はごった返していた。その患者たちをすり抜けながら、詩音は民生をオペ室へ連れて行った。


「斎藤看護師がお待ちです。」

 インターコムにオペ室から連絡が入った。

「斎藤看護師に繋いでください……。斎藤さん、太めの注射針を用意してくださいますか?。」

「太いのを刺すの?。」

 民生は不安な表情でおどけて見せた。

「大丈夫よ。この種の処置は慣れているから。」

 オペ室は静かな音楽が流れている。そこへ寝台に寝かされた民生を詩音たちが運んできた。

「裸になって。」

「じゃあ脱がせてよ。」

 いつになく民生がワガママを言った。冗談のつもりらしい。

「私は手を消毒するの。自分でやって。」

「いつも脱がせてくれないじゃないか。このときぐらいは世話してくれてもいいのに。」

 詩音は看護師たちの前で顔を真っ赤にさせた。看護師たちはこの医者と患者とのやりとりを、聴いている。マスクで顔は見えないが、目の動きは二人の間を移動している。民生は渋々術着に着替えた。うつ伏せに寝かされた民生の術着の下は詩音も見慣れた格好、つまりパンツ一枚だった。

「胸の中をケアしてくれるんだよね。じゃあどこを触ってくれるの?。」

 詩音は、一言言わざるを得なかった。

「やらしい。」

 詩音は民生の尻を思い切りつねって準備室へ行ってしまった。

「痛い!」

 民生の悲鳴に、ついに看護師たちから忍び笑いが聞こえた。


 オペ用の白衣に着替えた詩音は、手際よく生検を行った。民生は任せたというようになにも言わなかった。少し太めの針を背中から慎重に。まずは膜厚を増したと見える部分を刺す。硬く足のタコのような硬さ。あまり経験したことのない態様だった。

 力の限りに吸い出した組織は手早くホルマリン漬けにした。針はそのままに吸い続けると、赤黒い胸水が流れ始める。そのまま胸水のドレインを確保することができた。


 処置室へ戻ると、患者達が少なくなっていた。民生はそのまま処置室の一角に寝かされた。一時間もしないうちに900ccほど。詩音は赤黒い液体を見ながら、顔色を曇らせた。癌かもしれなかった。しかも、極めて珍しい胸膜の癌……。


「まだ仕事が残っている。」

「でも、今夜からでも入院した方が………。」

「もうすぐ目処がつく。だから、もう少し……。」

 民生はそういうとドレナージの針を刺したままで処置室から病理診断部へと出て行ってしまった。


 詩音は採取した組織も胸水も、病理診断部へと回した。民生には黙っていたが、至急だった。


 ………………………


 病理診断部には、至急の検査依頼が殺到していた。民男は特に仕事が丁寧で素早かった。至急とは言っても、直ぐに検査ができるわけではなく、呼吸器内科から病理診断科に届くのに半日、溶媒置換えに一晩、検体作成後の溶媒置換にもう一晩、そして免疫的染色……という具合。三日目に報告が出れば早い方だった。


 この日、民生のいる病理診断科には、たまたま急ぎの検体が重なっていた。器用な民生はそれらを手早く溶媒置換に処し、検体を作り上げていた。

「上原さん、申し訳ないんだけどもう一つ、至急の検体作成依頼が来ているわ。」

 先輩の女医が民生の前に最後の至急依頼を置いていく。

「了解しました。」

 ハキハキとした返事とともにその検体を受け取った。

「呼吸器内科部長、常盤宗男。」

 依頼人名はそう書いてあった。しかし、その依頼書の裏には、見慣れた詩音の走り書きが書いてあった。

 手早く処理をして明後日には結果を出す。至急の依頼があった検体群に目処を付け、自宅へ帰った。気になった詩音の走り書きが気になったからだった。しかし、その晩も次の晩も、詩音に会うことはできなかった。詩音の夜勤が続いたからだった。


 民生は他三日経っても入院しようとはしなかった。いくつかの至急の検体群について、結果が出そうだったからだった。

  検体を呼吸器内科に持ち込みながら、詩音による診察を受けた。

「これ、僕のだよね。……………calretinin,cytokeratin,WT1,throm- bomodulin,mesothelin,D2-40 などがあり,陰性マーカー として CEA,CA19-9,TTF-1 が示せるよ。悪性胸膜中皮腫だね。」


 詩音は民生の顔を見ることができなかった。見れば嘘がつけない。しかし、民生は詩音の態度から、自分の検体を自分が検査し、病名を明らかにした事実を受け入れた。


 ようやく詩音は口を開いた。

「今日から入院して。」

「そうだね。」


 二人とも口数が少なかった。この病気には標準治療がなく、非小細胞肺癌に用いられるペメトレキセドにシスプラチンを加えた抗がん剤しか知られていなかった。しかも、それらが効く可能性も少なかった。

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